【連載小説】生死を賭けた試練に挑む、遣唐使・井真成。死闘ののち、真成は 杜子春らと旅に出た。夢枕獏「蠱毒の城――⽉の船――」#96〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
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(三)
食いものは、子供も、犬も、猫も、手に入らなかった。
建物の壁に手をあて、身体を支えながら、盧生は、
もしかしたら、途中で倒れてしまうかもしれないが、なんとか、壺中天までは、たどりつけるだろう。
しかし、たどりついたら、もう、外に出ることはできないだろう。
動けぬまま、そこで死を待つことになる。
ならば、女に喰われてやろう。
盧生は、そう思いながら、歩いている。
二日前の晩、床に落ちていた包丁を拾って、女の手に握らせ、
「これで、おれの喉を裂け」
盧生はそう言った。
「それで、おれの肉を喰えばいい」
しかし、女は、包丁を取り落とした。
どうした?
おれを殺さないのか?
そう問う盧生をそこに残したまま、無言で女は部屋を出ていった。
翌日、食い物を探しに、盧生は出ていったが、何も手に入れることができずにもどってきた。
そして、今日も――
やっと、昼近くになって、包丁を持って外に出たのだが、食い物は見つからず、今、夕刻近くになって、壺中天に帰ろうとしているところだった。
もどったら、死のう――
盧生はそう思っていた。
死のう。
女に、おれを殺して食えと言っても、それだけの体力が女にあるかどうか。
それなら、自分で死ねばいい。
自分で、自分の
女の前で――
それならば、女も、自分を喰うだろう。
誰の役にも立たずにこれまで生きてきた。
生きてきたそのことのどんづまりで、子供を何人か殺して食った。
それしかなかった。
しかし、もういい。
あの女のために死ぬのだ。
あの子供のことも、今は、可愛い。
あの、簞のためにも死のう。
女と簞のための食い物になってやろう。おれの人生はそれでいい。
そのためには、なんとしても、生きて壺中天まで帰らねばならない。
たとえ、おれの肉を食っても、女と簞が、このあとどこまで生きのびることができるかはわからないが、ふたりに食われる――それが、この世に生まれてきた自分の役目のような気がした。
暗くなる頃、
建物の中は、外よりさらに暗かった。
おい、もどったよ……
そう言ったつもりだった。
しかし、言ったつもりなだけで、声など出ていなかったのかもしれない。
ふらふらと、建物の壁を伝って移動する。
おい……
しかし、女から声がかからない。
なんだ、いたのか。
厨房へ入っていくと、ぷうん、と匂ってきたのは、血の臭いだった。
なあんだ――
盧生はそう思った。
どこかで、肉を手に入れたのか。
どこで、どうやって手に入れたのかはわからないが、女は、その肉を、今、調理しようとしているのだな。
厨房の暗がりの中に、女がいた。
暗がりの中で、前かがみになっている女がいた。
両手で、何かを摑み、それに顔を伏せている。
歯が、何かを
くちゃくちゃという湿った音だ。
なんだ、もう、食っているのか。
調理をする前に、我慢ができず、生のまま口に入れてしまったのか。
「ひい……」
女の声だ。
「ひい……」
「ひいいい……」
女は、生の肉を食べながら笑っているのか、あるいは……
「おい……」
盧生が声をかける。
女は、気がつかない。
手にしたものを、食い続けている。
歩み寄って、
「おい……」
盧生は声をかけて、女の肩に手をあてた。
女が、ふり向いた。
口のまわりが血だらけだった。
女は、にいっと笑った。
その歯に、血がからんでいる。
そして、女の両の
女は、泣いていたのである。
女は、細い声で、慟哭しながら、その肉を食べていたのである。
女が、前かがみになっていた台の上に、何かが横たわっていた。
人だ。
それも子供だ。
まさか!?
盧生の背に、戦慄が走り抜けた。
台の上に横たわっていたのは、仰向けになった簞の
「まさか、あんた……」
こらえきれずに、待ちきれず、簞を殺して、今、その肉を食っているのか!?
「ひいいいいいっ」
女が、声をあげた。
(四)
許さない――
盧生はそう思った。
何を許さないのか、誰をどう許さないのか。
それは、自分か。
女か。
それとも、
この
そんなことは、盧生には、わかっていない。
ただ、
〝許さない〟
それだけを、背骨の芯まで、盧生は刻んだのである。
(つづく)