【連載小説】もっとひどい地獄を目にすればいい、誰かがそう嘲笑っている気がした。 小林由香「イノセンス」#28
小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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大学の講義をサボったのは初めてだった。
動物園に行きたいと言いだしたのは紗椰だ。そのあと、自然公園に行きたいと言ったのは星吾だった。まるで子どもの遠足のようで、少しだけ気恥ずかしくなる。
星吾は園内の売店で画用紙を購入し、筆箱からデッサン用の鉛筆を取りだして動物たちの絵を描いた。小学校の写生大会のときのような、わくわくする気持ちが舞い戻ってくる。
光源の向きを確認して陰影を描いているとき、唐突に色を塗りたいという衝動に駆られた。自分の中に色彩を求める気持ちが隠れていることに少し驚かされた。
彼女から依頼された絵を次々に描いていく。
リスザル、ライオン、キリン、
梟の顔の部分を宇佐美にしてみると、紗椰は声を上げて笑った。
「もし草食動物に生まれたら、自由に生きられるサバンナと安全だけど自由には生きられない動物園、どっちで暮らしたい?」
紗椰の質問に、星吾は即答した。
「動物園」
なぜか彼女は「そう言うと思った」と、優しげな笑みを浮かべた。
自然公園でパンを食べ、ふらふらと散歩をし、歩き疲れた頃、芝生の広場に座って紗椰の絵を描き始めた。
人間を描くのは苦手だった。それなのに彼女を描きたいという気持ちが不思議なほど込み上げてくる。細部まで正確に描写していく。さっきよりも、色彩を求める気持ちが増していた。
風が心地よかった。近くにある木々の揺れる音が響いている。
芝生に西日が射し込む頃、紗椰は描き上げた絵を見つめながら訊いた。
「私はこんなふうに笑ってるの?」
「そんなふうに笑ってる」
「それなら……お葬式のときの遺影は写真よりも絵のほうがいいな」
「僕も同じことを思ったことがある」
「パステルカラーで描かれた優しい絵」
紗椰は自嘲気味に微笑むと言葉を継いだ。「ずっと音海君が苦手だった。自分に似ていたから……それなのに一緒にいると安心する。なぜか気持ちが穏やかになる。音海君なら他の人には理解してもらえない感情をわかってくれる気がするから、だから……気づいたら大切な人になっていたんだと思う」
一瞬、心が浮き立つような感動を覚えたが、恐怖心がじわじわと光源を塗りつぶしていく。
誤解から始まる人間関係はうまくいかない。いちばん哀しくてやりきれないのは勘違いされることだ。勘違いは、いずれ失望へと変わるのだから──。
星吾は喉もとまで出かかった言葉を必死に吞み込んだ。
あの事件以来、人から好意を寄せられることは二度とないと思っていた。
紗椰に惹かれている自分に気づくと同時に、激しい嫌悪感に襲われた。
胸の中に芽生えた感情を嘲笑う者がいる。
お前に人を好きになる権利、幸せに生きる資格はあるのか。過去の出来事を隠して、誰かに好きになってもらうのは卑怯者のすることだ。そう責め立てる声が耳の奥から響いてくる。
十四歳の頃の自分の愚かさや、苦しい気持ちをすべて打ち明け、彼女の同情心に訴えかけたくなる。けれど、なにひとつ言葉になってくれない。
血だらけの氷室の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。
すべてを知ったら彼女はどう思うだろう。助けてくれた人を置き去りにした、あの日の少年をどう感じるのか──。
嫌われたくないという切実な思いが込み上げてくる。
紗椰は混乱の原因を勘違いしたのか、戸惑った様子で言った。
「突然、ごめんね」
星吾は、彼女の目をまっすぐ見据えながら正直な気持ちを吐露した。
「また黒川さんの絵を描きたい」
もしも神様がいるなら、どうか許してください。もう少しだけ一緒にいたい。いつか必ず、真実を話します。だからもう少しだけ──。
できるのは、いつだって虚しく祈ることだけだった。
駅から十三分ほど歩いた先に、単身者向けの二階建てのアパートがあった。築二十六年、1DKの間取りが十二部屋ある。
一階のいちばん奥、一○六号室が星吾の部屋だった。
静まり返った部屋に入ると、照明をつけてから鞄をローテーブルの近くに置いた。テレビやパソコンのモニターには黒い布が掛けられている。埃をかぶるのを防ぎたいわけではない。少しでも姿が映るものが怖かったのだ。
星吾はテレビを覆い隠している布を外すと、コンビニで買った弁当を袋から取りだしてテーブルに置いた。リモコンを手に取り、液晶画面を見ないようにして電源を入れる。
夜の報道番組では、昨日発生した土砂災害の状況を伝えていた。
山が崩れ、土石流が民家を押しつぶす映像が映しだされる。まるで巨大な
チャンネルを変更すると、隣県の公園で男性の遺体が発見されたというニュースが報じられている。男性は刃物で何度も背中を刺され、死亡していたようだ。
物騒な事件から遠ざかりたくて、またチャンネルを変えようとして手を止めた。
思わず息を吞み、画面に見入ってしまう。映しだされた被害者の写真に、強い既視感を覚えたのだ。
写真の男の首には、イーグルのタトゥーが刻まれている。
冴島翔哉。二十四歳──。
首筋にぞわっと鳥肌が立った。
瞬時に、月野木礼司の名が頭に浮かんだ。たしか、彼について調べたとき、目にした名前だった。冴島翔哉は、間違いなく氷室の事件の加害者のひとりだ。
冴島の刑期は、懲役五年。きっと仮釈放が認められ、出所していたのだろう。
早朝、公園をランニングしていた男性が、冴島の遺体を発見したという。犯人はまだ見つかっていないようだ。
去年、月野木はバイク事故で亡くなっていた。
彼は誰かに狙われ、事故に見せかけて殺害されたのではないか、一度はそう疑ったが、荒唐無稽な考えだと思い直した。けれど、冴島が殺害されたとなると、単なる偶然では片付けられない。あのときの加害者が、ふたりも亡くなっているのだ。
もしも冴島を殺害した人物が、氷室の関係者だとしたら──報復殺人の可能性も考えられる。
びくりと上体を震わせ、呼吸を止めた。
アパートの外階段を駆け上がる靴音が聞こえてきたのだ。聞き慣れているはずの生活音なのに、今はなにもかもが怖く感じる。
──テメェが逃げだしたせいだからな。逃げたお前も同罪だ。
犯人の非難めいた声が耳によみがえり、ぎくりとした。
慌てて立ち上がると窓に駆け寄り、星吾は震える手でカーテンを乱暴に開けた。
なにも不審なものはなく、窓ガラスには不気味なほど憔悴した自分の顔が映っているだけだった。
視界が狭まり、すべてが暗転していく。
バイト先への嫌がらせがなくなった理由に気づき、絶望に打ちのめされた。
もしかしたら、深い憎悪の感情は嫌がらせのレベルを超え、殺意にまで昇華されたのかもしれない──。
なんの確信もないのに、湧き上がった疑念は簡単に払拭できなかった。
自然公園で紗椰と過ごしたときの甘やかな気分は消え去り、胸の中の不安が増大していく。
心安らかに暮らせる日は永遠に来ない。どこまでも堕ちていく呪いをかけられたのだろうか。もうその呪いからは決して逃れられないというのか──。
もっとひどい地獄を目にすればいい、誰かがそう嘲笑っている気がした。
気象予報士は少し顔をしかめ、「しばらく雨が続くでしょう」と告げた。
▶#29へつづく
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