【連載小説】俺の指が動かないのは、嫁に手首を刺されたからだ。 小林由香「イノセンス」#34
小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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気まずい空気に耐えられなくなり、星吾が口を開きかけたとき、宇佐美は真顔で言った。
「まるでラブレターだな」
その感想は意外だった。けれど、そう言われればそんな気もしてくる。
「納得できる絵が描けなくて……急に不安になってしまって」
追いつめられていたせいか、星吾は素直な気持ちを口にしていた。
宇佐美は、窓際に置いてある椅子に腰を下ろしてから尋ねた。
「小学三年の頃、『全国絵画・工作コンクール』で賞をもらったのを覚えているか?」
たしか、美術の授業で『家族』をテーマに描けと言われ、金賞をもらったことがあった。星吾は父親の絵を描いた。賞状をもらって家に帰ると、父がとても喜んでくれたのを覚えている。
胸の内に、ある疑問がよぎった。
「どうして……先生が知っているんですか?」
宇佐美は遠くを見つめながら口を開いた。
「俺の指が動かないのは、嫁に手首を刺されたからだ」
星吾は衝撃的な告白に二の句が継げなくなり、思わず顔を見た。予想に反して、少年のような無邪気な笑みを浮かべている。
「俺たちは学生結婚だった。嫁はピアニストを目指して音大に通っていた。でもな、大学三年のとき、彼女は妊娠していることに気づいて退学したんだ。それなのに、俺たちの息子は五歳のときに亡くなった」
宇佐美は自分の動かない指に視線を落としてから、静かな声で話しだした。まるで昔話をするような語り口だった。
甚平をデザインしていた宇佐美の友人が、日本人オーナーが営むニューヨークのアートギャラリーで個展を開催した。甚平を着るのはマネキンではなく、身体は人間、顔は植物や動物という得体の知れない宇佐美の彫刻作品だった。彫刻作品は甚平よりも注目を集め、有名な雑誌にも取り上げられ、名高いブランドショップからも注文が入ったという。
「俺は作品を創るのに夢中になって、嫁も息子も
宇佐美は哀しげに笑うと「車じゃなくて、自転車だぞ」と言ったきり、黙り込んでしまった。
「だから奥さんは……先生を刺したんですか?」
「あぁ、彼女も罪を犯した」
宇佐美はしゃがれた声で言葉を継いだ。「息子を亡くしてから毎日、嫁から穏やかな声で『家に帰ってこなければよかったのに』と言われ続けた。まるで天気の話でもするかのように、さらりと口にするから余計にきつかった。息子を亡くしてからしばらく経った頃、『あなたは本当に反省しているの?』って訊かれたんだ。俺は、もちろん反省していると答えた。嫁に『だったらプレゼントをあげるから手をだして』と言われ、俺は机の上に手をだした。そのとき彼女は隠し持っていた彫刻刀で俺の手首を刺したんだ。まるでホラーだろ?」
星吾は言葉が見つからず身を硬くした。
宇佐美は追想するように、また遠くに目を向けた。
「いつもは冷静沈着なのに、刺したあとは子どもみたいに泣きじゃくっていた。まるで自分が刺されたかのようにな。医者には仕事中に怪我をしたと噓をついた。せめてもの罪滅ぼしだ。それ以来、彼女は俺に暴言を吐かなくなった。いや、罵りたくなるたびに傷つけた手首に目を向け、泣きだしそうな顔をしている。だが、誰からも責められなくなると、今度は自責の念に苦しめられるようになった。それは想像以上にきつかったよ」
他人から暴言を吐かれるよりも、自分自身に責められたときのほうがきつい。もう逃げ場はどこにもないからだ。
宇佐美はキャンバスに目を向けながら言った。
「息子を亡くしてから、『小学生全国絵画・工作コンクール』の工作部門の審査員のひとりだった俺は、入選した子どもたちの展示作品を観に行ったことがあったんだ。そこで『音海星吾』の絵に出会った。変わった名前だったから記憶に残っていた。児童たちの作品には、ありとあらゆる笑顔の家族が描かれていて、すべてが善意にあふれたものだった。だが、ひとりだけ違った。画用紙の左上に泣き顔の父親、右上には頰を真っ赤にして怒る父親、左下には無表情の父親、右下は目を閉じている父親、中央には笑顔の父親が描いてあった。お前の絵からは泣いていても、怒っていても、無表情でも、眠っていても『お父さんが大好きです』という気持ちが伝わってきた」
美術展で祖父に初めて会ったとき、宇佐美は「音海君はとても才能のある学生で、彼の絵に一目置いているんです」と言っていた。あのときの発言は噓ではなかったのだ。
宇佐美は、甚平のポケットから薄汚れた紙を取りだして広げた。
そこには、拙い文字で『あまりおうちにかえってこないけど、いそがしくてあそんでくれないけど、ぼくはお父さんがスキだからいっしょにあそんであげます』と書いてあった。
「あの日、音海星吾の絵を観た俺は、ガキの絵に泣かされた。帰宅してから、どうしても息子の絵を観たくなって落書き帳を開いてみたら、いちばん最後のページに拙い字で書いてあった。お前の絵を観なければ、息子のメッセージに一生気づけなかったかもしれない」
宇佐美は緩慢な動きで紙をしまうと、今度はポケットから写真を取りだした。甚平を着た少年が無邪気に笑っている。その隣で微笑んでいる父親の姿がせつなかった。
「何度も彫刻で息子を創ろうと思ったが、俺には無理だった。他の作品さえ、まともに創れなくなった。だから……お前が色を使えるようになって、心底嬉しかったよ」
感情が搔き乱され、星吾は顔を伏せた。
宇佐美はまたキャンバスの前に立つと、絵を凝視しながら言う。
「綿密な市場調査を重ね、商品がひとつでも多く売れる広告を作りたいと願い、必死にデザインを考えているデザイナーたちを俺はリスペクトしている。でもな、コンクールは好きなものを描いていいんだ。気を遣わなければならないクライアントも存在しない。だったら、お前が描きたいものをぶちかませばいい。周囲からどれだけ批判されてもかまわない。もしも罵られたら、そいつらに胸を張って言ってやれ。『お前のために描いてない。この絵はたったひとりのために描いているんだ』ってな。それが許されないなら、絵画が存在する意味なんてないだろ」
星吾は、宇佐美の目を見据えながら尋ねた。
「この絵は……僕の絵は伝わりますか」
「きっと伝わるさ。信じる余地を与えてくれないものなんて芸術じゃない」
宇佐美は不敵な笑みを浮べると、「せいぜいがんばれよ」と言い残し、教室をあとにした。
以前、「どうしてそんなに親身になってくれるのか」と尋ねたことがあった。
小学生の頃の絵が、先生と自分をつないでくれていたのだ。
▶#35へつづく
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