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連載

小林由香「イノセンス」 vol.3

眼の前で刺された青年を見殺しにした。それが最悪な人生の始まりだった。 小林由香「イノセンス」#3

小林由香「イノセンス」

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 自分の置かれている立場がまったく把握できず、彼らの姿をぼうぜんと見上げていると、タトゥーの男がこうかつそうな微笑をたたえながら近寄ってきた。彼は、友だちに話しかけるような軽い口調で「早く財布だして」と、当たり前のように指示してくる。
 とつに、予備校で目にした『恐喝犯に注意!』という警告文が脳裏をかすめた。心臓が波打つたび、地面が揺れているような錯覚がして気分が悪くなってくる。
 浅黒い男はポケットから折りたたみナイフを取りだし、慣れた手付きでカチリと刃を立て、奇妙なリズムでゆらゆら揺らした。まるで催眠術の振り子のようだった。恐怖を植え付けるようにじっくり見せつけてから、またポケットに戻し、彼は静かに唇の端をり上げた。
 星吾は今まで暴力的な事件に巻き込まれたことも、殴り合いのけんをした経験もなかった。どう考えても勝ち目はなく、抵抗しても負けるのは目に見えている。しかも相手は凶器を持っているのだ。講師たちの警告にちゃんと耳を傾けるべきだった。強い後悔が押し寄せてきて泣きたくなる。
 震える手で鞄を探り、急いで財布を取りだそうとしたとき、大通りの方からひとりの青年が駆け込んでくる姿が見えた。
「お前らなにやってるんだよ」
 それが、氷室慶一郎だった。
 彼は白いシャツが似合うさつそうとした雰囲気の人物で、敵は三人もいるのに胸を張り、せいかんな顔つきで腰に手を当てていた。まるで体育教師が素行不良の生徒を叱責するような姿だった。
 氷室が堂々たる態度で「子どもから金を巻き上げるなんて最低だぞ」と言い放つと、男たちの表情が明らかに険しくなっていくのがわかった。
 張りつめた空気の中、星吾は三人の男たちと青年の姿を交互に見やった。動揺しているのに気づいたのか、氷室はこちらに顔を向けると表情を和らげて微笑んでみせた。彼のおうような態度が、焦燥感をいっそう搔き立てる。
 あいつらはナイフを持っている──。早く伝えなければいけないのに怖くて言葉にできなかった。余計なことを告げれば、犯人を逆上させて自分が刺されるかもしれない。
 星吾が鞄の中から財布を取りだし、彼らに金を渡そうとした瞬間、氷室がそれを制した。
「やりたくないことを強要されて、それに従う必要はない」
「あんまりナメないほうがいいよ。俺、前にひとり殺しちゃってるから」
 浅黒い男が自慢げに言うと、氷室はぜんとした態度で返した。
「やろうと思えば小学生でも人を殺せる」
「はぁ?」浅黒い男の目が鋭くなる。
「欲にまみれて人を傷つけるのも、人を殺すのも簡単なんだよ。誰にでもできる。だけど、やられた人間には深い傷が残る。それは簡単には消せない。もうすぐ警察が来るから、この子を傷つけるな」
 男たちは頰に笑みをのせたまま、青年を取り囲んだ。三人とも目は笑っていなかった。
「俺ら警察なんて怖くないんだけど」
 浅黒い男の言葉に賛同するように、タトゥーが口を開いた。
「こいつナメてるみたいだから、証明してやればいいんじゃない?」
 タトゥーは口元に冷笑を浮かべ、首をポキポキ鳴らした。
 それが合図だったかのように、彼らは激しい暴力をふるい始めた。
 氷室は初めのうちこそ反撃し抵抗していたが、地面に倒されたのを機に、暴力は勢いを増していった。
 本気の暴力を目の当たりにし、星吾は死というものを初めて身近に感じた。恐怖で身が固まり、震えながら残虐な暴行現場を見ていることしかできなかった。
 氷室は幾度も全身を蹴られ、顔の骨が砕けるほどの強さで踏みつけられて口の中が血でいっぱいになっている。なにか話そうとしているが、はっきり言葉にならないようだった。
 あんなひどい暴行を受けたら後遺症が残り、今後の生活に支障をきたすおそれもある。どうして警察は助けに来てくれないのだろう。
 次は自分がやられるかもしれない──。
 僕は悪くない。最初から金を渡して助けてもらえばよかったんだ。財布には二千円くらいしかないはずだ。勝ち目のない正義をふりかざす意味なんてない。
 ここからすぐに逃げだしたい──。
 星吾がゆっくりあと退ずさりすると、犯人のひとりに気づかれた。
 もう終わりだと思ったとき、こちらに向かってこようとする浅黒い男の足を、氷室が両手でつかんだ。急に足をつかまれた浅黒い男が前のめりに倒れると、残りのふたりの男たちが氷室を蹴り始めた。その隙に、星吾は逃げるように全力で駆けだしたが、大通りに出たところでバランスを崩し、転倒してしまった。
 顔を上げると街路樹が強風に煽られて倒れそうになっている。まるで絶滅した世界のように、まったく人の気配が感じられなかった。
 震える足に力を込めて起き上がったとき、周囲に短いうめき声が響いた。
 星吾がおびえながら振り返ると、すぐうしろにいるヴァイオレットピンクの男と視線がぶつかった。自分を捕らえに来たのかと思ったが、なぜか彼は青白い顔で唇をぶるぶる震わせている。
 嫌な予感がして路地を見やると、タトゥーと浅黒い男もこちらに向かって走ってくる姿が見えた。反射的に身構えると、浅黒い男は興奮した口調で「テメェが逃げだしたせいだからな。逃げたお前も同罪だ。俺らのこと誰かに話したら殺すぞ」と言い残して走り去っていった。
 星吾はなにが起きたのかわからず、駆けていく男たちの姿を呆然と眺めていた。ゆっくり首をめぐらし、路地のほうを凝視すると、氷室が倒れている姿が目に飛び込んでくる。
 辺りは薄暗く、不穏な空気が漂っていた。
 星吾は路地に足を踏み入れ、倒れている青年の近くに駆け寄った。
 腹からなにか鉄のようなものが突き出ている。それがナイフだと気づくまでに数秒かかった。
 氷室は右目だけを見開き、口を微かに動かしている。仰向けになった腹から真紅の血があふれ、あっという間に白いシャツを染めていく。
 星吾はあまりの恐怖に腰が抜け、その場にしゃがみこんでいた。声をだそうとするも、首を絞めつけられるような息苦しさに襲われ、叫ぶことさえできない。
 どろりとした血溜まりが、地面にじわじわと広がっていく。
 耳の奥から心臓を打つ音だけが響いていた。気持ちばかりが焦るが、身体の自由がきかない。
 気づけば、土砂降りの雨に打たれていた。
 どうして……警察は助けに来てくれないのだろう──。
 星吾は震える手で鞄をつかむと、スマホを取りだそうとして動きを止めた。
 浅黒い男の声がよみがえってくる。
 ──テメェが逃げだしたせいだからな。逃げたお前も同罪だ。
 テメェが逃げだしたせい? 同罪?
 自分が逃げだしたとき、男の足をつかんだせいで怒りを買い、あの人は刺されてしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、僕もなにかの罪に問われるのだろうか──。
 星吾は三者面談のとき、部活動も積極的に行い、成績や授業態度もよく、県内でも屈指の名門私立高校に学校推薦で受験ができると言われた。第一志望の県立高校も今のままがんばれば合格できると太鼓判を押された。それなのに今ここでこんな事件に巻き込まれたら、すべてがダメになってしまうかもしれない。
 遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてくる。星吾は感覚がしている足で懸命に立ち上がった。きっと警察が助けに来てくれたのだ。あんを覚え、おぼつかない足取りで大通りに向かって駆けだした。
 ──俺らのこと誰かに話したら殺すぞ。
 このまま現場にとどまり、彼らのことを話したら、本当に復讐されるかもしれない。自分は被害者だ。加害者じゃない。逃げてもなんの問題もないだろう。もし警察にかれたら、身を守るために逃げた、そう証言すればいい。またあの男たちが戻ってくる可能性もあるのだ。そもそも最初から金を渡しておけば、こんな出来事はちょっと悔しい経験で終わっていたはずだ。
 十四歳の少年には、正しい判断がつかなかった。
 自己愛が強く、良心が足りなかったのかもしれない。それとも十四歳では、パニックになり逃げてしまうのは普通の行動だったのだろうか。
 事件後、どれほど考えても星吾には明確な答えはだせなかった。
 それからの人生は、最悪なものへと変貌していった。

▶#4へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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