【連載小説】「犯人を捕まえたぞ! すぐに美術室に来い!」 小林由香「イノセンス」#29
小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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天気予報どおり、七月に入ってからも雨は降り続き、日中でも薄暗い時間が多かった。どんよりした灰色の空は、嫌な予感を搔き立てる。
冴島が殺害されたというニュースを目にしてから、星吾は一時も心が休まらなかった。なんの確証もないのに、日毎に恐怖心は増していく。刑の執行に怯える死刑囚のような心境だった。
次に殺されるのは自分かもしれない──。
余計なことばかり考えてしまい、講義の内容がまったく頭に入らない。星吾は居ても立ってもいられなくなり、一限目が終了すると、すぐに新図書館へ急いだ。
館内のいちばん奥にはパソコンが設置されたブースがある。周囲はガラスのパーテーションで仕切られていた。
誰もいないのを確認してからブースに足を踏み入れ、椅子に腰を下ろした。
すぐにパソコンを起動する。過去の新聞記事のデータベースを利用し、氷室の事件について検索した。次にポータルサイトを開き、検索窓に事件と関連のあるキーワードを入力していく。様々なウェブサイトや掲示板などにもくまなく目を通し、必要な情報は随時プリントアウトした。
マウスを握る手が汗ばみ、胸がちくりと痛んだ。
数は断然少ないが、「助けてもらった少年は、被害者を置き去りにした」と書いてあるサイトを発見したのだ。
星吾は辺りに視線を這わせた。ただ調べているだけなのに、妙な噂が立ちそうで恐ろしくなる。
不審な人物がいないのを確認してから、また検索を再開した。
ネット上には加害者たちの生い立ちや性格などは詳細に載っているのに、氷室の家族についての情報はほとんどなかった。よく考えれば、当然のことだ。きっと、被害者の関係者たちは、公判で死刑を強く望んだだろう。出所後の報復を懸念し、遺族の情報はほとんど掲載されていないのかもしれない。
それでも諦めずに検索を続けていると、氷室の父親に関する情報が載っているサイトを発見した。
氷室の父親は、『氷室リゾート』の経営者だと書いてある。氷室リゾートが運営しているホテルは、東京、大阪、福岡にあるようだ。
真偽を確かめるために、ふたりの関係性を調べてみるも、親子だと確信できる情報は見つからなかった。
ふいに、ある記事に目が留まった。
先月、氷室リゾートが運営する東京のホテルで食中毒事件が起きている。宿泊客の七十三人が下痢や発熱の症状を訴え、管轄の保健所が調査をしたところ、集団食中毒が判明したようだ。
星吾はひと通り検索を終えてから、今度は旧図書館へ向かった。
受付カウンターにいる松原に、過去の週刊誌を所蔵していないか尋ねてみたが、抑揚のない声で「四年以上前の古いものは置いていません」と切り捨てるように言われた。
いちばん奥の四人がけの机まで行き、疲れきった身体を椅子に預けた。
鞄からプリントアウトした資料を取りだし、氷室の事件について知り得た情報をノートに書きだしてまとめていく。
氷室と冴島の事件には、なんらかの関連性があるように思える。けれど、どれだけ詳細にまとめてみても真相は不明のまま、悪い妄想だけが膨らんでいく。
交番に被害届を提出したあと、警察から一度だけ連絡があり、星吾はその後の状況を訊かれた。防犯カメラには事件現場の映像は映っていなかったようだ。けれど、ここ数週間は危険な出来事に遭遇することもなく、穏やかな日々を過ごせていた。
すべては考え過ぎなのだろうか。偶然、氷室の事件の加害者がふたり死亡した。ただそれだけのことなのかもしれない。いや、それならば画集や花瓶を落とし、車道に向けて突き飛ばしたのは誰の仕業だったのだろう。もちろん、氷室とは関係のない第三者の犯行の可能性も捨てきれない──。
誰かに見られているような気配を感じて窓の外に目を向けた。
妙な胸騒ぎを覚えた。
外には光輝がいる。いつもの穏やかな表情は影を潜め、眉根を寄せ、鋭い目で館内を睨んでいる。その視線の先には、松原がいた。カウンターにいる彼女は、なにやら作業をしているようで、気づいていない様子だった。
以前、星吾は同じような場面に直面したことを思いだした。
学食での出来事だ。光輝は険しい表情で、中庭にいる松原と武本に目を配っていた。
彼女との間に、なにか問題を抱えているのだろうか──。
見てはいけない現場を目撃してしまった気がして、目をそらそうとしたとき光輝と視線がぶつかった。
彼は強張った表情から一転、いつもの人懐っこい笑みを作った。スマホを取りだし、それをこちらに見せるようにして振った。
慌てて鞄からスマホを取りだすと、十分前に光輝からメッセージが届いていた。
──もうランチ食べた?
すぐに「まだ」と送ると、数秒で「一緒に食べよう」と返ってきた。
こんなにも近くにいるのに、窓ガラスを隔てて会話をしているのがおかしくて、奇妙な気分になる。恐怖と孤独の中を彷徨っていたせいか、光輝の明るい笑顔に救われる思いがした。
外に出るとじめじめと蒸し暑く、湿気が肌にまとわりついてくる。見上げた空は、相変わらず灰色で埋め尽くされていた。
軽い挨拶を交わしてから、ふたりで肩を並べて学食まで歩き始めた。
花瓶が落ちてきて以来、建物のそばを歩くときは上空が気になり、ときどき恐怖に襲われることがあった。けれど光輝と一緒にいると、不安は驚くほど和らいだ。
ちょうど昼時だったため、学食は空席が見つからないほど混んでいた。
星吾はハンバーグ定食、光輝はオムライス。ちょうど窓際のテーブル席に空きが出たので、そこに向かい合って座った。広々とした中庭のベンチには、スナック菓子を食べている数人の学生たちがいる。みんな一様に笑顔だった。
光輝は呆れたような口調で言う。
「それにしても旧図書館が好きだよね」
「オムライスが好きだよな」
星吾はこの前も同じメニューだったのを思いだして言い返した。
「他人に興味がないのに、俺の好きなものを覚えていてくれるなんて嬉しいねぇ」
光輝は言葉とは裏腹に、どこか哀しげな表情を浮かべている。
星吾は思わず
「松原っていう司書となにかあったの?」
すぐに後悔が押し寄せてくる。一瞬、光輝の顔が険しくなったのだ。
「俺の好きな人って……あの司書なんだ」
その告白に、星吾は驚きの声を上げてしまいそうになり、どうにか堪えた。
松原から連想されるのは、無愛想で暗く、近寄りがたいイメージだ。星吾からすれば、彼女のような人は安心できる。けれど、普通の学生からしたら関わりたくないタイプに思えたので意外だった。
バイト中、彼女と喧嘩したと言っていた。先ほど鋭い眼差しで松原を見ていたのは、まだ仲直りしていないからなのだろうか──。
光輝は言いづらそうに口を開いた。
「彼女は松原
「それは……なんとなくわかる」
「なんでわかるんだよ」光輝は苦笑した。
「本棚をいつもしっかり整理しているし、愛想はないけど真面目でいい人そうだったから」
「なんか嬉しい。他の友だちからは、いつも『どこがいいの?』って訊かれるから……」
「どこがいいの?」星吾は笑いながら質問した。
光輝も声を上げて笑ったあと、素直に話してくれた。
「声が好きなんだ。俺が入っている心理学研究会はメンタルフレンドのボランティアに参加していて、そこで彼女は不登校の児童に本の読み聞かせをしている。そのときの優しい声が好きだった。彼女独特の世界観があって、芯が強くて、そういうところも好きだったんだ」
「どうして過去形なの?」
「彼女は五つ歳上で、ガキだと思われているみたい。この前、俺みたいな優柔不断な人間は好きじゃない、ってはっきり言われた」
「吉田は優柔不断な人間なんかじゃない」
星吾が断言すると、光輝は目を丸くして否定した。
「いや、彼女は間違ってないよ。俺はすぐに人に流されるタイプだし、子どもの頃からなにをやっても、自分の考えは間違ってないか、って常に不安になる。情けないけど自信がないから、いつもひとりで正しい決断が下せないんだ」
自分だけは正しいと思って生きている人間は多い。それなのに、光輝は己の価値観を疑っている。それが彼の優しさの
「吉田みたいな人と一緒にいると安心する」
星吾は偽らざる思いを口にした。「常に自分は正しいと思っている人と向き合うと、ときどき怖くなるんだ」
星吾は胸の内を素直に語っている自分が奇妙に思えた。冷静になると急に恥ずかしくなり、少し顔を伏せた。
「そういう気持ち……俺もなんとなくわかる」
光輝は賛同するようにうなずいてから、弱々しい笑みをみせた。
まったくタイプが違うのに、互いの気持ちを理解し合えるのが不思議だった。だからこそ、もう噓を重ねたくない。彼にはなるべく本音を伝えたい。
そのとき、ポケットのスマホが振動した。
電話の相手は、宇佐美──。
『犯人を捕まえたぞ! すぐに美術室に来い!』
▶#30へつづく
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