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連載

小林由香「イノセンス」 vol.5

【連載小説】青年を襲った加害者の少年は、後に事故死していた。これは偶然なのか? 小林由香「イノセンス」#5

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。

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 汗でシャツが背中に張りつく嫌な感覚がする。息を切らしながら上がると、三階に続く階段に人の気配はなかったので、壁に隠れるようにして二階の廊下の様子をうかがった。けれど、そこには誰の姿もなく、ひっそりと長い廊下が左右に延びているだけだった。
 もし駅で会った女と同一人物なら、同じ大学の学生だったのかもしれない。
 波立っていた心が静まると、今度は奇妙な感覚に囚われた。
 確かに女の姿を見たはずなのに、現実感に乏しく夢を見ていたような気分になり、幻覚や幻聴だったのではないかと思えてくる。
 あの事件以来、記憶はいつも曖昧で、はっきり思い起こせないことが多くなった。
 痛む頭を指で押さえ、緩慢な足取りで四階まで上がり、廊下の突き当りにある美術室に向かって歩き始めた。
 学生に人気のない寂れた美術サークルに所属しているのは三人。そのひとりが星吾だった。
 他の学生と関わるのは苦手だったので、サークルに入るつもりはなかったが、顧問のげんに強く頼まれ、入会することにしたのだ。
 宇佐美はこの大学の准教授で、教育学部の美術専攻の学生たちに専門科目を教えている。作品制作をするアトリエや工房室は別棟にあるため、B棟の美術室は部員しか使用していなかった。
 美術サークルの三年は就職活動、四年は卒論に忙しいらしく、サークルにはほとんど顔をださない。もともと先輩たちは就活時の自己PRのためにだけ籍を置いているので、実際に美術室を使用するのは星吾くらいだった。
 幼稚園の頃、星吾は初めての集団生活に馴染めず泣いてばかりいたが、クレヨンや色鉛筆を持つと不思議と心が落ち着いた。特に嫌な出来事があった日は、絵を描きたくなる。夢中で描いていると、いつの間にか負の感情は消え去り、心が穏やかな気持で満たされていくのだ。まるで真っ白な画用紙が哀しみや不安を吸い取ってくれるようだった。
 見慣れたベージュのドアを開けると、もわっとした熱気とラベンダーの香りが鼻孔をくすぐった。梅雨入りしたばかりなのに、室内はうんざりするほど蒸し暑かった。
 美術室に足を踏み入れたとき、星吾はなにか違和感を覚え、ゆっくり首を巡らせて教室を見渡してみた。けれど、違和感の源がどこにあるのかわからなかった。
 机と椅子は後方に押しやられ、前方には広いスペースが作られている。スペースの中央には、いつもと変わらず、画板を載せたイーゼルが置いてあった。画板には、上部をダブルクリップで留めた画用紙がついている。
 教卓の上には、デッサンのモチーフにしているドライフラワーのラベンダーが白い陶器の花瓶に飾られていた。教卓の近くには、腰くらいまである棚があり、その上には両腕のない上半身裸の女性の石膏像が置いてある。
 冷静に見渡すと、すべてが見慣れた光景だった。
 窓際まで行くと、大きな窓ガラスを両手で開けた。
 室内に風が流れ込んでくる。窓から見えるクスノキがさわさわと揺れていた。涼やかな光景を眺めていると、ゆっくり汗が引いていくのを感じた。
 教室にはエアコンが設置されていたが、ずいぶん前から故障中で使い物にならなかった。経費が足りないのか、そもそも修理する気がないのか、事務局に頼んでいるのになんの連絡もない。美術サークルは、大学に貢献できるような結果を残していないのが原因かもしれない。
 星吾はイーゼルの前まで足を運び、椅子に腰を下ろそうとして動きを止めた。ガタン、と音を立てて飛び退くようにイーゼルから遠のき、少し離れた場所からデッサン画を凝視した。
 引いたはずの汗がまた噴きだし、呼吸が少し速まっていく。
 嫌でも窓に貼られた脅迫文を思い出してしまう。
 鉛筆で描かれているラベンダーのデッサン画を汚すように、血痕のような染みが画用紙に滲んでいたのだ。心を落ち着かせて、周囲に目を走らせた。
 きっと、水彩絵具だろう。赤色の絵具をたっぷりの水で溶き、それを絵筆につけて飛ばした形跡があった。よく見ると床にも少しだけ赤い染みが点々とついている。
 頭では絵具だと認識しているのに、強い息苦しさを覚えた。浅い呼吸を繰り返すと、赤い光が揺らめき、不吉な予感にさいなまれた。
 2月9月野木──。
 なにか胸騒ぎがする。ただの嫌がらせではなく、あの警告文はもっと重要ななにかを伝えようとしているのかもしれない。すぐにスマホを取りだし、文末に記されていた暗号めいた言葉を検索した。指がこわり、うまくタップできない。
 検索結果の上位に、『月野木』という苗字の人物や会社名などがヒットする。
 暗号ではなく、誰かの苗字?
 今度は検索窓に『2月9日 月野木』と入力してみると、ページの下のほうに交通事故の記事が見つかった。国道で起きた事故のようだ。
 去年の二月九日の夕方、直進していた軽乗用車と対向車線から右折しようとした大型バイクが衝突する事故があったようだ。名古屋市のアルバイト従業員、つきれいという二十歳の男が運転していたバイクが転倒し、上半身を強く打って死亡したという。軽乗用車を運転していた六十歳の女性は軽傷で済んだようだ。
 心拍数が急速に上がっていくのを感じながらも、検索する指を止められなかった。
 震える指で『月野木礼司』という名前を入力していく。
 あらわれた結果にがくぜんとした。
 スマホの画面には『ヒーロー殺害事件』というキーワードがいくつか並んでいたのだ。
 これまでも自分の名前を入力してエゴサーチしたことは何度もあったが、氷室を殺害した加害者について調べたのは初めてだった。あの事件から遠ざかりたくて、ずっと避けてきたのだ。いや、逃げてきた──。
 当時、加害者たちは未成年のため、新聞の記事では名前は伏せられていた。けれど、ネット上では晒されている。
 三人の加害者の名前を目にしたとき、深い絶望に襲われた。
 実刑が言い渡されたのは、当時十九歳のかわぐちみつさえじましようのふたりだった。
 少年院送致になったのは、当時十七歳の月野木礼司──。
 交通事故があったのは去年の二月九日。まだ誕生日が来ていなければ、彼は二十歳だったはずだ。年齢も一致する。
 あるサイトには、犯人たちの小学生くらいのときの写真が掲載されていた。純朴そうな少年の顔からは、殺人に手を染めるような凶暴さはじんも感じられなかった。
 必死に嫌な記憶を呼び起こし、氷室を襲った加害者たちと写真の少年を重ねてみるも、まったくの別人に見える。
 アパートの窓に脅迫文を貼った人物は、氷室に近しい人間なのだろうか──。
 あの事件の加害者に天罰が下ったことを伝えたかったのかもしれない。
 デッサン画の落書きを考慮すると、犯人はこの大学の関係者の可能性もある。いや、氷室の事件のことを耳にした学生が嫌がらせをした可能性も捨てきれない。
 どれだけ想像を膨らませても憶測の域をでなかった。
 月野木は交通事故で亡くなったはずなのに、誰かに仕組まれたように思えて恐ろしくなる。
 日本の警察は優秀だ。事故に見せかけて殺害するのは簡単ではない。そう自分に言い聞かせようとするも、不安を完全に払拭することはできなかった。
 汗ばんでいる手で、残りのふたりの加害者についても検索してみた。
 主犯の川口三弥は懲役九年、冴島翔哉は懲役五年の実刑判決が言い渡されている。
 事件から四年八ヵ月が経過していることを考慮すると、彼らはまだ刑務所にいるはずだ。
 すぐに『仮釈放』について調べてみた。
 その結果に、頰をぶたれたような衝撃を受けた。
 有期刑の場合は、受刑態度が良好な場合、判決で言い渡された刑期の三分の二を経過すれば、仮釈放が認められることがあるようだ。
 こんなにも短い刑期で社会に戻ってこられるという事実に衝撃を受けた。
 川口三弥は、六年以上たなければ仮釈放は無理だ。けれど、冴島翔哉はすでに出所している可能性がある。
 検索窓に『冴島翔哉』と入力してみたが、氷室の事件以外の記事は見当たらなかった。刑務所から出所しているかどうかさえわからない。
 星吾は顔を上げると、教卓のラベンダーを凝視した。
 胸の鼓動がまたにわかに騒ぎだす。
 教室に入ったときに覚えた違和感の原因に気づき、教卓まで足早に向かった。

▶#6へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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