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連載

小林由香「イノセンス」 vol.32

【連載小説】被害者の遺族に教えてもらいたい。僕に人を好きになる権利はありますか――。 小林由香「イノセンス」#32

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 ふいに、触れてみたいという感情が沸き上がってくる。その気持ちを抑えるように、ひたすら鉛筆を動かしていく。人の気持ちは移ろうものだが、絵の中に閉じ込めた感情は永遠に変わらない。だからこそ、こんなにも魅了されるのだ。
 静まり返った室内に、鉛筆が紙を擦る音だけが響いていた。
「光輝君から……シンちゃんのことを教えてもらった」
 紗椰は上半身を起こすと小声で言った。
 現実に引き戻され、鉛筆の動きを止めた。シンちゃんが、武本だと認識するまでに数秒かかった。
「子どもの頃から正義感が強くて優しかったから……シンちゃんがあんなひどいことをするなんて思わなかった」
 なぜか星吾は、「ひどいこと」という言葉が自分に向けられているような錯覚に陥った。本当にひどい行為をしたのは、ひどい生き方をしてきたのは誰なのだろう。
「彼の言動のすべてが間違っているわけじゃない」
 思わず本音が口からこぼれた。
 紗椰は意味が分からないという顔つきでこちらを見ている。
 星吾は、彼女の目をまっすぐ見返しながら言葉を吐きだした。
「僕は今まで思いやりのない生き方をしてきた。人の痛みにも気づかないふりをしていたんだ」
 武本は的確に心の闇を見抜き、正直に発言しただけなのだ。
 紗椰に近づきたいのに、拒むような行動しか取れない。なにがしたいのか自分でもわからなくなり、微かな苛立ちに襲われた。
 紗椰の戸惑ったような表情が、自分の母親の顔と重なって見えた。余計に心がふさいでしまう。
 息子が卑怯者だと知ったとき、母はどう思っただろう。その真実を知り得ても、親だから息子を受け入れなければならなかった。この世に誕生させたのは、紛れもなく両親だからだ。けれど、母と紗椰は違う。そんな義務は彼女にはない。
「ラベンダーの花言葉を知ってる?」紗椰は唐突に訊いた。
「知らない」
「期待と疑惑」
 彼女は弱々しい笑みを浮かべて言葉を継いだ。「違うかもしれないのにね。花言葉なんて誰かが勝手につけただけで、花自身は『それは違うよ』と必死に訴えているかもしれない」
 星吾が黙したままでいると、紗椰は真相をついた言葉を口にした。
「音海君はいつもひとりで葛藤してる。すごく苦しそうで……無理なのはわかっているけど、救ってあげたいって思うときがある。きっと、光輝君も同じだと思う」
 星吾も電車の中で見た紗椰の泣き顔が忘れられなかった。あのとき、彼女を孤独から救いたいと思った。そんな力なんてないのに──。
「自分さえ救えない人間が……誰かを救うことはできないよ」
 星吾がそう言うと、彼女は誤解したのか気まずそうに目を伏せた。
「そうだよね。思い上がったことを言ってしまって……ごめん」
 紗椰は泣きだしそうな表情で立ち上がった。
「僕には、人を好きになる権利がないんだ」
 強い焦燥感に駆られ、咄嗟に本音が口からこぼれた。
 好きな人を目の前に、頼りない言葉しか言えないのが情けなくて、苦しくて、本当の気持ちさえ見失ってしまいそうになる。
 紗椰は緊張を孕んだ声で訊いた。
「権利? どうしてそんなことを思うの」
 氷室がどこかで、「人を見殺しにしたお前が誰かを大切にできるのか」と嘲笑っているような気がする。お前は必ず同じ過ちを繰り返す。また逃げだすだけだ──。
「嬉しいとか幸せとか、そういう感情が心の中に芽生えると、なにか悪いことをしている気分になって……息苦しくて、申し訳ない気持ちになって……だから、僕には権利がないから……」
 星吾は続く言葉を吞み込んだ。伏せている顔を上げる勇気が持てなかった。
 心が満たされるほど、失うことの恐怖に駆られ、いとおしい人を怖いと感じてしまう。
 室内に重苦しい沈黙が降り積もっていく。押し潰されないように、どうにか呼吸を繰り返しながら奥歯を強く嚙みしめた。
「その権利はどうしたら……誰に頼めば手に入るの? 世界中の人の承認? それとも神様? そんなのなくてもいいから……」
 紗椰の声はひどく震えていた。「権利はなくてもいい……私は音海君と一緒にいたい」
 顔を上げると、彼女の瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。星吾の視界も滲んだ。
 白く細い指が小刻みに震えているのに気づいたとき、心の中でなにかが弾けた。
 星吾は衝動的に立ち上がり、彼女を抱きしめていた。
 自尊心、憎悪、後悔、不安、恐怖、そんな感情がゆっくり溶けていく。ただ彼女のそばにいたかった。目の前の現実が過去に潰され、消えてなくならないように腕に力を込めた。
 誰かに想ってもらうことは、こんなにも安らぐものなのだろうか。人と心をかよわせられる瞬間があることを今なら信じられる。胸中にあたたかい光が差すと、心をきつく縛っていた鎖がゆっくりほどけていくのを感じた。圧迫されていた心に血が巡り、ゆっくり色を取り戻す。
 抱くはずのない気持ちがあふれてくる。ずっと曖昧で不確かなものを愛するのが怖かった。それなのに、どうしようもないほど人を信じたくなる。愛したくなる。
 あのときの刑事に、被害者の遺族に教えてもらいたい。
 僕に人を好きになる権利はありますか──。
 本心を言葉にした途端、不幸を引き寄せてしまいそうで芽生えた希望が滲んでしまう。
 答えなんてもうでているのに、自分の素直な気持ちに寄り添えない。一緒にいれば、彼女に危険が及ぶのではないかと危惧の念を抱いてしまうからだ。
 紗椰は戸惑っている心情を察したのか、少し距離を置いてから気遣うように言った。
「答えは急がない。でも……」
 声には隠しきれない緊張が滲み出ていた。「夏休み明けの十月一日……私の誕生日なの。一緒に『新緑美術館』に行きたい」
 大学から電車で三十分くらいの場所に、自然豊かな森がある。その奥に『新緑美術館』はあった。三角屋根、真っ白な外壁、アーチ状の大きな扉。緑の中に浮かびあがるように佇んでいる美術館。星吾も前から行ってみたかった場所だった。
 けれど、十月一日という日付が不安に拍車をかける。
 それは、氷室の事件が起きた日だったのだ。
 忘却は許さないという神からの啓示なのだろうか──。
 どんな運命が待っていたとしても、今できることはひとつしかない。月明かりに照らされた一本道を進んでいく。
 彼女の誕生日に過去の罪をすべて告白しよう。
 気象庁は梅雨明けの発表をし、本格的な夏を迎えた。

 大学の前期試験が終了し、夏休みに入ると多くの学生が帰省した。けれど、星吾はバイトに励みながら、空いている時間は美術室に通いつめた。
 車道に向かって突き飛ばされて以来、最近は身の危険を感じるような出来事には遭遇していなかった。これまでは特別な目的もなく生きてきたが、死の危機に直面して初めて、もう一度向き合いたいものがあることに改めて気づかされた。
 大きなリュックから新聞紙やジャージを取りだす。近くにある机には、金槌、木炭、油絵具、パレット、油つぼ、ペインティングナイフなどが並んでいた。
 油絵具以外は、中学のときに美術部に入部してから買い揃えたものだ。
 教室の隅には、フレーム状に組んだ大きな木枠が壁に立てかけてある。それを持ってくると、床の上に広げてある白い布の上に置いた。木枠と布を固定するため、四辺にくぎを打ち込む。緩みなく張り終えると、それをイーゼルに立てかけた。
 正面に椅子を置き、まっさらなキャンバスと向き合う。
 室内は深い静寂に閉ざされていた。
 まだ名も知らない相手と見つめ合っているような独特の緊張感が生まれる。なにをモチーフに描くのか、どのような色彩をぶつけてくるのか、相手も身構えているようだった。
 心地よい緊張感と同時に、あらゆる世界を創りだせるという高揚感を覚えた。
 心の中にある気持ちを整理するためでも、混乱した感情を静めるためでもなく、こんなにも真剣に絵と向き合うのは久しぶりだった。

▶#33へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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