遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#115〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
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(三)
体重を足に乗せた途端、いつ、床石が崩れ落ちるかわからないからだ。
これまでに、三カ所、そういう場所があった。
敷かれている石が、わずかな重量で抜け落ち、周囲の床石が一緒に崩れて、落ちそうになったのだ。
ひとつ目の穴は、底の見えない、深い穴になっていた。
ふたつ目の穴は、穴の底から、ごうごうという水の流れる音が響いてきた。音からすると、かなりの水量であるとわかる。水が深ければ、落ちた瞬間、命は助かるかもしれないが、流れる水にどこかへ運ばれて、結局命を落とすことになるだろう。
水が流れていなくても、生きて穴から
三つ目の穴は、深くはなかったが、底から、
しかし、悪い兆候ではない。
自分が踏んで、穴になったところ以外に、穴の開いた箇所がなかったからである。それは、つまり、この洞窟に、これまで誰も侵入した者がいないということだからだ。
この洞窟が閉じられてから、最初にここに入ってきたのが自分であるということだ。
自分が最初――
それは、これまで、誰も、
これまで、落とし穴の他には、踏んだ石によって、天井が崩れ落ちてきたり、壁から矢が飛んできたりする所もあったが、呂尚は、それらを上手にかわしてきたのである。それができたのも、『異神異怪経』が手元にあったからだ。
『白沢図』について、説明しておきたい。
軒轅こと
黄帝が、東の浜にたどりついたところ、ここに白沢が現われたというのである。
白沢、
このことは、
白沢は言う。
「
と。
白沢は、そのひとつひとつの怪異や、もののけ、妖怪について細かく語った。
その白沢の語ったことについて、黄帝は供の者に書きとらせ、妖魅についての図解もそれに添えた。
これを、一巻の書としたのが『白沢図』である。
その妖魅の
言うなれば『妖怪図鑑』のようなものだ。
たいていの妖魅は、出合った時、『白沢図』に記されている真の名を唱えれば逃げてゆくというのである。
『
「その名呼べば去る」
と、記されている。
どうして、真の名を言われると妖魅が去ってゆくのか。
妖魅の名を口にするのは、自分はおまえの本当の名を知っているぞ――つまり、いつでもおまえを殺すことができるのだぞ、ということを、相手に知らしめるためである。
誰が語り、誰が書いたかはともかく、『白沢図』が実際にこの世に存在した書であるのは言うまでもないが、現在その完本は残されていない。
仮にそれが、実際に黄帝によって残されたものならば、おそらく、
始皇帝は、神仙や不死を信じていたと思われる。それはつまり、妖魅やもののけの存在も信じていたということだ。
ならば――
もののけの禍をおそれる始皇帝は、おそらく『白沢図』の原本のようなものは燃さずに手元に残し、場合によっては、その原本や関連の書を、自らの陵墓――始皇帝陵の、自分の
自分の死後の魂の安全を守るためである。
あるいは、再びこの地上に
話をもどしたい。
『白沢図』の原本および完本が世にないことはすでに書いた。
しかし、その書の存在や内容が今日知られているのは、中国の多くの古書に、その各条の内容が、引用というかたちで記されているからである。その引用部分を集めて、元の原本を可能な限り再現するということは、やられている。中国には、そのための学問的技術も方法論もあるのである。しかしながら、それをもってしても、再現できたのはわずかな部分でしかない。
そして、『白沢図』の注釈書の存在も幾つか、漢代から知られているのだが、この注釈書も、その名のみ知られているだけで、内容がわかるような原本は、残されていないのである。『異神異怪経』も、そのひとつである。
ともあれ、呂尚は、右手に
すでに、呂尚は、老人である。
若くはない。
手にした杖で、先の石をおさえながら、前に進んでゆくのだが、この洞窟が、自然にできたものでないことは、すでにわかっている。
人が作ったものだ。
それは、この洞窟が、一定の大きさを保って、続いているからだ。
松明の炎に、赤く影を揺らしている天井部分も、壁も、荒っぽく削ってあるのがわかる。
呂尚が立ち止まった。
呂尚の正面、古い木製の扉が、行く手を
扉の表面に、
多くの人間や、妖獣、獣が戦っている。
熊もいれば、龍や虎、天人、飛人、の姿も描かれている。
軒轅が、
杖を握ったまま、左肩を、扉の中央にあて、押すと、重い
松明を前にかざしながら、中へ入ってゆく。
ざわっ、
と、何かの気配が、ざわめいた。
ひとつ、ふたつの気配ではない。
来た、
来たぞ。
ついに。
ここに。
来た‼
何者かの、
中へ、入ってゆく。
思いの外、小さな部屋であった。
石の壁で囲まれた空間――
中央に、石の台があり、その中央に、首の無い死体が仰向けになっている。
両手首、両足首が、おそろしく太い鎖で、その石の台に固定されていた。
その死体は、すでに
そうか、これは、ここにあったのだな――
呂尚は、心の中でつぶやいた。
奥の、右の隅にある木製の手押し車のようなもの――
しかし、捜しているのは、それではない。
松明を持ちあげて、左の奥へ光を届けると、
あった――
隅の壁に、ひと振りの、
あったぞ。
これが、軒轅剣でないのなら、他の何だというのか。
千年以上も昔、黄帝が、これを使ってこの木乃伊の首を落としたのだ。
左の隅まで歩いてゆき、杖を捨て、剣の鞘を握って持ちあげた。
ひいっ!
悦びの声が、またあがる。
ついに!
ついに、この日が来た‼
もう、声のことなど、気にしている時ではない。
幽世のもののけたちに関わっている時ではない。
これを手にしたのなら、ここに長居する必要はない。
呂尚がそう思った時――
がちゃり、
と、音がした。
鎖の鳴る音だった。
(つづく)