遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#115〈前編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
これまでのあらすじ
閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家である姜竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、破山剣を手にした老人・青壺は、西楚の覇王・項羽によって始皇帝の陵墓に閉じ込められる――。
二十六章 古 譚 抄
(二)
女は、
その時、女は、確かに、自分の子を――
喰べながら泣いていた。
いったい、何があったのか。
どうしていいかわからなかった。
「おれは、おまえに、おまえたちに喰われるために、もどってきたのだよ……」
本当だった。
本当に、そのつもりだったのだ。
どうやら、自分は、女に
どうせ、死ぬなら、まだ、自分の
そのために、もどってきたのだ。
そうしたら――
女が、簞を食べていたのである。
どうして――
やっと、
そうしたら、口と手を血まみれにして、女がこちらを振り返ったのだ。
あまりのことに、かろうじて残っていた力が抜けた。
そのまま、土の上に腰が落ちた。
他に、どうすれば、よかったのか。
女に、何か、声をかけてやればよかったか。
黙って、女の肩を抱いてやればよかったか。
一緒に簞の肉を喰えばよかったか。
何もわからない。
どうすればよいかなど、こんな時にわかろうはずもない。
ただ、そこにへたり込むことしかできなかった。
やっとの思いでここにたどりつき、精も魂もつき果てていた。
そこに、腰を落とすしかなかった。
ただ、確認しなければならないことがあった。
それを知るには、問うしかない。
「簞を……」
そのあとの言葉が出てこなかった。
“簞を殺して喰ったのか?”
それを
だが、言葉にならなかった。
女が簞を喰っていたのは事実である。
しかし、殺して喰ったのと、自然死した簞を
だが――
それを問うて、答えを聞いて、それがどうだというのか。
知って、何が変るのか。
どういう答えなら、よいのか。
問う言葉が出なかった。
「簞が……」
と、女は言った。
「簞のことが、あまりにも……」
そこまで、女はやっと口にした。
もう、いい……
そう言おうとしたのだが、その言葉も出てこなかった。
何をどうしていいのかわからない。
もう、ここで、何もしない。
動かない。
そのまま、ふたりで、ここで死んでしまうのならそれでいい。
その時――
何かの
夜の風が入ってきた。
扉が開いたらしい。
入ってきた時、
誰かが入ってきたようだ。
誰でもいい。
強盗なら強盗でいい。
盗まれて困るものなど、もう、ない。
ここで、おれたちを殺していってくれるのなら、ありがたかった。
入ってきた誰かは、立ち止まって、女と盧生を見つめているようであった。
「おお、なんと……」
男の声がした。
この土間の光景を見て、入って来た者、男は、何事か察したようだった。
「気になっていたので、足を向けてみたのだが、なんという……」
どこかで、聞いたことのあるような声だった。
盧生は、その声の方を見やった。
老人だ。
見覚えはあったが、すぐには誰だかわからなかった。
しかし、見ている間に思い出した。
あの老人だ。
一年前か、もう少し前か。
この壺中天で会った老人だ。
青い壺を枕にして、ここで、自分はうたた寝をした。
そして夢を見た。
人ひとり、一生分の夢だ。
あの時、その夢を、この自分に見させた老人であった。
(後編へつづく)