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連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.57

遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#115〈前編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。

これまでのあらすじ

閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家である姜竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、破山剣を手にした老人・青壺は、西楚の覇王・項羽によって始皇帝の陵墓に閉じ込められる――。

 二十六章 たんしよう

     (二)

 女は、き続けていた。
 その時、女は、確かに、自分の子を――たんを喰っていた。
 喰べながら泣いていた。
 いったい、何があったのか。
 せいは、土間の土の上にへたり込んでいた。
 どうしていいかわからなかった。
「おれは、おまえに、おまえたちに喰われるために、もどってきたのだよ……」
 本当だった。
 本当に、そのつもりだったのだ。
 ちゆうてんまでもどって、ここで、女の前で自ら命を断つつもりだったのだ。
 どうやら、自分は、女にれていたらしい――それがわかった。それで覚悟した。
 どうせ、死ぬなら、まだ、自分の身体からだに少しでも肉が残っているうちがいいだろう。いくら、おれを喰えと言っても、女は、おれを殺すことをためらうかもしれない。しかし、おれが、おれ自身を殺すのなら、死んだおれの肉を喰うだろう。
 そのために、もどってきたのだ。
 そうしたら――
 女が、簞を食べていたのである。
 どうして――
 やっと、うようにして帰ってきたのだ。
 そうしたら、口と手を血まみれにして、女がこちらを振り返ったのだ。
 あまりのことに、かろうじて残っていた力が抜けた。
 そのまま、土の上に腰が落ちた。
 他に、どうすれば、よかったのか。
 女に、何か、声をかけてやればよかったか。
 黙って、女の肩を抱いてやればよかったか。
 一緒に簞の肉を喰えばよかったか。
 何もわからない。
 どうすればよいかなど、こんな時にわかろうはずもない。
 ただ、そこにへたり込むことしかできなかった。
 やっとの思いでここにたどりつき、精も魂もつき果てていた。
 そこに、腰を落とすしかなかった。
 ただ、確認しなければならないことがあった。
 それを知るには、問うしかない。
「簞を……」
 そのあとの言葉が出てこなかった。
 “簞を殺して喰ったのか?”
 それをきたかった。
 だが、言葉にならなかった。
 女が簞を喰っていたのは事実である。
 しかし、殺して喰ったのと、自然死した簞をらったのとでは、意味が違う。
 だが――
 それを問うて、答えを聞いて、それがどうだというのか。
 知って、何が変るのか。
 どういう答えなら、よいのか。
 問う言葉が出なかった。
「簞が……」
 と、女は言った。
「簞のことが、あまりにも……」
 そこまで、女はやっと口にした。
 もう、いい……
 そう言おうとしたのだが、その言葉も出てこなかった。
 何をどうしていいのかわからない。
 もう、ここで、何もしない。
 動かない。
 そのまま、ふたりで、ここで死んでしまうのならそれでいい。
 その時――
 何かのきしむ音がした。
 夜の風が入ってきた。
 扉が開いたらしい。
 入ってきた時、かんぬきを掛けるのを忘れていたのだ。
 誰かが入ってきたようだ。
 誰でもいい。
 強盗なら強盗でいい。
 盗まれて困るものなど、もう、ない。
 ここで、おれたちを殺していってくれるのなら、ありがたかった。
 入ってきた誰かは、立ち止まって、女と盧生を見つめているようであった。
「おお、なんと……」
 男の声がした。
 この土間の光景を見て、入って来た者、男は、何事か察したようだった。
「気になっていたので、足を向けてみたのだが、なんという……」
 どこかで、聞いたことのあるような声だった。
 盧生は、その声の方を見やった。
 老人だ。
 見覚えはあったが、すぐには誰だかわからなかった。
 しかし、見ている間に思い出した。
 あの老人だ。
 一年前か、もう少し前か。
 この壺中天で会った老人だ。
 青い壺を枕にして、ここで、自分はうたた寝をした。
 そして夢を見た。
 人ひとり、一生分の夢だ。
 が覚めてみれば、眠る前に煮はじめたあわがゆが、まだ煮あがっていなかった。
 あの時、その夢を、この自分に見させた老人であった。

(後編へつづく)


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