遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#114〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
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いったい、誰か。
何者が、扉を
もの
いや、もの盗りならば、強引に扉を破って押し入ってくればいい。ここならば、食いものがまだあるだろうと、考えた者がいるのかもしれない。
女は、包丁を手にした。
盧生は、扉の前に立ち、
「誰だ?」
低い声で問うた。
「怪しい者ではない」
低い男の声だった。
充分に怪しい。
名を、言わなかった。
言ったとしても、偽名を使われたらそれまでだ。
少なくとも、知り合いではないとわかった。
外から、扉に力が加えられたのがわかった。
盧生は、それを拾いあげた。
女が身につける首飾りだとわかった。
「なに⁉」
女が問う。
盧生は、無言で、それを女に向かって放り投げた。
女は、手にしたそれを見て、
「どういうこと……」
小さい声で、つぶやいた。
「何の用だ」
盧生が問う。
「中に入れてくれ。少し休ませて欲しい……」
さっきと同じ、わざと低めた男の声がする。
休みたいだけで、扉を叩き、声をかけてきたのではなかろう。
しかし、その声は、切羽つまっていた。
「追われているのか⁉」
すこし沈黙があって、
「そうだ」
うなずく声がした。
「少し、
盧生が言うと、扉の向こうから足音が聞こえた。
ひとりの足音ではなかった。
何人かの人間が、退がったのだと、それでわかった。
盧生は、扉のすぐ内側に立ち、こちらから扉を押して、中央に透き間を作った。
そこから外を見た。
四人の姿が見えた。
月明りで、四人の様子が見てとれる。
ふたりは男。
ひとりは女。
そして、女の右手を小さな左手で握って、子供がひとり立っていた。
盧生は、後方を振り返り、女に向かって無言で顎を引き、うなずいてみせた。
開けるぞ──
という意思表示だ。
女は、無言でうなずいた。
閂をはずして、扉を開けると、夜気と共に四人が壺中天の中に入ってきた。
盧生は、すぐに扉を閉め、閂をかけた。
あらためて、盧生は、灯りのもとで四人を見た。
四人とも、身に
しかし、顔や、手や腕などに、汚れはない。身分をいつわるために、わざと汚ないものを身につけているのだろう。
四人とも、それほど
今の
痩せてない──それだけで、この四人が多少の身分がある者とわかる。
男のうちのひとりは、まだ若い。
おそらくは、この自分よりも──と盧生は思う。
もうひとりは、
入ってくる姿にも、今、立っている姿にも、その男にはなんとも言えない風格のようなものがある。
どうやら、外から声をかけてきたのは、この男らしい。
女は、まだ若かった。壺中天の、今包丁を握っている女よりも、若そうであった。
その女の右手を左手で握り、
今しがた投げ込んできた首飾りといい、身につけているものと、実際の身分との差があるのは明らかだった。
「ありがたい。恩にきる」
年配の男が言った。
「
そうだろうと、盧生は思った。
事情は、
「少し休んだら、出てゆく。女と子供は、ここに置いてゆく。朝になったら、ふたりは勝手に出てゆくので、ひと晩、ここに泊めてやって欲しい……」
その言葉で、あらためて、盧生は女を見た。
美しい女だった。
壺中天の女も、美しさでは、この女にひけをとらないが、今は、痩せて、疲れきり、生気がない。ただ、青みがかった瞳だけを
「我らは食べものはいらぬ。湯を少しもらえぬか──」
男は言った。
壺中天の女は、ようやく包丁を
「ただ、その子には、何か食べものがあれば……」
壺中天の女は、その用意をはじめた。
湯と、わずかな量の
粥を出したのは、子供にだけだった。
男ふたりと女は、湯を
しかし、男の子は、その粥を口にするなり、顔をしかめて、口に入れたものを土間に吐き出し、
「いらない」
そう言って、碗を卓の上に置いた。
「
女が、
しばらくして、男ふたりは、いったん外の様子をうかがってから、
「では、ゆく」
そう言った。
「必ずお迎えにまいります」
男は、女と子供にそう言った。
「必ずじゃ」
若い方の男も、女に向かってそう言った。
女の
「そなたたちとゆければよかったのだが、追手の眼がある。置いてゆくしかない……」
「必ずですよ」
女が言うと、
「必ず」
男は、そう言って、扉を開け、ふり向いた。
「女」
壺中天の女に、声をかけてきた。
「さっき懐に入れたもの、それは一度に売るのではないぞ。ばらばらにして、少しずつ、違うところへ売るのだ──」
壺中天の女は、首飾りを入れた懐に手をあて、うなずいた。
男が口にしたことの意味に気がついたようだった。
そして、男ふたりは、外の闇の中へ消えていった。
女と子供は壺中天でひと晩を過ごし、翌朝出ていった。
盧生と壺中天の女は、もらった首飾りを、ばらばらにして、食べものにかえた。考えていたよりも、わずかな量にしかならなかったが、それが、盧生、女、簞の命をしばらくながらえさせることになったのは間違いない。
盧生と壺中天の女が、男の名が
この政が、後に自らを始皇帝と名のるようになることなど、当然ながら、盧生も、壺中天の女も、まだその時は知らなかったのである。
(つづく)