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連載

小林由香「イノセンス」 vol.2

電車に飛び込むなら、夜にやってよ。朝やられると迷惑なんだ。 小林由香「イノセンス」#2

小林由香「イノセンス」

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 ふわりと甘い匂いが漂ってくる。髪の長い女を目にしたとき、奇妙な感覚にとらわれた。どこかで会ったことがあるような気がしたのだ。
 同じ大学の学生だろうか──。
 大学二年の星吾ととしはそう変わらないように見えた。薄化粧で地味だが、美しく整った顔をしている。黒いワンピースや胸に抱えている白百合の花束が、暗く不穏なものを連想させた。
 女は優しい声音で「大丈夫ですか?」と色白の男に声をかけている。
 通報があったのか、慌てた様子で若い駅員がこちらに駆けてくる姿が目に入った。
 近寄ってきた駅員が「どうされましたか?」と尋ねると、色白の男は弱々しい声で「すみません。目眩がしただけです」とうそぶき、緩慢な動きで立ち上がった。そのまま、今にも倒れそうなおぼつかない足取りで改札に続く階段に向かっていく。
 駅員はこちらに軽く頭を下げると、すぐにあとを追いかけ、男の顔を覗き込むようにしてしきりに声をかけていた。
「夜なら死んでもいいの?」
 今度は女が敵意のこもった視線を向けてくる。
 星吾は笑いそうになった。
 人身事故で長時間電車が止まれば、苛立つ乗客は多い。中には駅員に悪態をつく者もいるというのに、当人を目の前にしたら優しい言葉をかけろというのだろうか。
 女の問いかけを無視して、星吾はホームを歩き始めたが、すぐに足を止めた。
 背後から「今日の夜、あの人が自殺したらどうする?」という言葉を投げかけられたのだ。その声には上辺だけで心配している人間とは違う怒りに満ちた響きがあり、今にも泣きだしそうに震えていた。
 星吾は、つい振り返ってしまう。女はうすい唇を引きしめ、真っ赤な瞳でこちらを睨みつけてくる。
 他人のことなのに、なにを熱くなっているのだろう──。
 内心で舌打ちすると、強い反発心が湧いてきた。
 もしも同じ大学の学生なら、悪いうわさを流される可能性もある。星吾は白けた気持ちを押し隠しながら、どうにか言葉を吐きだした。
「僕が止めなければ彼は死ぬはずだったんだ。その後の人生は、彼自身が決めることだよ」
 一瞬、女の目に増悪の火がともった。
「それなら、なぜ助けたの」
「遅刻したくなかっただけ」
「自分にメリットがなければ人なんて助けないってこと?」
 星吾は思わず言葉を失った。胸の奥で複雑な感情が芽生えた。
 彼女の目にうっすら涙がまっていたのだ。
 この女は、色白の男となにか深い関係があるのだろうか──。
 どこか空恐ろしくなってくる。なぜこんなにも執着するのか理由が気になったが、もうこれ以上空疎な会話を続けたくないという感情が勝った。都合よく、「黄色い線の内側にお下がりください」というアナウンスが流れ、ホームに電車が滑り込んでくる。
 星吾は薄気味悪い女から離れ、急ぎ足で車内に駆け込んだ。
 空いている座席に腰を下ろし、なにげなさを装いながら周囲に目を走らせる。けれど、車内にもホームにも、どこにも女の姿は見当たらない。
 奇妙な夢を見ているような気分だった。
 正面の車窓に目を向けると、ジュエリーブランドの巨大な広告が目に入った。森の中にいるふたりの子どもたち。少年が少女の小さな手を取り、指輪をはめようとしていた。店名だろうか、上部にはシルバーの文字で『エバーグリーン』と書いてある。
 突然激しい頭痛に襲われ、星吾はこめかみを指で強く押さえた。
 虫がうごめくようなゴボゴボという低い音が響いた直後、高音のキーンという耳鳴りがしてくる。
 目の前の景色が歪み、強い息苦しさを覚えた。
 鳥肌が立ち、全身が硬直する。
 一瞬だが、車窓にあの男があらわれたのだ。
 すぐに顔を伏せる。ときどき、この症状に襲われ、苦しんできた。理性で押し込めていた憎しみが今にも爆発しそうになり、慌てて鞄の外ポケットに手を突っ込んだ。瞼を閉じて、お守りを強く握りしめる。冷たい金属の感触が手に広がった。
 お守りが熱を持つ頃、緩慢な動きで顔を上げると、そこには亡者の姿はなく、見慣れた景色が静かに広がっていた。
 気づけば、全身が汗まみれになっている。
 ガタンとドアが閉まり、電車はゆっくり動きだした。
 むろけいいちろう──。
 あの男はもうこの世にはいないのに、いまだに深い憎しみを消せないでいた。
 世間の人々は、氷室をヒーローとあがめる。けれど、星吾にとっては憎悪の対象以外のなにものでもなかった。
 なぜあの日、あの男に出会う運命だったのか、その意味を繰り返し考え続けた。どれだけ考えても答えなんて見つからないのに思考するのをやめられず、最後は決まって自分の運の悪さに泣きたくなる。
 あの事件が起きたのは、数ヵ月後に高校受験を控えた十四歳の秋だった。
 学校が休みだった土曜、進学予備校に行くと、掲示板には模擬試験の案内に交じって『恐喝犯に注意!』と書かれた紙が貼りだされていた。
 予備校の近くの繁華街でカツアゲが横行しているという。
 講師や職員たちは、「帰りが遅くなるときは気をつけるように」と呼びかけていた。けれど、生徒たちは、中学生の所持金なんてたかが知れているから、犯人のターゲットにはならないだろうと気にも留めていなかった。
 模擬試験を受けたあと、星吾はしばらく自習室で勉強してからエレベーターでエントランスホールに降りた。腕時計の針は、午後五時を指していたのを覚えている。
 予備校の外に出ると、いつもより人通りが少なかった。
 その日は、大型で強い台風が接近していたのだ。
 台風の到来は予想されていた時刻よりも、かなり早かった。周囲の木々は強風にあおられ、目の前を壊れた傘が横切っていく。
 生暖かい風に誘われて天を仰ぐと、鉛色の分厚い雲が激しくうねりながら動いていた。不気味な空模様に不安をき立てられ、心細くなった星吾は駅に続く道を足早に歩き始めた。
 電車は問題なく動いているだろうか──。
 運行状況を確かめるため、鞄からスマホを取りだそうとしたとき、右腕に強い衝撃を受けた。
 それは一瞬の出来事だった。
 背後から誰かに腕を強くつかまれ、あっと思ったときには路地裏のポリバケツに向かって投げ飛ばされていた。膝を強く打ったせいで、うまく立てない。生ゴミの異臭が鼻を衝き、慌てて口元を覆いながら顔を上げた。
 異様な光景に、ごくりと唾を飲み込んだ。
 目の前には、人のさそうな笑みを浮かべた三人の男たちが立っていたのだ。
 ひとりはジャケットにジーンズ姿の浅黒い男。後方には、首にイーグルのタトゥーを入れている怪しげな人物。その隣には、髪をヴァイオレットピンクに染めた中性的な雰囲気の男がいた。

▶#3へつづく
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