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連載

小林由香「イノセンス」 vol.30

【連載小説】信号待ちをしているとき、僕を車道に向けて突き飛ばしたのはあなたですか。 小林由香「イノセンス」#30

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 通話をオンにした瞬間、怒声が耳に飛び込んでくる。
 スマホを持つ手が震え、一気に血の気が引いていくのを感じた。
 電話の向こうで格闘しているような音と怒鳴り声が聞こえてくる。
 焦燥感に駆られているのに戦慄が身体を貫き、星吾は身動きすらできなくなっていた。
「どうした? なにかあったのか?」吉田は顔をしかめた。
 その声に我に返り、星吾は勢いよく立ち上がった。
「美術室で……」
 星吾はそこまで言うと鞄をつかみ、椅子が倒れるのも構わず、外に向かって走りだした。
 犯人?
 美術室でなにが起きているのだろう──。
 気が急いて、何度も転びそうになる。人にぶつかりながら学食を出て、B棟に続く道を全力で駆けていく。
 宇佐美が言う「犯人」とは、花瓶を落とした人物のことだろうか。もしも複数犯だったら、そいつがナイフを持っていたら──。
 次から次へと悪い妄想が膨らんでいく。
 脳裏に過去の悪夢がよみがえる。
 腹から血を流して倒れている氷室の姿がフラッシュバックし、恐怖から足が止まってしまいそうになる。
 星吾は鞄の外ポケットに手を入れると、お守りをつかんだ。すぐに取りだせるようにズボンのポケットに移動させた。
 なぜこんな危険な状態になったのだろう。まさか、先生は犯人を捜していたのか。いや、偶然、美術室で犯人と鉢合わせしてしまった可能性も考えられる。
 とにかく無事でいてほしい──。
 星吾は走りながら美術室の窓を見上げた。花瓶のときとは違い、窓もカーテンも閉まっている。
 B棟に駆け込み、エレベーターに乗り込んだ。
 強張った指でボタンを連打する。鼓動は速まり、ひどい耳鳴りがしてくる。エレベーターが上昇するにつれ息苦しさが増していく。必死の思いで呼吸を繰り返した。
 寒気を感じているのに、額からは汗が噴き出てくる。
 冷静になりたくて目を強く閉じた。暗闇の中、血まみれの氷室が左目を細めて笑っている。その姿は古い映像のように歪み、ゆっくり遠ざかっていく。
 エレベーターを出て、長い廊下を全力で走り、美術室に駆け込んだ。
 すっと体温が下がった気がした。
 真っ白な頭部が、足もとに転がっている。棚の上にあるはずの石膏像──。
 室内を見ると、そこには予想外の人物がいた。
 武本伸二──。
 筋肉質な宇佐美と線の細い武本とでは、力の差は歴然としている。けれど、指が動かないせいか、全力で暴れる武本を床に組み伏せるのに苦労していた。
 武本の手に凶器がないのを確認し、星吾は安堵のあまりその場にくずおれそうになった。
 教卓の下には、頭のない割れた石膏像が散らばっている。争っている最中に棚から落下したのかもしれない。
「お前が花瓶を落としたんだろ」
 宇佐美は興奮気味に尋ねると、武本はわめいた。
「違うって言っているだろ! 僕はただ絵を……」
「絵をなんだ?」
 宇佐美がそう訊くと、武本はまた激しく抵抗しようと試みるが、力尽きたのかおとなしくなっていく。
 室内にはズタズタに切り裂かれた紗椰の肖像画が何枚も散らばっている。すべて鉛筆で描かれた絵だったが、実際に彼女が傷つけられたような気がして、胸が痛んだ。近くには金属製のパレットナイフが転がっている。きっと、それで絵を突き刺して破いたのだろう。
 一緒に動物園と自然公園に行ってから、紗椰はときどき絵のモデルになってくれた。
 星吾はひとりのときも、彼女の絵を描き続けた。ふたりに特別な進展はなかったが、描けば描くほど、自分の想いに噓がつけなくなるのを感じていた。けれど、過去の罪に阻まれて素直になれない。だからこそ、絵を描くことで想いを表現したくなる。絵を観た武本は、なにかを敏感に察したのかもしれない。
「武本?」
 声がして振り返ると、ドア付近に光輝が立っていた。
 光輝はなにが起きているのか全く理解できないという顔つきで室内に目を走らせている。
 宇佐美は、背後から武本の両腕をつかみ上げ、無理やり彼の上半身を起こした。武本は抵抗する気力を失っているようだが、鋭い眼光を星吾へと向けてくる。
「こいつの鞄から学生証をだせ」
 宇佐美はそう指示しながら、近くに落ちている深緑色の鞄に視線を送った。
 星吾が鞄に手を伸ばそうとすると、光輝が口を開いた。
「経済学部二年、武本伸二」
 武本は苛立った表情で光輝を睨んだ。
「どうして音海に危害を加えようとした?」
 宇佐美は冷静さを取り戻したのか、今度は穏やかな声音で続けた。「花瓶の次は石膏像か? ガキじゃあるまいし、四階からものを落としたらどうなるか考えてみろ」
 初めて聞く話だったせいか、光輝の顔には驚きの表情がよぎった。
 花瓶が落下してきたとき、星吾はB棟の廊下で武本とすれ違ったことを思いだした。あのときの鋭い目つきを思い返せば、自然に悪い想像は働く。そのうえ、武本は長身だ。信号待ちをしていた母親の「背の高い男性」という目撃情報とも合致する。
 武本は呆れた口調で言った。
「さっきから、なんの話をしているんですか? 花瓶なんて落としてないよ。この安っぽい絵を処分しようとしただけです」
 光輝は、武本を見下ろしながら意外な言葉を口にした。
「好きな人を取られて嫌がらせするなんてダサいだろ。そんな程度の低い人間だから相手にされないんだよ。紗椰が選んだのは、お前じゃなくて星吾なんだ」
「驚いたよ。こいつと仲がいいんだな」
 武本は非難めいた声で返した。
 その言葉に苛立ったのか、光輝と武本の応酬が始まった。
「武本、お前は裕福な家庭で育ち、成績もいつもトップで、ほしいものはなんでも手に入る環境だった。そういう奴が人を好きになると厄介なんだ」
「幼稚園の頃からずっと紗椰を見守ってきた。大切に想ってきたんだ。紗椰の母親の葬儀の日だって、僕がそばにいて支えてきた」
「成績はいいくせに理解力がなさすぎて笑えるよ。紗椰が好きなら、告ってふられてあきらめろよ。これ以上、星吾に関わるな」
「こんな最低な人間を好きになる紗椰も、嫌われ者の相手をして偽善者ぶっているお前もどうかしているよ」
 その武本の言葉に、光輝の目尻が微かにけいれんした。
 星吾は妙な胸騒ぎを覚えた。
 もしかしたら、武本はなにか知っているのかもしれない。駅のホームで色白の男に投げた暴言、これまでの優しさに欠けた言動の数々……。もしそうならば、幼馴染を心配する気持ちは理解できる。武本が言うように、自分は誰かにかばってもらえるような人間ではないのだ。
 星吾は覚悟を決めて、核心に迫る質問を投げた。
「信号待ちをしているとき、僕を車道に向けて突き飛ばしたのはあなたですか」
 宇佐美と光輝は、驚いたらしく大きく目を見開いた。
 武本は笑いながら答えた。
「本当に嫌われ者だな。そのとき死ねばよかったのに。僕はカスみたいな人間を殺して、自分の人生を台無しにするほど愚かじゃない。絵を切り裂いただけだ」
 こちらをまっすぐ見据える目に、噓は見当たらない。しばらく観察しても、武本は虚偽を口にしているようには見えなかった。
 星吾は喉から絞りだすように声をだした。
「絵だけなら……もういいです」
 宇佐美は、一瞬物憂げな表情を浮かべた。
 武本は拘束されている腕を振りほどくと、涼しい顔でドアに向かって歩きだした。
「おい待て、話はまだ終わってないぞ」宇佐美が怒鳴った。
 振り返った武本は、不気味な笑みを浮かべながら言った。
「彼の言葉が聞こえなかったんですか。『もういい』そうですよ」
「芸術を軽視するなよ。絵を切り裂いたら器物損壊罪だ」
 宇佐美が苦言を呈すると、武本は動揺する素振りも見せず言い返した。
「先生に無理やり取り押さえられたせいで服が少し破れました。これも器物損壊罪ですね。腕にあざができているので傷害罪で告訴できるかもしれません。あぁそうだ。やってもいないことを疑われたので名誉毀損罪ですね。まずは父と相談して学長に報告するかどうか検討します」
 武本は勝ち誇った顔つきで微笑んだ。

▶#31へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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