【連載小説】生死を賭けた闘いを生き延びた遣唐使・井真成は、仲間たちと共に杜子春に率いられ、旅に出る――。夢枕獏「蠱毒の城――月の船――」#95〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
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食料が、外から入ってこなくなった。
それでも、最初の二カ月は、節約しながらもそこそこは食べることができた。次の一カ月は、量を減らし、次の一カ月は食べる回数を減らした。次の一カ月は、城内の犬や猫を食い、次の一カ月は、普段は食わない雑草や、木の根も食べた。
食い物がなくなって、女に、出てゆけと言われるかと思ったのだが、そういうことはなかった。自分がいれば、外で犬や猫を捕えてくるし、草や木の根を掘ることもできた。それに、自分がいる方が、女にとっても心強いのだろう。
人を食べるようになったのは次の一カ月からだった。
城内で、食い物といえば、人間しかいなかったからだ。はじめの一カ月は弱い者が食われ、次の一カ月は身内の妻や子が食われるようになり……
それが、今も続いているのである。
もう、自分が人ではないような気がしている。
一番最初に、人の肉を食うようになったのは、いつだろう。
ひと月半ほど前か、ふた月ほど前か。
きっかけは、この部屋だった。
その晩も、こうやって、寝台の上に仰向けになっていたのだ。
動くと腹が減るので、動かないようにしていたのだ。
そうしたら、女がやってきたのだ。
夜だ。
みしり、
という音がして、人の気配があった。
その気配が近づいてくる。
最初は、もちろん誰だかわからなかった。
盗人か!?
一瞬、身体を緊張させて、上半身を起こし、こういう時のためにと、枕元の壁に立てかけておいた剣を手に取った。
部屋に入ってきたのは、女だった。
その時は、窓が開いていたので、そこから月光が差していた。
その月明りの中に、女が立っていたのである。
瘦せていた。
しかし、瘦せた分、その顔や姿に、
しかも、頰には紅を
いったん手に取った剣を、また壁に立てかけて、
「どうしたのだね。何かあったのかね」
盧生はそう問うた。
女は、無言だった。
美しくやつれた、妖物か魔物のようである。
女は、一歩、二歩、三歩と近づき、盧生がいる寝台の横に立った。
女の妖しく光る眸が、盧生を見下ろしている。
「あなた、わたしと、やりたいのでしょう……」
女の唇が動くのが見えた。
「知ってたわよ。いつも、あんな
何が起こっているのか、盧生には、すぐにはわからなかった。
「やらせてあげる……」
女がつぶやいて、盧生の上体にしがみついてきた。
そのまま、上体を仰向けに倒されて、女が上から
女の光る眸が、妖しい力を自分の眸から盧生の眼にこぼし、体内に注ぎ込もうとしているかのように、見下ろしている。
「だから、食べものをとってきてちょうだい。わたしと、簞のために……」
あの晩からだ。
あの晩、自分はあの女にとり
女の
女の
女の、とらわれの身になったのだ。
食べものをとってきて──
そんなことを言ったって、食べものといえば、もう、人しかいないのだ。
さもなくば、王宮か、
しかし、そんなことをしたら、たちまち殺されて、こっちが食われてしまう。
そして、あの晩から、おれは人間でなくなったのだ。
女は、おれが、食べものをとってくると、ひどく喜んだ。
その晩は、その妖しい身体を、おれの好きなようにさせてくれたのだ。
瘦せた女の身体も、おれには好ましかった。
脂肪の落ちた乳房も、おれにはいっそう官能的だった。
貪りあった。
自分の体温をすっかり女の身体に移し、女の体温を全部自分の体内に移す。
もう、どうなってもいい。
あの時、おれは、おれでなくなったのだ。
いや、本当のおれになったのか。
そんなことも、もう、どうでもよくなっていた。
おれが、食べものをとってきた晩は、必ず女はおれの寝台に忍んできた。
おれだって、瘦せて、力はなくなり、眼は
それでも、あそこだけは、別の生き物のようにふくれあがって、凶暴な獣のようになって、女肉を貪った。
そんなことを思い出して、盧生は、まだ眠れずに、寝台の上に仰向けになっている。
と──
みしり、と、音がした。
何かの気配があった。
それが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
少しずつ、少しずつ。
女が来たのか?
そう思った。
しかし、今日は、食べものをとってくることはできなかったのだ。
したがって、女が忍んでくることはないはずだった。
が──
女だ。
この匂い。
近づいてくる肉の体温。
あの女以外、誰がいるというのか。
おれは、声をかけずに、閉じていた眼を開き、そっとその気配の方をうかがった。
やはり、女だった。
しかし、いつもと違う。
もの
そして、おれは、細い月明りの中で、見たのだった。
女の右手に、光るものが握られているのを。
包丁だった。
女が、おれを食いに来たのだ。
▶#96(前編)につづく
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