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連載

小林由香「イノセンス」 vol.7

【連載小説】この大学でも無差別殺傷事件が起きたのか? 小林由香「イノセンス」#7

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。

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 ふいに人の気配がして、星吾ははじかれたように後方を振り返った。
 美術室のドア付近にひとりの男が立っている。彼は笑いをこらえているような顔つきで、あごひげをしきりに撫でながら口を開いた。
「まるで幽霊でも見たような顔つきだな。相変わらず謎めいた学生だ」
「先生……」
 朝から不快な出来事が相次ぎ、ひどく頭が混乱していた。けれど、見慣れた美術サークルの顧問を目にすると、緊張が少し和らいでいくのを感じた。
 宇佐美は今年四十歳になるというのに、かなり奇抜な風貌をしている。長い髪をうしろでひとつに結び、いつも派手な甚平を着ていた。今日はスカル柄だ。上背はあまりないが、プロレスラーのような屈強な体格をしている。大きな足にはいぐさの草履。誰が見ても、准教授だとは思えないような人物だった。
 宇佐美はパタパタと草履を鳴らしながら近寄ってくると、ラベンダーの残骸をいぶかしげに眺めただけで、花については触れなかった。
「この大学でも無差別殺傷事件が起きたのか? 腕をしているぞ」
 数日前、他の大学の構内で学生が包丁を振り回す事件が起きた。
 まだ十九歳の犯人は、次々に教授や学生たちを斬りつけ、講義室や廊下は血の海と化したようだ。警察の取り調べに対し、犯人は「モラトリアム人間に恨みがあった」と供述しているという。多数の負傷者がでたため、連日、事件はマスコミによって扇情的に報じられていた。
「もしくは、熊にやられた可能性もあるな。さっきネットニュースで見たが、お前の腕の傷は『熊と戦った』っていうじいさんの傷にそっくりだ」
 宇佐美は軽口を叩いてから「手当てしてやるよ」と言い残し、美術室をあとにした。
 急いでかばんを手に取り、静まり返った廊下に出ると、周囲に目を配った。
 数々の奇妙な出来事のせいで疑心暗鬼に陥ってしまう。辺りに誰もいないのを確認してから、廊下の先にいる甚平姿を追いかけた。ずいぶん距離が開いてしまったのに、先生は一度もうしろを振り返らなかった。
 宇佐美は若かりし頃、名の通った彫刻家だったらしい。手を負傷してからは専門学校や大学の非常勤講師を務め、去年この大学の正規教員になり、一般教養科目や教育学部の美術専攻の学生たちに彫刻論や塑像、木工などを教えていた。
 美術室のあるB棟の四階には、宇佐美の研究室もあった。
 研究室は狭いせいか、いつ訪れても圧迫感を覚える。小窓しかないため、昼でも蛍光灯に照らされていた。
 周囲にはふたり掛けのソファと丸テーブル、奥には木製の長机。その上には一台のノートパソコンと黒猫の絵が描かれたマグカップ。両サイドの壁には背の高い本棚が並び、書籍が乱雑に置いてあった。
 棚に並んでいるのは、学術書よりも小説のほうが断然多い。幼い頃、刑事になりたかったという宇佐美は、推理小説を好んで読んでいるようだ。
 星吾がソファに腰を下ろすと、宇佐美は棚から救急箱を取りだし、慣れた手つきで消毒してくれた。作品の制作中に怪我をすることがあり、救急箱を常備しているようだった。
 傷は乾燥していたが、触れられると痛みがぶり返してくる。
 悪いと思いながらも、つい宇佐美の手首に目がいってしまう。左手首には、三センチほどのケロイド状の傷がある。昔、手首のけんを木工道具で深く傷つけてしまったそうだ。それが原因なのか、左指の三本は石像のように固まり、動かせないようだった。
 心情をすべて理解しているわけではないが、宇佐美からは指が動かない憂いや、苦悩などの暗いかげは微塵も感じられなかった。
 人生の不幸や悲劇を特別視しないタイプなのかもしれない。
 半年ほど前、星吾は祖父を亡くした。そのことを伝えたときも、気遣う素振りもなく、淡々と「俺もお前もあとどれだけ生きられるかわからない。哀しみに浸れる時間は、そう長くはない」と微笑んだ。
 冷たい物言いは沈んでいる学生の身を案じ、これ以上哀しみに暮れさせたくないという、宇佐美なりの優しさにも思えた。なぜなら彼のストレートな物言いや考え方は、いつも星吾の心を軽くしてくれたからだ。
 美術サークルに入会したのも、顧問に魅力を感じたのが理由のひとつだった。
 絵を描くのが好きだった星吾は、小学生になると様々な絵画コンクールで受賞を重ね、そのたびに全校生徒の前で賞状や盾をもらい表彰された。中学の文化祭のポスターにも三年連続で選ばれ、それなりに自信も持っていたが、氷室の事件以来、色を塗ることができなくなってしまった。
 それなのに祖父だけは「色がなくても感情が伝わってくる、躍動感のあるすばらしい絵だ」と褒めてくれた。祖父は気に入らないことがあっても決して感情的にならず、常に気を遣いながら生きている人だった。これまでも声を荒らげる場面や不機嫌な態度を一度も目にしたことがない。振り返れば、祖父との思い出は、どれも穏やかな風景画のように心地いいものばかりだった。
 一年前、そんな祖父から「絵画展に行かないか」と誘われた。絵画展は、星吾の大学の近くにある美術館で開催されていた。
 今にして思えば、死を予感しての気遣いだったのかもしれない。
 星吾はひとり暮らしを始めてから実家に寄りつかなくなり、家族とは連絡を取らない状態が続いていた。距離ができてしまったことを、ずっと心配していた祖父は、なにか理由をつけなければ県外にいる孫に会いに行けないと思ったのだろう。
 ふたりで時間をかけて、ゆっくり絵画展を観て回った。ときどき祖父の視線を感じたが、えて気づかないふりをした。絵画よりも孫の顔が見たかったというおもいがひしひしと伝わってきて戸惑ってしまったのだ。
 絵画鑑賞を終えてから広々としたロビーに出ると、たくさんいる客の中でひときわ異彩を放っている人物が目についた。
 長髪に甚平姿の男──。すぐに宇佐美だと気づいたが、まさか声をかけてくるとは思いもしなかった。
 星吾は一年のとき一般教養料目で宇佐美の講義を受講した。人気があったのか、受講している学生は他にも大勢いた。それなのに近寄ってきた宇佐美は、祖父にぺこぺこ頭を下げながら自己紹介を始めたのだ。そのうえ、星吾の絵を一度も見たことがないのに、「音海君はとても才能のある学生で、彼の絵に一目置いているんです」と適当なうそを並べた。
 最初はなにか魂胆があるのではないかと警戒心が働いたが、祖父が目に涙を浮かべて喜ぶので、星吾も思わず親しいふりをしてしまった。
 祖父はすっかり信じ込んだ様子で、「この子には絵の才能があると思っています。どうか、どうか、星吾のことをよろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
 祖父の祈りのような言葉に、胸に微かな痛みを覚えた。だましているという後ろめたさはあったが、久しぶりの祖父の笑顔がうれしくて、罪悪感よりも安堵感のほうが勝った。
 数日後、宇佐美に学食で声をかけられ、美術サークルに入会してほしいと頼まれたときは、やはり裏があったのかと不信感が募った。
 宇佐美は「新入生がひとりも入らないから、部を存続させるためにも頼む」と誘ってきたのだが、それは本当の理由ではなかった。廃部になるのを避けたいというよりも、おしゃべり好きの准教授は、誰か聞き役になってくれる相手が欲しかったのだ。
 一度はバイトが忙しいという理由で入会を断ったが、祖父の死で気持ちは変わった。
 祖父は縁側でなたぼっこをしている最中、息を引き取った。とても安らかな死に顔だったという。美術展は、ふたりで過ごした最後の思い出の場となったのだ。あのときの先生の噓に心から感謝した。祖父を少しだけ安心させられたからだ。
 宇佐美は消毒を終えると、静かな声で訊いた。
「この怪我はどうした?」
「駅のホームで……転んだんです」
 星吾は蚊の鳴くような声で答えた。色白の男に投げた自分の残酷な言葉を思いだし、ホームでの出来事を詳細に語りたくなかったのだ。
 宇佐美はなにかを見抜いているようなまなしで見つめてくる。
「駅のホームか。とにかく自傷行為じゃなくて安心したよ」
 一瞬耳を疑った。
 そんなふうに思われていたとは知らず、不安が胸にじわじわと広がっていく。星吾は思いきって芽生えた疑問を投げた。

▶#8へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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