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連載

小林由香「イノセンス」 vol.31

【連載小説】被害者遺族の怒りが消えることは永遠にない。 小林由香「イノセンス」#31

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 宇佐美は真っ青な顔だったが、口元に笑みを湛えている。
「大学生にもなって、パパに相談とは立派だな。俺を訴えたければ、やればいい。でも、もう二度と音海に危害を加えるな」
「ダメな子ほどかわいい、ってやつですか」
「本当にもういいです」
 星吾は大事になるのを避けたくて声を上げた。
 光輝は心情を察したのか、釘を刺した。
「お前が絵を切り裂いたのは事実だ。今日のことはお互い水に流そう」
「どっかの美術教員とは違って、吉田は頭が悪いくせに理解力があって助かるよ」
 武本は嫌味を吐き捨てて教室を出ていった。
 光輝は、星吾のそばに近寄ってくると真剣な面持ちで言った。
「もうすぐ講義の時間だから行くけど、高校の友だちに訊けば、武本の住所がわかるから、なにかあったら俺に相談してよ」
 星吾は「ありがとう」とつぶやくのが精一杯だった。
 光輝は、宇佐美に軽く頭を下げてから教室をあとにした。
 ドアが音を立てて閉まる。
 騒々しかった室内がしんと静まり返った。
 気まずい空気が漂っているのを感じて、星吾は少し顔を伏せた。
 宇佐美から深い溜息がもれる。
「最近はずいぶん教員の立場が弱くなって、困ったもんだ」
「もしかして先生は……僕のために犯人を捜してくれていたんですか」
 宇佐美は窓の外に目を向けた。
「大学側に相談してみたが、積極的に動く気はないようだった。だから時間があるときはちょくちょく美術室を見張っていたんだ。それより、どうして誰かに背中を押されたことを言わなかった?」
「虚勢を張っていたけれど……怖くなって警察に被害届をだしました。もっと早く動くべきだったと反省しています」
 宇佐美は虚を衝かれたような顔をみせたが、すぐに難しい顔で腕を組んだ。
「お前がその気になってくれてよかった。カマをかけて武本を犯人呼ばわりしてみたが、あいつの態度からは真意は推し量れなかった」
「僕は……演じているようには見えませんでした。いくら黒川さんに好意があるからといって、彼は殺人に手を染めるような真似はしないと思います」
「俺がこの部屋に入ったとき、窓が閉まっていたところをみると、本当に絵を傷つけていただけかもしれない」
 そこからふたりの格闘が始まったのだろう。
 宇佐美はきつい口調でただした。
「もし武本が犯人じゃないなら、お前の命を狙っているのは誰だ。氷室の事件の関係者だと思うか?」
「子どもの頃、人を殺してしまった加害者の少年と殺された被害者の遺族が交流を深めるうち、互いに理解し合う日が来るという映画を観たんです。でも、現実には難しいと思いました。どんなに心をかよわせても、被害者遺族の怒りが消えることは永遠にないから……」
「お前は加害者じゃない」
 宇佐美の声は怒りを孕んでいた。
 ──テメェが逃げだしたせいだからな。逃げたお前も同罪だ。
 ──あのときどうすべきだったのか、ゆっくり考え続けてほしい。
 犯人と刑事の声がよみがえる。見方によっては加害者だ。けれど、星吾は反論せず、重苦しい雰囲気を霧散したくて無理やり笑顔を作った。
「警察には連絡したので、先生はもう無茶なことはしないでください」
「心配しているのは俺だけじゃない」
 星吾は意味が取れず、顎鬚を撫でている宇佐美を見つめた。
「さっきの学生も、本気でお前を心配しているようだった」
「吉田とはコンビニのバイトで知り合ったんです。いい奴だとは思っていたけど、あそこまで親身になってくれるなんて予想外でした」
 光輝が自分のことのように怒り、武本と対峙してくれた姿を思い返すと、嬉しさと同時に申し訳ない気持ちになる。過去の罪を隠して関係を継続するのは、とても卑怯な行為だからだ。
 宇佐美は胸中を読み取ったかのように、軽い口調で言った。
「あまり気に病むな。すべての人間に自分の過去を洗いざらい打ち明ける必要はない」
「僕の場合は、卑怯だけど……いずれバレる可能性があるから不安なんだと思います」
 きっと、人間にとって『別れ』は貴重なものだ。別れてリセットして、また新しい人生を生きる。けれど、ネットが普及した現代、過去の過ちと決別するのはそう簡単ではない。
「嫁に相談したんだが、しばらく俺の家から大学に通わないか」
 嫁? 宇佐美が結婚していたのに驚いたが、それ以上に、そこまで心配してくれているとは考えてもみなかった。
 視界が潤み、星吾は目を伏せた。
 武本の父親は、大手企業の重役。本当に学長に報告するのだろうか。そうなれば宇佐美に多大な負担を強いることになる。
 家族に散々迷惑をかけ、今度は先生に甘えるのか──。
 これ以上迷惑をかけたくなくて、冴島が殺害された事件については話せなかった。今の段階では、なんの関連性もなく、むやみに不安を煽っても意味はない。
 星吾はできるだけ明るい声で言った。
「最近は危ない目にも遭っていないから大丈夫だと思います。でも……ありがとうございます」
 宇佐美は小さく息を吐き、「紅茶でも飲まないか」と微笑んだ。

 武本の一件は、心に深い傷を残した。
 それなのに、美術室には紗椰の絵ばかりが増えていく。どうしても描くのをやめられない。
 雨の夜の歩道、動物園、自然公園、彼女の笑顔をすべて記憶に焼きつけたくなる。記憶はいつだって曖昧なものだから、描いて残したいという衝動に駆られた。芽生えた感情が歪んで変化してしまう前に──。
 最近、紗椰は美術室に姿を見せなくなった。
 大学の構内でも会えず、もう一週間になる。
 避けられているような気がして、漠とした不安が胸に宿っていた。
 武本になにか忠告されたのだろうか。思いあたる原因はそれだけではなかった。星吾は緊張を悟られたくなくて、紗椰に対して冷たい態度を取ってしまうことも多く、嫌われてしまった可能性も捨てきれない。彼女が好意を示してくれても、素直に受け止められない自分がいたのだ。
 美術室に続く静まり返った廊下を歩いていると、強い虚しさに襲われた。
 教卓に置いてあった花瓶やドライフラワーのラベンダーはもうない。幾度もデッサンした石膏像も割れてしまった。自分がそばにいると、相手を粉々に壊してしまうようで、どうしようもない哀しみが込み上げてくる。
 見慣れたベージュのドアがやけに重く感じられた。
 ゆっくり開けると、西日が窓から射し込み、室内を穏やかに照らしていた。
 心を和ませるあたたかい光を目にした瞬間、胸が熱くなると同時に、奇妙な懐かしさを覚えた。
 魅入られたように、その場をしばらく動けなかった。
 星吾ははやる気持ちをどうにか抑え、静かにドアを閉めた。
 画板に真新しい画用紙をダブルクリップで留める。そっとイーゼルに立てかけた。音を立てないように椅子を移動させ、そこにいた紗椰に目を向ける。
 描きたい角度を決めてから椅子に腰を下ろし、強張っている手で鉛筆をつかんだ。
 紗椰は窓際の席に座り、自分の腕を枕にして目を閉じている。
 透き通るような肌が、西日に染められていた。

▶#32へつづく
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