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連載

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」 vol.18

【連載小説】生死を賭けた試練に挑む、遣唐使・井真成。死闘ののち、真成は杜子春らと旅に出た。夢枕獏「蠱毒の城――月の船――」#94〈後編〉

夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。

>>前編はこちら

「おい、逃げることなんてないんだぞ」
「ほら、ここに、まんとうがある。五日前のだけどな」
 そう言って、ふところから左手で饅頭を取り出して見せると、子供は足を止めた。
「さあ、食え」
 子供に向かって饅頭を差し出す。
 子供が、ごくりとつばを飲み込む。
 わかっている。
 おまえがまだおびえているのを。
 まだ疑っている。
 いいんだ。
 それはあたりまえのことだ。
 よくわかっているよ。
 おまえは正しい。
 しかし、おまえは、もう逃げない。
 逃げられない。
 それも、よくわかっている。
 おれが、差し出した饅頭に向かって、用心深く、おまえが近づいてくる。
 その饅頭を引ったくって、走って逃げる──そういうつもりなんだとわかる。
 だから、伸ばしてきた手を、いきなり饅頭を持った左手で、逆につかんでやったのだ。
 引きよせ、右手に持った小刀で、おまえの喉を切ってやったのだ。
 苦しまないように、ひといきにやってやるつもりだったのに、おまえが暴れて声をあげたものだから、失敗して、おれは、おまえが声を出さなくなるまで、三度、刃物をおまえの喉に突き入れることになってしまった。
 おれは、もちろん、地面に落っこちてしまった饅頭を拾って、懐に入れた。
 また、使うためだ。
 できることなら、これを、おまえの最後の食事として食わせてやりたかった。しかし、食ってる間に、おまえは逃げるかもしれないしな。
 そうだよ、人は、何だってやる。
 生きるためにな。
 この前なんて、七歳くらいの男の子と、四歳くらいの女の子を捕まえた。
 たぶんきようだいだったんだろう。
 そのふたりも、たぶん、喰われないために、どこかの家から逃げてきたんだと思う。
 見つかった時、男の子は観念したみたいだった。
 そして、いきなり、自分の妹(たぶん)の首を絞めて、おれのの前で殺したんだ。
 その後、その女の子のたいを、おずおずとおれに差し出して──
 ああ、その子は、笑ったんだ。
 泣きながら。
 ほら、おじさん、この子をあげるから。
 だから、ぼくを助けて。
 ふたりとも殺した。
 その時は、首をふたつ、そこに置いてきた。
 重いからな。
 そうしたら、何で捨ててきたのかって、女に叱られたな。
 首だって、眼だまだって、みんな、喰えるのに──
 だってよ。
 だから、今、袋の中の子の首はつながっている。
 しかし、ひどいもんだ。
 何しろ、九カ月もしんの軍に囲まれているんだからな。
 外からは、食い物も、まきだって入ってこない。
 水は、井戸があるからなんとかなるが、食い物と薪はそうはいかない。
 煮炊きをするのに、家の卓や、椅子や、木でできたものを壊して、それを使っている状態だ。
 がつしようぐんが、助けに来る来ると、みんな言うけれど、その話が出てから、もう、つきだ。
 それが、まったく来る気配もない。
 平原君が、話をまとめてきた時は、邯鄲中で大喜びしたもんだが、いったいどうなっているのか。
 今は、もう、食い物といったら、人しかいない。
 人といったって、瘦せ細った哀れなガキだ。
 それなのに、平原君のところには、食い物があふれているって話だ。
 酒もあれば、肉もあり、食い放題だとさ。
 とんでもないことだ。
 しかし、あいつら、実は、自分たちが食っている肉の中に、人の肉が混ざっていることを知らないだろう。
 平原君の屋敷や、宮殿に持ち込まれる肉の中には、当然人の肉も混ざってるに決まってる。そんなことも知らないで──いや、知っているのか。
 知っていて、知らんふりして、喰っているのか。
 どうせ、食うんなら、秦から人質としてとっていると、そのガキ(後のこうてい)を先に食えばいいのにとみんな思ってる。
 そうしたら、いつの間にか、子楚も、そのガキのせいもこの邯鄲からいなくなっていた、っていうじゃないか。
 本当なら、子楚とガキの政の首を、邯鄲を囲んでいる秦の大将、おうのやつに送り届けてやればいいのだ。
 しかし、今は、そんなことも言っちゃいられない。
 なんとか、生きてゆくだけで、いっぱいいっぱいだからな。
 本当に、これが夢であったらと思うよ。
 去年──
 壺中天で、へんなじじいに夢を見せられたことがあったっけ。
 青いつぼを枕にして、ひと眠りしたら、その間に、一生分の夢を見た。
 それで、眼が覚めてみたら、眠る前に煮はじめたあわがゆがまだ煮あがる前だった。
 あれは不思議だった。
 あれと同じようにこれも夢であってくれればいい。
 まだ、あの夢の続きなんだ。
 盧生は、歩きながら、眼をつむり、頭を二度、三度と振って、また眼を開いた。
 夢ではなかった。
 眼を閉じる前に見えていた路地の風景がそこに見えていて、肩にかかっている子供の死体の重さもそのままだった。
 そして──
 その先に、壺中天の裏口が、もう見えていた。

第95回(前編)につづく
◎第 94 回全文は「カドブンノベル」2020年11月号でお楽しみいただけます!


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