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連載

小林由香「イノセンス」 vol.8

【連載小説】事件以来、青年は赤い絵の具を使えなくなっていた。 小林由香「イノセンス」#8

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。

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「さっき無差別殺傷事件について話していましたが……それは、いつか僕もやりかねないと思ったからですか」
「お前には人を殺すことはできない。理不尽な悲劇に見舞われても、ひとりで静かに歯を食いしばって堪えるタイプだ」
 そんなに強くない。咄嗟に、窓に貼られた脅迫文やデッサン画を汚されたことを相談しようかと思ったが、喉元まで出かかった甘えを懸命にみ込んだ。その前にどうしても確認したいことがあったのだ。
「先生は本気で……」
 あまり思いつめた声にならないように気をつけて言葉を継いだ。「本気で殺したいほど恨んでいる人はいますか」
 宇佐美は棚に救急箱をしまいながら、必死に笑いを堪えているようだった。
「お前の質問はいつも衝撃的で心が弾むよ。そんなに恵まれた人生じゃない。俺にだって殺したいほど恨んでいるやつはいるさ」
 笑っている表情とは違い、そう答える声には怒りに満ちた迫力があり、胸が騒いだ。
 室内の空気が重くなるのを感じたが、星吾は問わずにはいられなかった。
「恨んでいる相手に脅迫文とか送って、嫌がらせをしたいと思いますか」
「嫌がらせなんて軽いものでは気がすまない。本気で息の根を止めてやりたいよ」
「それなら……どうして実行しないんですか」
「大切な人がいるからだ」
 宇佐美は気まずそうに窓の外に視線を移してから続けた。「その人は意志が強いが、ずいぶんもろい。だから品行方正に生きて、ずっとそばにいて支えてやらないとならない。まぁ、俺の任務ってとこだな」
 なんとなく相手は女性のような気がして、星吾は気恥ずかしくなり軽い口調で返した。
「案外ロマンチストなんですね」
「今頃気づいたのか? 長い付き合いだろ」
「まだ一年くらいじゃないですか」
「人間なんて、あっという間に死んじまう生き物だ。一年の付き合いは驚くほど長いよ」
 宇佐美は机の引き出しを開けると、おもむろに紙を取りだした。「一応、俺は美術サークルの顧問だからな」
 渡された紙には『学生アートコンクール』と書いてある。紙を持つ指がひどく緊張していた。
 宇佐美はしばらく黙考するように間を取ってから、柔らかい口調で言った。
「コンクールに挑戦してみないか?」
 星吾は首を振りながら答えた。
「コンクールにだせるような絵は描けないから……」
「どうして?」
「デッサンはできるけど、カドミウムレッドとか……まだ使えない色があって……」
 赤系統の油絵具を混ぜていると手が震え、息苦しくなってしまうのだ。一度経験してから、もう怖くて油絵具に触れることさえ難しくなった。
 宇佐美はマグカップを用意すると、紅茶のティーバッグを入れ、ポットのお湯を注ぎながら尋ねた。
「それが原因で美大ではなく、心理学を学べる大学を選んだのか?」
「違います。知りたいから……」
「お前が恨んでいる人間のことか」
 星吾はなにも答えず、渡された紅茶を受け取った。
 以前、宇佐美は学内で噂話を耳にしたようで、氷室の事件について尋ねてきた。責めるような口調ではなかったのに、愚かな過去を知られた恥と哀しみが込み上げてきて、星吾は鼻の奥が熱くなり、震える唇を嚙みしめたのを覚えている。
 事件の詳細を話したくなければ言わなくてもいい、と声をかけてくれたが、我慢の限界だった。バイトを始めれば、すぐに嫌がらせが始まり、次々辞める羽目になった。先生たちの耳に入るほど、大学でも噂になっているのだ。もう孤独に耐えられなかった。祖父を亡くし、寄る辺なかった星吾にとって、唯一本音を吐露できる相手は宇佐美しかいない──。
 すべて聞き終えた宇佐美は「お前だけじゃない。この世に罪のない人間なんていない。自分だけは罪はないと言い切れる奴は、気づかないふりがうまいだけだ」と小声で言った。
 星吾の胸はわななき視界が滲んだ。今までは、卑怯者、最低なクズだと罵られてきた。それなのに、罪のない人間なんていない、と言ってくれたのだ。一緒に過ごす時間が増えるほど、宇佐美は愛情深い人だと気づかされる。実際、真実を知ってからも、いつもとなんら変わらない態度で接してくれた。
 星吾が紅茶をぼんやり見つめていると、宇佐美は穏やかな声で忠告した。
「どれだけ学んでも、どんなに努力しても死んだ人間の真の気持ちは永遠にわからない」
「それでも……考えてしまうんです」
「考えるのをやめろとは言わない。だが、現実をわれるな」
 正面から見る人懐っこい表情とは違い、宇佐美の横顔はどこか厳しい顔つきに映った。
「常軌を逸するほどなにかに執着すれば、バランスが悪くなる。バランスを崩せば、いずれ立てなくなり、現実を喰われる日がくるぞ。心を深くむしばまれてしまう前に、もう見えない敵と闘うな」
 星吾は重い空気を変えたくて、できるだけ明るい声で返した。
「先生が言うと妙に説得力がありますね」
 宇佐美は自分の動かない指に視線を落とし、ちよう気味に笑った。

3

 激しい疲労感が心身を覆っていた。
 つり革をしっかり握りしめていなければ、バランスを崩してしまいそうになる。
 星吾は電車に揺られながら、目の前に座っている二十代と思われる女性をなんの気なしに眺めた。彼女は細長い指を素早く動かし、熱心にスマホをいじっている。指揮者のタクトのように、かんきつ色に塗られた爪が俊敏に動く。
 指の動かない生活は、想像するよりもずっと不便なはずだ。
 先生が殺したいほど恨んでいる相手とは誰だろう──。
 宇佐美にそんな人物がいるとは思わなかった。きっと、彼はなにかの被害者なのだ。
 脅迫文のことを相談できなかったのは、自分が加害者に近い人間だからだ。
 氷室の事件以来、なにかが欠けている人間や完全ではない者と一緒にいると心が落ち着くようになった。けれど、そんな感情を他人には話せない。自分は歪んだ人間だと証明しているようなものだからだ。
 先ほどから、ずっと目を伏せていた。
 車窓が視界に入るのが怖くてしかたなかった。どれだけ警戒しても、顔を上げると夜景が目の端に映ってしまう。瞼を固く閉じた。
 逃げ場のない車内で亡者なんか見たくない──。
 大学周辺は家賃相場が高いため、星吾は大学の最寄り駅から八駅ほど離れた場所にアパートを借りている。公共の乗り物は苦手だったが、これからも通学で電車を利用しなければならない。いつまでも逃げ続けるわけにはいかないのだ。
 腹を決めて、顔を上げると車窓を睨んだ。
 そこには亡者の姿はなく、明かりが灯った町並みに重なるように、しようすいした自分の顔がぼんやり映っているだけだった。
 胸を撫でおろすと、星吾は肩で息をしているのに気づいた。弱冷房車ではないのに、つり革を持つ手や首筋がじっとり汗ばんでいる。
 この先もっと医学が進歩し、過去の記憶を消す治療ができればいいのに──そう考えた刹那、心がずきりと痛んだ。加害者側はすぐに実行するかもしれない。けれど、被害者遺族は哀しい過去を消したいと望むだろうか。
 罪から逃れられる方法を考えるたび、胸に罪悪感が増していく。
 流れていく夜景をぼんやり眺めていると、ホームで会った女の姿が舞い戻ってくる。
 今朝、同じ駅にいたということは近くに住んでいるのだろうか。なんの根拠もないのに、あの女と脅迫文が関連しているように思えてしまう。
 ふいに寒気がして周囲に目を走らせた。
 誰かに観察されているような気がして不快な気分になる。

▶#9へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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