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連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.55

遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#114〈前編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。

「#109〈後編〉」~「#113〈後編〉」は「カドブン」note出張所でお楽しみいただけます。
連載一覧ページはこちら ⇒ https://note.com/kadobun_note/m/m615d8f7367a1

これまでのあらすじ

閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家である姜竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、破山剣を手にした老人・青壺は、西楚の覇王・項羽によって始皇帝の陵墓に閉じ込められる――。

 二十六章 たんしょう

     行宮      元稹

  寥落古行宮
  宮花寂寞紅
  白頭宮女在
  閑坐説玄宗

     あんぐう      げんしん
 
  りようらくたり、いにしえあんぐう
  きゆう せきばくとしてくれないなり
  はくとうきゆうじよ
  かんしてげんそう


     (一)

 とうだいともされたあかりが、ちらちらと揺れている。
 せいは、女と向き合ったまま、黙っている。
 女もまた、黙ったまま、たくに視線を落としている。
 どちらも言葉を発しないまま、ときばかりが過ぎてゆく。
 ちゆうてん──
 かんたんの大街の東にある、そくていしやの土間だ。
 旅人のための宿だが、入口を入ったところが、飯店になっている。
 しかし、宿の客も、飯店の客も、どこにもいない。
 このひと月というもの、どういう客も、壺中天の扉をくぐってはいない。ふた月前までは、邯鄲の者が、たまに訪れることがあったのだが、今は、飢えた犬が、食いものの匂いを嗅ぎつけて、入ってくることがあるだけだ。
 その犬も、この半月は、姿を見せない。
 ほとんどの犬が、捕まえられて、食われてしまったのだろう。
 しんしようおうの五〇年(前二五七)──
 邯鄲は、秦の軍によって囲まれていた。
 そのため、食べものが、城の外から入ってくるということは、まず、ない。
 邯鄲中が、飢えていた。
 このままでは、いずれ、人が人を食うようになるだろう。
 弱い者たちから、人食いが始まる。
 そうなるのも、それほど遠くない先のことであろう。
 三年前──
 ちようへいの戦のおりに、秦の将軍はくに投降した、四十万を超えるちよう軍の兵が、あなに埋められている。
 今、趙の都である邯鄲城を囲んでいるのは秦のおう将軍が率いる兵だが、うっかり城門を開くと、何をされるかわからない。王齮軍でも、邯鄲の城内にいる民全員を食わせるだけの兵糧を用意しているわけではないのだ。略奪は当然のことだが、自分たちの食いものを守るため、邯鄲の民を殺すだろう。長平の戦の時と似たようなことがおこる。
 が――
 壺中天は、まだ、他の家よりはましであった。
 宿と飯店をやっていたため、よそよりは多少、食いもののたくわえがあったからだ。
 しかし、それも、もう底をつき始めている。
 新しく手に入れることのできる食べ物は、ほとんどない。
 王宮の食料が放出されたり、へいげんくんのような人物が、食客に命じて食いものを配ったり、そういうところに仕えている者が、食料を横流ししたり──そういうことがないと、まず、食いものは手に入らない。
 横流しされたものを手に入れるには、法外な金銭を要求されるので、貧しい者から飢えて死ぬか、家族を食べるようになってゆく。
 盧生と女は、これまで宿にあった食べものをかなりきりつめて食べてきたのだが、それにも限界がある。
 それでも、女の子供であるたんには、なんとか食わせてきたのだが、充分な量を与えてきたわけではない。
 さきほどまで、簞は、空腹のあまり、なかなか寝つかずにいたのだが、しばらく前にようやく眠ったところだった。
 簞は、もう、五歳になっている。
 その簞が眠ってしまえば、あとはもう自分たちも眠るだけなのだが、腹が減っていると、眠りが浅くなる。あまりに早く床について、眠れぬままずっともんもんとしているよりは、起きていた方がいい。
 しかし、起きていたからといって、することがあるわけではない。
 女を抱く気力も体力も、盧生にはもうなかった。
 女の方も、それは同じであったろう。
 そのまま、どれだけの刻が過ぎたかと思われる頃、音がした。
 扉をたたく音だった。
 最初は、小さく弱かった。
 耳には届いていたのだが、盧生も女も、それが、扉を叩く音であるとは、すぐに気づかなかったのだ。
 その音が大きくなって、ようやくふたりは、それが、壺中天の裏口の扉を叩く音だとわかったのである。
 大きくなったとはいえ、最初が小さかったため、今聞こえている音も、控えめなものであった。
 周囲に気づかれぬよう、中にいる者だけに聞こえるよう、叩いているのだとそれでわかる。
 壺中天にいる者が、まだ起きていると知っているのだ。
 灯りだ。
 周囲は、もう寝てしまっている家がほとんどだが、盧生と女はまだ起きている。点している灯りが、外へれて、それとわかったのであろう。
 盧生と女は、顔をあげて、互いにを見合わせた。

(後編へつづく)


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