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連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.45

遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」#109〈前編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。

これまでのあらすじ

閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。さらに姜一族の南家である姜竜鳴の娘・鳴花と共に常羊山に向かうことになった。時代は遡り、破山剣を手にした老人・青壺は、西楚の覇王・項羽によって始皇帝の陵墓に閉じ込められる――。

 二十四章 せい

     (六) 

 どれだけ時が過ぎたのか、せいにはわからなかった。
 すでに、羊の肉は腐臭を放っている。
 どれほど腹が減っても、もう、口の中には入れたくない。
 炭に近くなるまで焼けば、なんとか食えたのが、どのくらい前であったろうか。二日前か、三日前か。
 しかし、肉を焼くためには火が必要であり、火を燃やすためには、燃えるものが必要なのは言うまでもない。しかし、その燃やすものが、もう、ないのだ。
 羊の身体からだに刺さっていた矢を焼き、見つけた数少ない木製の像まで焼いてしまった。
 この地下宮に、燃やせるものは極端に少なかった。
 ぎよくも、すいも、のうも、金も、燃やすことができなかった。
 やっと見つけた、ちくかんは、すでに全部焼いてしまった。竹簡だけで三日はもったであろうか。
 この間に、見つけられなかったのは、水だ。
 そして、こうていが用意していたかもしれない秘密の出入口だ。
 それは、両方とも、ついに見つけられなかった。
 そのふたつを捜すのにも、竹簡を燃やした灯りを使ったので、竹簡は、驚くほどの早さでなくなってしまったのだ。
 しかし、もしも、燃やすものがあったところで、肝心の水がないのだ。口の中がからからに乾いていて、んだものを、もう吞み込むことができなくなっていた。
 無理をして、傷んだ肉を生焼けのまま口に入れたので、激しい下痢をして、さらに体内の水分を外に出してしまったのだ。
 舌で口の中を撫でても、かさかさという音が聴こえるくらいだ。
 もう、動けない。
 動く気力もない。
 ただ、死を待つだけだ。
 やるだけのことはやったか。
 心残りは、あの女のことだけだ。
 しかし、動けないのではどうしようもない。
 真の闇が、青壺を包んでいる。
 冷たい、土のような闇。
 あの始皇帝の遺体がある場所で死ぬというのは、なんとも因果なことだった。
 胡燈ランプの油も、すでに、ない。
 どこかに、人魚のあぶらがあるのなら、それに灯りをともしてもいいが、死期を先にのばすことの役には立たぬだろう。いや、その脂を舐めれば、多少の喉の渇きはおさまるだろうか。
 しかし、思っても、もはや身体を動かすことはできない。
 死にたいのか、死にたくないのか、もはやそれもわからなくなっている。
 身体が痛い。
 石の床の上に長時間身体を横たえているからだ。
 今は、身体の左側を下にして横になっているのだが、この体勢を変えねばならない。
 身をねじって、なんとか仰向けになる。
 これが、生きている間にできる最後の寝返りかもしれない。
 左手と右手を、左右に伸ばす。
 と──
 左手の中指の先が、何かに当った。
 何か?
 身体をよじって、その指先に触れたものの感触を確かめる。
 すぐに、何かわかった。
 しばらく前までやっかいになっていた、胡燈だった。
 胡燈をつかみ、引き寄せて、腹の上にのせる。
 多少の役にはたったが、すでにその胡燈は役目を終えている。
 腹の上にのせた胡燈の腹を、さすった。
 それは、何げない動作だった。
 しかし、その時、ふいに、周囲がぼんやりと明るくなった。
 何事が起こったのか。
 もうろうとなった意識が、実際には存在しない明りを見ているのか。
 そうではなかった。
 胡燈の口から、何かの灯りが洩れているのである。
 りんこうのような、青い光だ。
 それが、芯を差す口から洩れ出ているのである。
 いや、洩れ出ているのは、薄い煙のようなものだ。
 その煙が光っているのである。
 出てくるにしたがって、その煙は輝きを増し、青壺の左の石畳の上に凝って、何かのかたちを作ろうとしているようであった。
 それは、人の姿となった。
 青壺は、知らず、上体を起こし、胡燈を床に置いて、その人影を見た。
 それは、異国の老人の姿となった。
 頭に、布のようなものを巻きつけた、白髪はくぜんの老人だ。
 しかし、その背丈は、幼児ほどしかない。
 そして、その身体が、薄く光っている。
 その頭から、光る糸のようなものが出ていて、その糸は胡燈の口へとつながっていた。
「呼んだかね、お若いの」
 老人は言った。
「い、いや、呼んでない」
「呼んだよ。呼ばれたから、わしはここに姿を現わしたのだ」
「呼んでない。おれは、ただその胡燈をこすっただけだ」
「それが、このわしを呼んだことになるのさ、お若いの」
「おれは、もう、若くない。ごらんの通りの爺だよ」
「いいや、たとえ、あんたが百歳であっても、このわしの歳から見れば、ただの若僧だよ」
「いったい、あんた、誰なのだ」
「この胡燈の中に閉じ込められておるだよ。人の欲望を三万回叶えたら、わしは自由になれるのでな。それが、わしの仕事じゃよ」
「仕事?」
「このわしを呼び出した者の願いごとを叶えてやるのが仕事さ」
「願いごと?」
「願いごとは三つ。わしにできることなら、いかなる願いごとでも叶えてしんぜよう」
「何でもいいのか」
「もちろん。しかし、できぬことを望んでしまったら、それだけで、ひとつ願いごとは減ってしまう。それから、今、あんたは、何でもよいのかと、このわしに問うた。それにわしはもちろん、と答えた。まだ始まっておらんから、それはよしとしておくが、もしもいざ願いごとが始まってしまっていたら、今の質問に、わしが答えた時点で、願いごとをひとつ使ってしまったことになる」
 え?
突然現われて、いったいこの老人は何を言っているのか。
「信ずる信ぜぬは、あんたの自由じゃ。しかし、噓でもいいから、試してみてあんたの損になる話ではなかろうよ」
 もっともなことを、この老人は言った。
「どうだね。このような、小さな、古い胡燈の中から、わしのような者が出てきたのじゃ。これは、大いなる不思議ではないのかね。もしもこれがまやかしなら、今、あんたが見ているこの光景をなんと説明するかね。あんたが見ているわしは、あんたの心が見せている幻かね。あんたが、今見えているものを信ずるなら、このわしの言うことを、まずは信ずるしか、他に手はあるまいよ」

(後編へつづく)


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