【連載小説】生死を賭けた試練に挑む、遣唐使・井真成。死闘ののち、真成は杜子春らと旅に出た。夢枕獏「蠱毒の城――月の船――」#94〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
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「おい、逃げることなんてないんだぞ」
「ほら、ここに、
そう言って、
「さあ、食え」
子供に向かって饅頭を差し出す。
子供が、ごくりと
わかっている。
おまえがまだ
まだ疑っている。
いいんだ。
それはあたりまえのことだ。
よくわかっているよ。
おまえは正しい。
しかし、おまえは、もう逃げない。
逃げられない。
それも、よくわかっている。
おれが、差し出した饅頭に向かって、用心深く、おまえが近づいてくる。
その饅頭を引ったくって、走って逃げる──そういうつもりなんだとわかる。
だから、伸ばしてきた手を、いきなり饅頭を持った左手で、逆に
引きよせ、右手に持った小刀で、おまえの喉を切ってやったのだ。
苦しまないように、ひといきにやってやるつもりだったのに、おまえが暴れて声をあげたものだから、失敗して、おれは、おまえが声を出さなくなるまで、三度、刃物をおまえの喉に突き入れることになってしまった。
おれは、もちろん、地面に落っこちてしまった饅頭を拾って、懐に入れた。
また、使うためだ。
できることなら、これを、おまえの最後の食事として食わせてやりたかった。しかし、食ってる間に、おまえは逃げるかもしれないしな。
そうだよ、人は、何だってやる。
生きるためにな。
この前なんて、七歳くらいの男の子と、四歳くらいの女の子を捕まえた。
たぶん
そのふたりも、たぶん、喰われないために、どこかの家から逃げてきたんだと思う。
見つかった時、男の子は観念したみたいだった。
そして、いきなり、自分の妹(たぶん)の首を絞めて、おれの
その後、その女の子の
ああ、その子は、笑ったんだ。
泣きながら。
ほら、おじさん、この子をあげるから。
だから、ぼくを助けて。
ふたりとも殺した。
その時は、首をふたつ、そこに置いてきた。
重いからな。
そうしたら、何で捨ててきたのかって、女に叱られたな。
首だって、眼だまだって、みんな、喰えるのに──
だってよ。
だから、今、袋の中の子の首は
しかし、ひどいもんだ。
何しろ、九カ月も
外からは、食い物も、
水は、井戸があるからなんとかなるが、食い物と薪はそうはいかない。
煮炊きをするのに、家の卓や、椅子や、木でできたものを壊して、それを使っている状態だ。
それが、まったく来る気配もない。
平原君が、話をまとめてきた時は、邯鄲中で大喜びしたもんだが、いったいどうなっているのか。
今は、もう、食い物といったら、人しかいない。
人といったって、瘦せ細った哀れなガキだ。
それなのに、平原君のところには、食い物が
酒もあれば、肉もあり、食い放題だとさ。
とんでもないことだ。
しかし、あいつら、実は、自分たちが食っている肉の中に、人の肉が混ざっていることを知らないだろう。
平原君の屋敷や、宮殿に持ち込まれる肉の中には、当然人の肉も混ざってるに決まってる。そんなことも知らないで──いや、知っているのか。
知っていて、知らんふりして、喰っているのか。
どうせ、食うんなら、秦から人質としてとっている
そうしたら、いつの間にか、子楚も、そのガキの
本当なら、子楚とガキの政の首を、邯鄲を囲んでいる秦の大将、
しかし、今は、そんなことも言っちゃいられない。
なんとか、生きてゆくだけで、いっぱいいっぱいだからな。
本当に、これが夢であったらと思うよ。
去年──
壺中天で、へんな
青い
それで、眼が覚めてみたら、眠る前に煮はじめた
あれは不思議だった。
あれと同じようにこれも夢であってくれればいい。
まだ、あの夢の続きなんだ。
盧生は、歩きながら、眼をつむり、頭を二度、三度と振って、また眼を開いた。
夢ではなかった。
眼を閉じる前に見えていた路地の風景がそこに見えていて、肩にかかっている子供の死体の重さもそのままだった。
そして──
その先に、壺中天の裏口が、もう見えていた。
▶第95回(前編)につづく
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