【連載小説】この国の自殺者数は年間二万人を超える。自殺なんて特別なことではない。 小林由香「イノセンス」#9
小林由香「イノセンス」
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※本記事は連載小説です。
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目の前の女性が勢いよく立ち上がった。彼女はまるで猫のように、閉まり始めたドアをすり抜けてホームに駆け降りていく。
星吾は空いた席に腰を下ろし、乗客をゆっくり見回した。誰かの視線を感じるが、特に不審な人物は見当たらなかった。
斜め前に座っている男は乱れた髪も気にせず、口を開けて眠っている。安心しきって寝ている姿が心底
背もたれに身体を預けると、女の声がよみがえってくる。
──今日の夜、あの人が自殺したらどうする?
余計なことを言ったのはわかっている。けれど、色白の男に「どうして俺の邪魔をした」と訊かれた瞬間、苛立ちが抑えられなくなった。
電車に飛び込もうとした男を見殺しにした事実が世間に知れ渡れば、また罵倒される。そう思った瞬間、星吾は怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られ、辛辣な言葉を吐き捨てていた。
この世の不幸は、すべて自分とつながっているような気がしてしまう。頭では荒唐無稽な考えだとわかっているのに、どんどん気持ちは沈んでいく。
この国の自殺者数は年間二万人を超える。自殺なんて特別なことではないが、その現場を目撃するのは珍しいことだ。あんな状況に居合わせてしまった自分の不運を呪いたくなる。
見慣れた駅名標が目に飛び込んできて、慌ててホームに駆け降りた。
気づけば、電車は
人混みを避け、しばらくホームに立ち尽くしていた。なぜか足が改札に向かってくれない。焦りに似た複雑な感情がじわじわと押し寄せてくる。
小さく溜息をつくと、ホームの端から端まで歩き、色白の男がいないか確認してみた。なにをやっているのだろうという
誰もいないベンチに腰を下ろし、鞄からスマホを取りだして電車の運行情報を確認してみる。検索する指先の感覚が鈍く、動きがぎこちなかった。事故による遅延情報はないようだ。
けれど、いまだに女の予言めいた言葉が頭の中を
星吾は立ち上がると、静まり返ったホームを重い足取りで歩き始めた。
長い階段を上がると、改札の窓口には人の好さそうな年配の駅員がひとりいる。目の前を通過する乗客たちに「ありがとうございました」と声をかけていた。特に変わった様子は見受けられない。
きっと、特別な事件は起きていないはずだ。
先刻から逐一確認し、安心している自分に嫌気が差す。なにを怯えているのだろう。
相手が悪いと思わなければ、うまく生きていけない。けれど、それをすれば生きていくのが嫌になる。いつだって心には相反する感情が巣くっていた。
完全に冷酷非道な人間になれたら、どれだけ楽だろう。
自分の中にある良心が邪魔くさくて、どう折り合いをつければいいのかわからなくなる。
駅を出てから、すぐに空を振り仰いだ。
陰鬱な気分に拍車をかけるように、空は厚い雨雲に覆われている。今年は梅雨の時季に入っても本降りの雨にはならず、小雨の日ばかりだった。
テレビでやっていた天気予報によれば、台風三号が接近しているらしい。気象予報士は、梅雨入り後の台風は大雨を降らせると解説していた。
駅前の横断歩道を渡り、大通り沿いの道をまっすぐ進んでいく。しばらく行くと強い光を放つコンビニの看板が目に飛び込んできた。
星吾は思わず息を吞んだ。どっと汗が噴きだし、鼓動が速まっていく。
バイトが入っているのをすっかり忘れていたのだ。すぐに腕時計を確認すると、もう二十分の遅刻だった。
辞めさせられたら大変なことになる。
これまで誹謗中傷のメールや苦情の電話のせいで、幾度もバイトを辞めざるを得なくなった。また同じ目に遭うのではないかと怯えていたが、今のところ問題なく過ごせている。コンビニのバイトを始めてから五ヵ月が過ぎようとしていた。今度はできるだけ長く続けたい。
星吾は全速力で駆けだし、コンビニの車が四台ほど駐車できるスペースを抜け、建物の裏手にあるドアの前に立った。支給されたICカードをスキャナーに掲げてから、鉄製の重いドアを開け、事務所兼倉庫になっているバックヤードに駆け込んだ。
バックヤードに入ると、タイムカードに時刻を記録しようとして手を止めた。
どういうことだろう。まったく状況がつかめない。
三十分前に出勤していることになっていた。
タイムカードの名前を確認すると、『音海星吾』と書いてある。他人のものではない。
星吾と交替するはずの男子高生のバイトは、すでに退勤していた。
彼がタイムカードを押してくれたのだろうか──。
状況を吞み込めないまま、ロッカーを開けて制服に着替えた。着替えている最中も不思議でしかたなかった。幸運なはずなのに、胸騒ぎがする。
急いで店内に入ると、デザートの棚の前にブランドバッグを持った若い女性がひとり、壁面の弁当コーナーに三十代くらいの男性がふたりいた。
ふたつあるレジカウンターの片方には、バイト仲間の
「重役出勤、お疲れさまです」
星吾が隣のレジカウンターに入ると、光輝はとびきりの笑顔でそう言った。
地毛だというライトブラウンの柔らかそうな髪。瞳の色素は薄く、
光輝は、星吾と同い歳で大学の学部も専攻も一緒だった。けれど、彼は一年浪人しているので学年はひとつ下だ。
光輝は、どこか誇らしげな顔をして口を開いた。
「いつも十五分前には来ているから、『今日は遅刻かもしれない』と思ったんだ」
その言葉を聞いて先ほどまであった疑問は解消したが、妙な違和感が残った。
「どうして……タイムカードを押してくれたの?」
星吾は訊かずにいられなかった。
労働時間の虚偽申告は、不正に加担した者も処罰の対象になるはずだ。人の善意に見えるものの裏には、いつも悪意が潜んでいる気がしてしまう。そんな悪意はなくても誰かの善意に基づく行動は、悪い未来につながっているようで恐ろしくなるのだ。
まるであの日のように──。
光輝は不満そうな口調で言った。
「だって研修のとき、三回遅刻したらクビって言われたじゃん。店長はルーズなくせに、遅刻にはやたら厳しいからね」
「別に……クビになってもかまわない」
他人からの好意をうまく受け止められず、星吾は心にもないことを口走った。
「寂しいこと言わないでよ。辞められたら俺が困る」
「どうして」
「星吾のことが大好きだから」
しばらく彼と見つめ合ったが、なんの感情もわかない。
光輝は誰に対しても素直に好意を示す。世界中の生き物を愛している博愛主義者なのだ。以前、店の外で飼い主を待っていた犬に「世界でいちばんかわいい犬だな」と言っているのを耳にしたことがある。他人が近づくと警戒して
これ以上不毛な会話を続けたくなくて、星吾はタバコの品出しを始めた。
この店は繁盛しているコンビニとは違い、売上はあまりよくない。けれど、店長に焦る気配はまったくなかった。本部組織のあるフランチャイズチェーンではなく、単独店なのをいいことに、彼は自由気ままに店を経営しているのだ。
最近は二十四時間営業の見直しが叫ばれているが、深夜営業をやめる気はないようだった。「夜に開いてないコンビニなんて、コンビニじゃない」というのが店長の持論だ。稼ぎたい星吾にとっては都合がよかった。
バイト仲間の噂によれば、店長は地主の息子で父親から譲り受けたマンションの一階をコンビニにし、賃貸マンションのオーナー兼コンビニ経営をしているようだ。
▶#10へつづく
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