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連載

小林由香「イノセンス」 vol.4

助けてくれた青年を置き去りに――。被害者の少年は世間の集中砲火を浴びた。 小林由香「イノセンス」#4

小林由香「イノセンス」

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 あのとき耳にしたのは、近くで起きた交通事故の現場に急行するパトカーのサイレン音だったのだ。容疑者の供述や司法解剖の結果、ナイフを腹に刺されたのは十七時二十分頃だったという。星吾が逃げだしたあと、氷室を発見したビジネスマンが救急に連絡したのは、十七時五十三分。刺されてから、消防に連絡が入るまで三十三分ほど時間があったことになる。
 救急への連絡が遅れたせいで、氷室は出血性ショックにより亡くなった。
 その後、防犯カメラの映像から身元を特定された星吾は警察に呼び出され、警察署で事情聴取を受けた。
 なぜ現場から逃走したのか尋ねられたが、うまく言葉にできなかった。担当の年配の刑事から、「傷はそれほど深くなく、もっと早く救急車を呼んでいれば助かった可能性が高かった」と叱責された。遠回しに、お前は人を殺したのだとののしられた気がして、ずっと震えていた。
 やっと口にできた台詞せりふは「僕はなにか罪になるんですか」という自己中心的な言葉だった。年配の刑事は大きな溜息を吐きだしたあと、静かな声で「法で裁かれることはない。だが、あのときどうすべきだったのか、ゆっくり考え続けてほしい」と言われた。
 怒鳴られたわけではないのに、涙が止まらなかった。
 になったばかりの氷室は、大学の医学部に通う正義感の強い人物で、多くの人々から愛されていた。情報番組のコメンテーターたちは、こぞって彼を勇敢なヒーローだと称賛した。
 星吾は事件から目をそむけたくて、テレビや新聞を極端に避けるようになった。けれど、身近な場所で起きた惨劇だったため、学校や予備校でどうしても噂話を耳にしてしまう。
 なによりも衝撃を受けたのは、氷室は十四歳の夏、川でおぼれそうになっている小学生を助け、山梨県警察本部から感謝状をもらったという話だ。
 同じ十四歳──。
 一方は助けてくれた人間を置き去りにする愚か者。もう一方は自分の命も顧みず、溺れている少年を助けた勇敢なヒーロー。
 休み時間になると、仲のいいクラスメイトがある動画を見ていた。大学の友人たちが涙ながらに氷室について語っている追悼動画だった。
 氷室は中学まで弁護士を目指していたが、川で少年を助けたとき考えが変わったという。川べりでき込んで苦しそうにしている少年の姿を目にしても、なにもできない自分自身になさを感じ、なによりも命が大切だと悟り、医師を志そうと決意したらしい。
 すべてが完璧すぎて、その完全さに耐えられなくなり、吐き気がした。そんなふうに生きられない人間からすれば、氷室は愚か者を追いつめるだけの気味の悪い存在でしかない。
 あいつにも欠点はある。
 氷室はひとつだけ大きな過ちを犯していた。
 正義感の強い青年は、警戒が不充分だったのか、咄嗟に助けようとして路地裏に駆け込んでしまったのかわからないが、あのとき最後まで警察が助けに来ることはなかった。彼は警察に連絡していなかったのだ。それなのに、氷室の過ちについてはまったく報道されなかった。
 三人の加害者たちの名前は非公開。けれど、年齢は公表された。
 驚くことに、彼らは十七歳から十九歳の未成年だったのだ。
 十九歳の主犯格の男ともうひとりは、刑事裁判を受けるべきだと判断されて逆送が決定し、実刑判決が確定した。残りの十七歳は、少年審判で中等少年院送致の保護処分を受けた。
 世間は加害者三人を罵倒したが、それだけでは済まなかった。
 犯人のひとりが公判で「逃げだした少年を追いかけようとしたとき、被害者に足をつかまれ、ついカッとなって刺した。少年が逃げなければ、ナイフは使わなかった」と口にしたのだ。追い打ちをかけるように、週刊誌は「被害者の少年は刺された青年を置き去りにした」という記事を載せた。記事の冒頭には『救えたはずの命』という見出しが躍っていた。
 犯人たちに判決が下されると、人々の怒りの矛先は、二度も逃げだした少年に向かった。『少年GK』はインターネットの掲示板やSNSなどでたたかれ始めたのだ。
 ──『ゲス』『クズ』の『少年GK』。
 ──犯人がいなくなったのに、なんで救急車を呼ばないの? カスなの?
 ──クソみたいなクズが生き残って、氷室みたいな優秀な人間が死んだりするんだよな。
 ──少年GKは生きていてもなんの役にも立たないきよう者なのに。
 ──誰か少年GKの本名アップ頼む。
 ──人間失格。生まれてこなければよかったのに。
 もうなにもかもが怖くてしかたなかった。いつか本名をさらされる日がくるのではないか、そう思うと不安で眠れない夜が続いた。
 救えたはずの命──。
 その言葉が心に居座り、胸に深い悔恨の根を張っていく。
 中学や予備校で氷室の事件が話題になるたび、星吾は息を潜め、無関係を装ってどうにかやり過ごしてきた。けれど、授業にも身が入らなくなり、成績は急落していった。
 どうにか第二志望の高校に合格できたが、以前の生活には戻れず、家族との関係にも不穏なものが漂い始めた。
 父からはことあるごとに「助けてくれた青年の分まで一生懸命生きなければならない」と論されるようになったのだ。
 星吾は内心で「父は間違っている」と思っていた。
 加害者たちに素直に財布を渡していれば事件は起きなかったはずだ。それなのに氷室は自己満足のために正義をふりかざし、勝手に命を落としたのだ。誰かに助けを求めた覚えはない。けれど、内なる叫びは誰にも届かなかった。
 その後、かなしい出来事が次々と家族を襲った。

 大学の正門に着いた頃には、すでに小雨が降っていた。
 星吾は乱れた呼吸を整えながら、敷地内の遊歩道を足早に進んでいく。駅から走ってきたせいで、折りたたみ傘を広げるのも面倒なほど、ぐったり疲れ切っていた。ホームで転倒したときにできた腕の傷が雨にれ、痛みがぶり返してくる。
 微かに苛立ちを覚えながら中庭に目を向けると、背の高い時計台は二限目のドイツ語に二十分ほど遅刻してしまったことを示していた。
 ドイツ語の教授は、試験よりも出席率を重視する。電車の遅延が原因だったとしても、「遅れるのを予見し、もっと早く来ればいい」と嫌味を言う人だった。だから遅延証明書を提出しても出席にしてくれるかどうか不安になってしまう。
 電車が遅れたのは、乗客が線路に物を落とし、係員が拾い上げるのに思いのほか時間がかかったからだ。結局、色白の男が飛び込まなくても遅れる運命だったのだ。
 運の悪さはどこまでも続いているようで気が滅入ってくる。
 ドイツ語の講義が終わってから、星吾は学食で昼食を済ませた。
 スマホで大学のサイトを確認してみると、三限目の講義が休講になっていたので、時間をつぶすために別棟にある美術室に向かった。入学したての頃は空き時間のたびにどこに行こうか迷ったが、二年になると行く場所はおのずと定まってくる。
 講義がすでに始まっていたせいか、B棟のエントランスは閑散としていた。周囲に目を走らせてみても、学生の姿はどこにも見当たらない。ひとのない構内は、心が安らいだ。
 エントランスの右側には、エレベーターが一基設置されている。美術室は四階。
 星吾は乗降用ボタンを押し、エレベーターが降りてくるのを待っていると、廊下の先に黒い人影が見えた。
 漠然とした不安が波紋のように胸に広がっていく。
 一瞬見えた人影は、駅のホームで会った女に似ていたのだ。
 不穏な予感に襲われ、同一人物かどうか確認したいという衝動に駆られた。人影が見えた場所まで駆けていくと、階段をのぼる白い足が目に飛び込んでくる。
 黒いワンピース姿の女は靴音を鳴らし、どんどん上階へ駆け上がっていった。
 星吾はできるだけ足音を忍ばせ、あとを追いかけた。

▶#5へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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