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連載

小林由香「イノセンス」 vol.6

【連載小説】ネットで拡散する少年への誹謗中傷。高校名や顔写真まで晒されて――。 小林由香「イノセンス」#6

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。

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 花瓶に入っているラベンダーの形がおかしい。デッサンのときにずっと眺めていたから気づいたのだ。小さな花が茎の先に集まって咲いていたのに、一部だけ花がなくなっているところがある。花瓶の位置も少しだけずれている気がした。
 ゆっくり視線を落とすと、教卓の下に青紫の花が少しだけ散らばっている。まるで誰かが花を握りつぶし、床にばらまいたようだ。
 窓から風が吹き込み、カーテンがなにかを包み込むように揺れた。人が隠れているような気がして、腕に鳥肌が立った。ただの嫌がらせではなく、得体の知れないなにかが動きだしている予感がする。
 またネット上に名前を晒され、悪意のある書き込みをされているのだろうか──。
 スマホでエゴサーチしてみたが、どこにも星吾についての書き込みは見当たらなかった。
 氷室の事件後、心に傷を抱えてはいたものの、高校に進学してからは仲のいい友人もできて普通の学校生活を送れるようになった。
 けれど、そんな平穏な日々は長くは続かなかった。
 高校二年のとき、自宅にいたずら電話が頻繁にかかってくるようになったのだ。〈音海星吾死ね〉〈お前も同じように刺されろ〉〈卑怯者〉〈この世から消えろ〉すべてあの事件に関係する内容だった。
 家族みんなが困惑している最中、家のチャイムが鳴り、母が恐る恐る玄関のドアを開けると、そこには週刊誌の記者が立っていた。パニックになった母が、なぜうちの子を調べているのか、と尋ねると、記者は淡々とネットの情報を教えてくれた。
 ネットの匿名掲示板に『氷室慶一郎を見殺しにした少年GKの名は、音海星吾』と書かれていたようだ。それだけではなく、星吾の通学している高校名や顔写真も晒されていた。
 その日のうちに母は警察署に赴き、事情を説明した。
 警察はネットでのぼう中傷などの対応には消極的だと聞いていたが、個人情報が晒されていたため、すぐに捜査に動いてくれた。プロバイダーに情報を提出させ、掲示板の運営サイトにも連絡し、運営サイト側は懸命に削除活動を行ってくれたが、しばらくはいたちごっこだった。
 母は高校の担任に相談に行き、「息子を守ってほしい」と頭を下げた。
 クラスメイトたちの間でも噂になっていたのだ。しばらくは問題なく学校生活を送ることができたが、裏の世界ではひそかに悪意が充満していた。
 ネットに掲載された写真のひとつは、クラスメイトのがさわらしか持っていないものだったのだ。星吾が問い詰めると、小笠原は「ごめん。無料のアプリをインストールしたときにウイルスに感染して画像を盗まれたんじゃないかな」と半笑いで謝ってきた。それが事実なのか、それとも悪意があって載せたのか判然としない。いつも快活な小笠原はクラスの人気者。証拠もないのに相手を責めれば、クラスメイトたちから非難される。それ以上の追及はできなかった。
 なによりもつらかったのは、ネット上に家族の個人情報まで晒されたことだ。
 その頃、精神的に追い込まれた星吾は、不可思議な怪異現象を目にするようになり、祖父に付き添われて心療内科に通うようになっていた。
 一瞬だが、鏡や電車の窓に死んだはずの氷室の幻影があらわれるようになったのだ。薄暗い雨の日に起きることが多かった。通学途中、亡者を目にするたび大声を上げてしまい、車内にいる乗客たちから不審の目で見られ、日常生活をうまく送れなくなっていたのだ。
 心療内科の医師は、不安になっている星吾に、『輪郭誘導現象』について教えてくれた。
 人間は三つある黒い染みを見ただけで、誰かの顔だと認識してしまうことがあるそうだ。天井の木目が人の顔に見えることもあり、すべては脳の錯覚によるものだという。
 それから何回か診療内科に通ったあと、『心的外傷後ストレス障害』と診断され、週に一度通院してカウンセリングを受けることになった。
 祖父は心療内科の帰り道、落ち込んでいる星吾にカフェオレを買ってくれた。
 家の近くの公園であたたかいカフェオレを飲みながら、祖父は穏やかな声で言った。
「今は不寛容な時代だと言われているけどな、人を許すのはとても大切なことなんだ」
 祖父はまっすぐ前を見つめたまま言葉を続けた。「人間は誰しも失敗する生き物だよ。完璧に生きられる者なんていやしない。過去を探れば誰だって愚かな出来事のひとつやふたつ見つかるもんさ。それをずっと責められたら、誰も生きてはいけない。もちろん、自分自身の過ちも許してやらなければならないよ。歳を重ねるとな、ときどき誰も悪くなかったんじゃないか、そう思うことがあるんだ。ただ、みんな必死に生きようとしていただけなんじゃないか」
 家族の前で涙を流したのは初めてだった。迷惑をかけている当事者が泣いてはいけない。けれど、押し殺したえつがもれてきて止められなかった。
「お前が優しい子なのは、じいちゃんはよくわかっている。これだけは忘れないでくれ。星吾はじいちゃんの大切な宝物だからな」
 あのとき背中をでてくれた祖父の優しい手や体温が忘れられなかった。幾度となく、この祖父という存在に助けられた。星吾は心の底から「ごめんなさい」と謝罪し、何度も頭を下げた。
 救いだったのは、警察のおかげで悪質な投稿者が特定され、徐々にネットの書き込みが減っていったことだ。
 それからは前向きに勉強に取り組み、できるだけ親に負担をかけないように、学費が安い国公立の大学を目指した。なるべくいい大学に合格し、失った家族の信頼を取り戻したいと思った。けれど、そう意気込んでも雨粒が窓を叩く夜は、強い自責の念と不安に襲われ、心がつぶれてしまいそうになる。
 そんな日々を繰り返した先に、微かな光が生まれた。
 県外の国立大学と私立大学に合格できたのだ。ネットにフルネームを晒されたが、音海星吾という名前でも受け入れてくれる場所がある。またやり直せるかもしれない。
 しかし、その希望は簡単に打ち砕かれた。
 地元を離れ、ひとり暮らしを開始して間もなく、星吾はファストフード店のバイトに採用された。しばらくは大学もバイトも順調だったのに、一ヵ月も経たないうちにバイト先の店舗や本部に匿名の電話がかかってくるようになったのだ。
 ──人を見殺しにした音海星吾の作るハンバーガーは食べたくない。
 店長は、本部からの問い合わせに「仕事ぶりはで問題ない」と報告してくれた。けれど、自ら店を辞めた。辞めてほしいと言われるのは、時間の問題だと予見できたからだ。
 次のバイト先のネットカフェでも同じような状況になり、ガソリンスタンド、居酒屋のバイトもすぐに辞める羽目になった。
 見えない敵からの攻撃はやむことはなく、大学の廊下でも「あれが音海星吾だよ」という声を耳にした。なんの噂をされているのか判然としなかったが、疑心暗鬼になるには充分だった。
 またネット上に名前を晒されていると思い、星吾はパソコンで検索してみたが、どこにも書き込みは見当たらなかった。
 廊下で耳にした声は幻聴だったのだろうか──。
 キーボードにのせた手が震えているのに気づき、消えてしまいたい衝動に駆られた。
 大学生活を楽しいと思ったことは一度もない。だからといって中退する勇気も、他にやりたい夢を見つける意欲もなかった。
 一度は嫌がらせを罰として受け入れて生きていこうと覚悟を決めた。けれど、安易な覚悟は簡単に揺らいだ。
 新しく始めたカフェのバイト先に、また悪質な電話がかかってきたのだ。
 惨めで他人の目が怖くてしかたなかった。愚かな過去をどうにか心の隅に押しやり、前向きに生きようとしても誰かがそれを許してくれない。
 だから被害者遺族に謝罪の手紙を書こうと決意した。
 ネットに悪い情報を書き込んでいるのは、被害者遺族なのではないか、そんな疑念を消し去れなかったのだ。手紙を書けばやめてもらえるのではないかという浅ましい気持ちもあった。
 そもそも遺族は、誹謗中傷などしていないかもしれないのに──。
 事件のとき事情聴取を受けた警察署に連絡し、手紙を届けてもらえないか相談したが、遺族側に受け取りを拒否された。
 謝罪の言葉をひとりで何万回つぶやいても、もうしよくざいして生まれ変わることはできないのだ。許してほしい、友だちがほしい、人に優しくされたい、そんな人並みの幸せを求めてはいけない。なにかを望めば、自分自身も深く傷つくからだ。
 無限に広がる絶望の中で生きるなら、これからは心を閉ざし、他人に無関心でいられる強さを身につけ、冷酷な人間に成り下がればいい。
 心をなくすのは、意外に簡単だった。涙が出なくなるほどの哀しい経験をし、痛みがなくなるほど苦しみを受け続ければいい。
 けれど、あの男があらわれる現象だけはやむことはなかった。

▶#7へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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