【連載小説】絵を描きたい。呼吸が止まっても構わないーー。 小林由香「イノセンス」#33
小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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純粋に絵が好きだった頃の気持ちがよみがえってくる。けれど、木炭を持つ手がいっこうに動きだしてくれない。まるで銃を構えているかのように手は強張り、固まったままだ。
これほど表現したいという欲求に駆られているのに、キャンバスに触れるのが怖くてしかたなかった。手にあるのは木炭ではなく、なにもかもを撃ち抜いてしまう凶器に思えてくる。
描けばなにかを傷つけてしまうような錯覚に襲われた。
純粋に絵を描けないのは、過度に期待する気持ちが隠れているからだ。
絵を利用して、抱えている苦しみや哀しみを理解してほしいという承認欲求が芽生えている。だから戸惑いが生じるのだ。
強い
思うように描けなかったときの絶望を想像するだけで、描きたい景色が傾いて崩れていく。たとえ描けたとしても、相手に伝わらなければ意味はない。
けれど、言葉にできないなら絵で表現するしかないのだ。
モチーフは、すべて頭の中にある。目を閉じて幾度も見続けてきた光景を瞼の裏に焼きつけていく。息苦しさを感じて深呼吸を繰り返した。
ゆっくり瞼を開けると、キャンバスに木炭を走らせる。指先に熱がこもった。
痛々しいほど継ぎ
下描きした絵に指を使って明暗をつくり、キャンバスから離れて全体を眺め、不要な部分を消し、また近づき、納得がいくまで描き直して修正し続ける。
先刻から、絶望と希望が交互に胸にあらわれては姿を消していく。
描ききれなかったときの絶望、完成したときの希望──。
昼時はとっくに過ぎていたが、いっこうに腹は減らない。すべての欲は描きたいという欲求に勝てずに消失してしまう。
空が夜闇に染まる頃、やっと下描きが完成した。指が微かに痺れ、利き腕がぐったり疲れ切っている。
壁の時計に視線を向けると、あと三十分で閉門時間だった。
木炭が溶けだしてこないようにフィキサチーフで下描きを定着させてから、急いでコンビニのバイトへ向かった。
夏休みの間、紗椰は岐阜の祖父母の家に行くと言っていた。会えないのは少し寂しかったが、バイト先には光輝がいる。彼もバイトを優先していたので、ふたりは普段よりも勤務時間が重なる日が多かった。
美術室の一件以来、光輝は、また危ない目に遭うのではないかと気にかけてくれている。けれど、武本からの嫌がらせは一度きりで終わった。それ以外にも脅威に晒される出来事は起きていない。まだ油断はできないが、星吾はあまり心配をかけたくなくて、バイト中はできるだけ明るく振る舞う努力をした。
絵が完成するまで、このまま穏やかな生活を送れることを願い続ける日々だった。
翌日、美術室でジャージに着替え、床一面に新聞紙を広げた。その上にイーゼルを置き、下描きが完成したキャンバスを立てかける。
キャンバスの正面に椅子を移動させると、ゆっくり腰を下ろしてから静かに絵と向き合った。
絵にも感情がある。彼らはみんな自分だけの色彩を持っているはずだ。それなのに、しばらく眺めていても的確な色調が想像できない。どのようなものを求めているのかもわからなかった。
余計な感情を払拭し、この世にひとつしかない色彩を頭の中に創り上げていく。
絵筆を持つ手が震えてしまう。心身ともに色を強く拒んでいる。
息苦しくなり、呼吸が止まってもかまわない──。
遺品整理のとき、祖父の部屋から見つかったプレゼント。どんな想いで油絵具を買ったのだろう。そのときの気持ちを想像するだけで胸が圧され、両目の奥が熱を孕んだ。祖父は、ずっと信じてくれていたのだ。いつか色を取り戻し、また人とつながれる日が来ることを──。
星吾は覚悟を決め、パレットに油絵具をしぼり、油つぼに絵筆を入れ、カドミウムレッドを溶いていく。
最初に反応したのは嗅覚だ。血を連想させるような鉄の幻臭が室内に立ち込める。絵筆を持つ手の震えが激しさを増す。アイボリー・ブラックを加えると、氷室の血液を混ぜているような錯覚に陥った。
突き刺さるような幻臭が、あの日のおぞましい記憶を呼び覚ます。
教室の隅に氷室の気配を感じた。怖くない。そのまま、そばにいてほしい。この絵が完成するまで、最後まで見届けてほしい。
絵筆を動かすたび、氷室の気配が濃くなってくるのを感じた。
油絵具を塗り、乾かし、色を重ね、全体の明度や彩度を確認し、また乾かし、あらゆる感情を破壊し、再生させる。抱えている憎しみや哀しみが油絵具に溶けていき、感情を持つ絵となり昇華していく。
今まで幾度も絵に助けられてきた。
キャンバスは絵筆から流れる負の感情を、いつだって黙って受け止めてくれる。もっと輝かしい色をよこせとは言わない。思い描いた色彩でいいと認めてくれた。
美術室に通いつめて絵筆を握り続けていると、次第に遺書を書いているのではないかと自覚し始めた。氷室をそばに感じても怖くない理由がわかり、複雑な心境になる。
誰かに命を狙われ、本気で死を感じたとき、恐怖は原動力に変わった。
冴島を殺害した犯人は、まだ捕まっていない。いまだに特定できずにいるのは、被害者とあまり接点のない人物の犯行を臭わせている。もしくは、突発的な殺人ではなく、緻密に考え抜かれた計画的殺人の可能性も高い。
もしも冴島と同じ運命をたどるなら、どうしても残したい想いがあった。
言い知れぬ切迫感が絵筆を動かしていく。
唐突に高音性の耳鳴りが始まった。同時にごぼごぼと蠢くような低い音も聞こえてくる。
耳の奥から「ただの自己満足だな」そう嘲るような声が響いてきた。
罪から逃れたくて絵を描いているんじゃない──。
星吾は教室の中に感じる気配に向けて、祈るようにつぶやいた。
だったらなんのために描いているんだ?
そう尋ねる低音の声に聞き覚えはなく、誰のものかわからなかった。
星吾はなにも答えられず、おもむろに手を止めた。
一瞬にして目の前の絵が、作りだした色彩が、とてもチープで拙いものに成り下がっていく。夢中で絵筆を走らせていた情熱が溶けていき、なにを描きたかったのかさえ、
心に絶望の波が押し寄せてくる。原油が流出した海のようなどす黒い波。一度吞まれてしまえば二度と海面に浮上できない。最後まで描けなくなる不穏な予感を覚えた。
星吾は弾かれたようにドアのほうに目を向けた。
ぱちんと電気がつけられたとき、初めて室内が薄暗いことに気づいた。
「夏休みなのに毎日大学に来るなんて、気味の悪い学生だな」
宇佐美はそう言いながら室内に入ってくると、教卓に置いてある紙を手に取った。「学生アートコンクール……応募する気になったのか?」
「入選は難しいかもしれませんが、どうしても描きたい絵があって、今なら最後まで描けるような気がするんです」
描きたい絵が見つかったことは報告したが、コンクールに応募するのは伝えていなかった。
「やっぱり、美術部員にはジャージがよく似合う」
宇佐美は笑いながら続けた。「美術部は文化部に属しているが、俺からしたら体育部だ。絵と格闘し、腕が痺れるまで絵筆を握り、完成する頃には身も心もくたくたになる」
宇佐美はキャンバスの近くまで移動すると、顎鬚を触りながら絵を眺めた。哀しげに目を細め、唇を引き結んでいる。まるで痛みを堪えているような表情だった。
しんと静まり返った室内に、重苦しい沈黙が流れていく。
▶#34へつづく
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