KADOKAWA Group
menu
menu

連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.56

遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#114〈後編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。

>>前編を読む

 いったい、誰か。
 何者が、扉をたたいているのか。
 ものりか?
 いや、もの盗りならば、強引に扉を破って押し入ってくればいい。ここならば、食いものがまだあるだろうと、考えた者がいるのかもしれない。
 せいは、壁に掛けていた剣を取り、そのつかを右手に握って鞘を払った。
 女は、包丁を手にした。
 盧生は、扉の前に立ち、
「誰だ?」
 低い声で問うた。
「怪しい者ではない」
 低い男の声だった。
 充分に怪しい。
 名を、言わなかった。
 言ったとしても、偽名を使われたらそれまでだ。
 少なくとも、知り合いではないとわかった。
 外から、扉に力が加えられたのがわかった。
 かんぬききしみ、扉の中央がたわんで透き間ができた。そこから、何かが投げ込まれて土間に落ちた。
 盧生は、それを拾いあげた。
 女が身につける首飾りだとわかった。
 あかりにかざして、見る。
 (ラピスラズリ)と、いしをあしらって、金の鎖につないだものだ。庶民が身につけられるようなものではない。
「なに⁉」
 女が問う。
 盧生は、無言で、それを女に向かって放り投げた。
 女は、手にしたそれを見て、
「どういうこと……」
 小さい声で、つぶやいた。
「何の用だ」
 盧生が問う。
「中に入れてくれ。少し休ませて欲しい……」
 さっきと同じ、わざと低めた男の声がする。
 うそだと思った。
 休みたいだけで、扉を叩き、声をかけてきたのではなかろう。
 しかし、その声は、切羽つまっていた。
「追われているのか⁉」
 すこし沈黙があって、
「そうだ」
 うなずく声がした。
「少し、退がれ」
 盧生が言うと、扉の向こうから足音が聞こえた。
 ひとりの足音ではなかった。
 何人かの人間が、退がったのだと、それでわかった。
 盧生は、扉のすぐ内側に立ち、こちらから扉を押して、中央に透き間を作った。
 そこから外を見た。
 四人の姿が見えた。
 月明りで、四人の様子が見てとれる。
 ふたりは男。
 ひとりは女。
 そして、女の右手を小さな左手で握って、子供がひとり立っていた。
 盧生は、後方を振り返り、女に向かって無言で顎を引き、うなずいてみせた。
 開けるぞ──
 という意思表示だ。
 女は、無言でうなずいた。
 閂をはずして、扉を開けると、夜気と共に四人が壺中天の中に入ってきた。
 盧生は、すぐに扉を閉め、閂をかけた。
 あらためて、盧生は、灯りのもとで四人を見た。
 四人とも、身にまとっているものは、見すぼらしく、盧生たちが着ているものとさほどかわりはない。
 しかし、顔や、手や腕などに、汚れはない。身分をいつわるために、わざと汚ないものを身につけているのだろう。
 四人とも、それほどせているようには見えなかった。
 今のかんたんで痩せていないということは、充分食べているということだ。ある程度、金が自由になる者でないと、食料は手に入らない。
 痩せてない──それだけで、この四人が多少の身分がある者とわかる。
 男のうちのひとりは、まだ若い。
 おそらくは、この自分よりも──と盧生は思う。
 もうひとりは、としの頃なら、四〇歳を超えているであろうか。
 入ってくる姿にも、今、立っている姿にも、その男にはなんとも言えない風格のようなものがある。
 どうやら、外から声をかけてきたのは、この男らしい。
 女は、まだ若かった。壺中天の、今包丁を握っている女よりも、若そうであった。
 その女の右手を左手で握り、っと唇を結んでいる男の子は、三歳くらいであろうか。
 今しがた投げ込んできた首飾りといい、身につけているものと、実際の身分との差があるのは明らかだった。
「ありがたい。恩にきる」
 年配の男が言った。
あって、我らの名は言えぬ。知らぬ方が、そなたらのためだ」
 そうだろうと、盧生は思った。
 事情は、かぬ方がいい。
「少し休んだら、出てゆく。女と子供は、ここに置いてゆく。朝になったら、ふたりは勝手に出てゆくので、ひと晩、ここに泊めてやって欲しい……」
 その言葉で、あらためて、盧生は女を見た。
 美しい女だった。
 壺中天の女も、美しさでは、この女にひけをとらないが、今は、痩せて、疲れきり、生気がない。ただ、青みがかった瞳だけをりんりんと光らせて、四人を見つめている。
「我らは食べものはいらぬ。湯を少しもらえぬか──」
 男は言った。
 壺中天の女は、ようやく包丁をたくの上に置いて、手にしていた首飾りを懐に入れた。
「ただ、その子には、何か食べものがあれば……」
 壺中天の女は、その用意をはじめた。
 湯と、わずかな量のかゆが出された。
 粥を出したのは、子供にだけだった。
 男ふたりと女は、湯をみるように飲んだ。
 しかし、男の子は、その粥を口にするなり、顔をしかめて、口に入れたものを土間に吐き出し、
「いらない」
 そう言って、碗を卓の上に置いた。
せい
 女が、しかるように声をかけたが、子供は、黙っているだけだった。
 しばらくして、男ふたりは、いったん外の様子をうかがってから、
「では、ゆく」
 そう言った。
「必ずお迎えにまいります」
 男は、女と子供にそう言った。
「必ずじゃ」
 若い方の男も、女に向かってそう言った。
 女のに宿っているのは、涙と不安の色だった。
「そなたたちとゆければよかったのだが、追手の眼がある。置いてゆくしかない……」
「必ずですよ」
 女が言うと、
「必ず」
 男は、そう言って、扉を開け、ふり向いた。
「女」
 壺中天の女に、声をかけてきた。
「さっき懐に入れたもの、それは一度に売るのではないぞ。ばらばらにして、少しずつ、違うところへ売るのだ──」
 壺中天の女は、首飾りを入れた懐に手をあて、うなずいた。
 男が口にしたことの意味に気がついたようだった。
 そして、男ふたりは、外の闇の中へ消えていった。
 女と子供は壺中天でひと晩を過ごし、翌朝出ていった。
 盧生と壺中天の女は、もらった首飾りを、ばらばらにして、食べものにかえた。考えていたよりも、わずかな量にしかならなかったが、それが、盧生、女、簞の命をしばらくながらえさせることになったのは間違いない。
 盧生と壺中天の女が、男の名がりよ、若い男の名が、女が子楚の妻で、子供の政という男の子が、秦の皇太子であることを知ったのは、しばらくしてからだった。
 この政が、後に自らを始皇帝と名のるようになることなど、当然ながら、盧生も、壺中天の女も、まだその時は知らなかったのである。

(つづく)


関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2025年4月号

3月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2025年5月号

4月4日 発売

怪と幽

最新号
Vol.018

12月10日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP