ヒトゴロシハシネ。窓に貼られた怪文書の赤い文字が、罪悪感を刺激する。小林由香「イノセンス」#1
小林由香「イノセンス」
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遮光カーテンを開けた瞬間、あっ、という間抜けな声が口からもれた。
強烈な陽光と共に血しぶきのようなものが目に飛び込んでくる。
静かに、赤く揺れる光。視界がゆっくりぼやけていく。
強い日差しに目を細めると、
ヒトゴロシハシネシネシネシネシネシネシネ──。
窓に貼られた白い紙に、鮮やかな真紅の文字が書き連ねてある。文字のサイズは大小ばらばらで、ひどく拙い筆跡だった。なにを意味するのか、文末には『2月9月野木』という暗号めいた言葉が記されている。
まるで涙をこぼしたかのように、ところどころインクが
紙いっぱいに広がる不穏な文字を眺めていると、軽い
星吾は奥歯を
一度大きなミスをした人間は、死ぬまで許されないのだろうか──。
この類の嫌がらせには慣れているつもりだったのに、レースカーテンをつかむ手が、じっとりと汗ばんでいた。
窓の外に視線を走らせ、辺りを慎重に確認してみたが、どこにも不審な人物は見当たらない。猫の額ほどの庭には、色あせたペットボトルが転がっているだけだった。
次第に、爽やかな朝日を浴びながら脅迫的な文面を眺めている自分が哀れに思えてくる。
乱暴に窓を開けた。腕を伸ばし、爪の先でセロハンテープを剝がしていく。途中で面倒になり、引きちぎるようにして紙を取り去った。
アパートの二階に住むべきだったかもしれない。そう思った直後、口から
遠くから聞こえてくる子どもたちの無邪気な声が、更に不快感を刺激する。大きな音を立てて窓を閉めると、心を静めてから半年前の記憶をたどってみた。
あのときも
犯人は住居を特定していることを知らせたくて、ご丁寧にも窓に貼ったのだ。
昨日、バイトを終えて帰宅したのは夜の十一時。そのときは、なにも異変に気づかなかった。
恐ろしい想像が頭をかすめ、嫌な感情を増幅させていく。深夜、就寝しているときに貼られた可能性も捨てきれないのだ。
怒りにまかせて紙をくしゃくしゃに握りつぶし、ゴミ箱の中に投げ込んだ。
誰もいないのに、近くに人の気配を感じる。
部屋にあるテレビやパソコンのモニターには、黒い布が掛けられていた。それらを横目に見ながら、部屋を出て洗面台の前に立った。目を伏せたまま歯ブラシをつかんで歯磨き粉を素早くつける。どくどくと鼓動が速まっていくのを感じた。
不穏な出来事が起きると、鏡を見るのが怖くなる。
あの男があらわれるようになったのは、十六歳の秋──。
男は殺害されたのに、いまだに鏡の中に姿を見せる。電源を落としたあとのテレビやパソコンのモニターに、ほんの一瞬だけ映り込むときもあった。
青白い顔の亡者は、いつも右目を大きく見開き、左目を怪しく細めている。
頭がおかしい、と人は言うかもしれない。けれど、
泣きながら謝り続けても、あの男にはどのような言葉も届かない。なにを望んでいるか尋ねても返答はなく、薄い笑みをこぼすだけだった。
アパートを出て空を振り仰ぐと、先刻とは打って変わり、低い灰色の雲が垂れ込めていた。
星吾は微かな
大型トラックの走行音、遠くで響くクラクション、頭上で旋回するカラスの鳴き声、そのすべてが耳障りで鬱陶しくてしかたなかった。
気を抜くと、
排ガスを含んだ生暖かい風に頰をなぶられ、鼻を
こめかみを指で押さえ、どんどん歩調を速めていき、鈍行しか
鞄から定期券を取りだして改札を抜け、長い階段を下りてホームに出ると、曇り空のせいで普段よりも辺りが薄暗く感じられた。心なしか空気も
星吾はいつも乗車する位置まで向かう途中、ふいに視界の端になにか白いものを捉えた。
反射的に視線を移すと、一羽の
年齢は四十代後半くらい。
一瞬、目を疑った。
色白の男が肩を震わせ、涙を拭うような仕草をしたのだ。
背筋がひやりと冷たくなったとき、静まり返ったホームに急行電車が通過するアナウンスが流れてきた。
唐突に色白の男は、知り合いに挨拶するかのように少しだけ右手を挙げ、顔をくしゃくしゃにして笑った。
反射的に彼の視線の先をたどってみたが、向かいのホームには誰もいない。存在しない相手に
威圧的な
その場から遠ざかりたいのに、身体がいうことをきいてくれなかった。
すぐそこまで電車が来ているのに、色白の男はじりじりとホームの
次の瞬間、意に反して足は駆けだしていた。
ぞっとするほど細い腕──。気づけば、色白の男が線路に飛び込もうとしたとき、星吾は彼の腕をつかんでいた。男は人形のように抵抗しなかったため、強く引いた勢いで自分もろともホームに倒れ込んでしまった。
顔を上げると、電車が警笛を鳴らし、すぐ目の前を通過していく。
耳を
電車が通過するまで、倒れたまま立ち上がることさえできなかった。
轟音が消える頃、星吾は鈍い痛みを感じた。すぐに自分の右腕に目を向けると、皮が
「なんの恨みがあって……どうして……どうして」
なにか呪文のような言葉が耳に飛び込んできて顔を上げると、色白の男はこちらを
彼は全力で声を張り上げているようだが、かすれていて聞きづらかった。目に憎しみの色を滲ませ、血色の悪い唇をわなわな震わせている。
「どうして……どうして俺の邪魔をした」
勘違いしている男の姿を目にした途端、腹の底から激しい怒りが込み上げてきた。
「迷惑なんだよ」
星吾は立ち上がると、苛立ちを抑えられず、吐き捨てるように言葉を継いだ。「そんなに死にたいなら、夜にやってよ。朝やられると迷惑なんだ」
色白の男は一瞬だけ虚を
「朝は迷惑……そうか……迷惑か……」
男は自分に言い聞かすようにゆっくり声をだした。人間ではなく、まるで壊れかけのヒューマノイドのようだ。
星吾は相手をするのも面倒になり、駅員が来てくれるのを期待した。けれど、こちらに駆け寄ってきたのは、花束を抱えたひとりの女だった。
▶#2へつづく
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