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連載

小林由香「イノセンス」 vol.35

【連載小説】明日、十月一日、それが最期の日になってもかまわない。 小林由香「イノセンス」#35

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 完成したのは、夏休みの最終日だった。
 パレットを持っていた左腕が重く痺れている。
 星吾はキャンバスから離れた場所に椅子を置き、そこから描いた絵を眺めた。
 少年の嗚咽が聞こえてくる。もう彼を許してあげたかった。あの日の自分自身を許せたなら、絶望しか見出せない未来は変えられるだろうか──。
 窓の外を見ると、いつのまにか夜闇が空を覆っていた。
 慌てて腕時計を確認する。十九時半を過ぎていた。
 急いで絵筆をクリーナーポットですすぎ、ジャージから私服に着替え、教室の電気を消して廊下に飛びだした。
 明日は、紗椰と新緑美術館に行く日だった。星吾は午前中に講義が入っていたため、美術館の最寄り駅に十四時に待ち合わせをしていた。
 キャンパスを出て駅までの道を全力で走る。足は軽く、妙に気分が高揚していた。
 完成した喜びが胸に迫ってくる。見慣れているはずの街路樹、街灯、信号機、それらのすべてが息づいているように感じられた。まるで舞台のセットの中を走っているような不思議な気分だった。
 いつもとは反対方向の電車に飛び乗り、繁華街まで向かう。
 駅の広告で目にした『エバーグリーン』という店名。目的の駅で下車すると、スマホを取りだし、地図アプリで確認しながら店まで歩を進めた。ひときわ明るい店舗が見えてくる。そこはジュエリーショップだった。
 店内に足を踏み入れた途端、星吾は現実に引き戻された。
 想像以上にきらびやかな内装だったため、萎縮してしまう。油絵具で汚れている自分の爪が急に恥ずかしくなり、少し戸惑ってしまった。
 覚悟を決めてカウンターに向かうと、爪をライラック色に塗った店員が、手袋をしてから注文しておいた商品を見せてくれた。
 小さなメッセージカードをもらい、星吾は近くにあるソファに座り、できるだけ丁寧な字でメッセージを書き込んでいく。
 ふと顔を上げたとき、不思議な感覚が湧き起こった。
 正面にある大型の鏡に映っているのは、いつもの自分ではなかったのだ。どこが違うのか判然としないが、自分とそっくりな顔をした別人を見ているような奇妙な気分に包まれた。

 深夜勤務だったため、一旦アパートに戻ってからコンビニに向かった。
 いつものようにタイムカードを押すと、すぐに制服に着替えてバックヤードを出た。店内には、弁当コーナーに女性客がふたり、デザートコーナーに男性客がひとりいる。
 レジカウンターに視線を移した瞬間、星吾は息を吞んだ。
 光輝の右頰が、殴られたように赤黒く腫れ上がっていたのだ。近くで見ると、顎にも擦り傷があり、腕には引っ搔かれたような痕がいくつも走っていた。皮膚がめくれて血が滲んでいる。見ているだけでひりひりするような痛みを感じた。
 転んでできた傷には見えない。そうかと言って、いつも温厚な光輝が誰かと喧嘩するとは思えなかった。
 女性客がレジカウンターに商品を置くと、光輝は少し顔を伏せて「いらっしゃいませ」と挨拶する。普段の明るい雰囲気はなく、表情からはそう感が漂っていた。
 もうすぐ勤務時間を終える他のバイト仲間に近寄ると、星吾は小声で怪我のことを尋ねてみた。けれど、彼も詳しい事情は知らないようだった。
 ふたりきりになってから本人に訊いてみようと思ったが、光輝はまるで避けるかのようにレジを終えるとバックヤードに姿を消した。しばらくしてからモップを手に戻ってくると、今度は黙々と床掃除を始める。
 明らかに様子がおかしい──。
 壁の時計が零時を過ぎる頃、星吾は気まずい空気に耐えられず、最後の客がいなくなるのを待ってから声をかけた。
「その傷、どうしたの?」
「星吾のほうが『どうしたの』だよ」
 光輝はふてくされたような顔で続けた。「最近、やけに明るいし、前とは別人みたい」
 ジュエリーショップの鏡を見たとき、同じことを感じたのを思いだした。理由は薄々気づいているが、照れくさくて言葉にできなかったので、星吾は改めて尋ねた。
「なにをしたらそんな傷になるの」
「どうして話をそこに戻すかな。別れ際に女にやられたんだ」
「女って……誰にやられたんだよ」
「簡単に言えば、愛してほしい人」
 光輝は恥ずかしげもなく、子どもみたいな口調で言った。
 相手は、司書の松原だろうか──。けれど、あのせいひつな雰囲気の松原が暴力をふるうとは思えない。
「俺よりも……紗椰のことを気にかけてあげたほうがいいよ」
 その脈絡のない言葉に疑念が湧き、思わず顔を見ると、傷のせいもあるが、光輝の顔には色濃い苦悩が滲み出ていた。
「人生ってさ、ときどきどうしてこんなふうになったんだろう、って思うことがあるんだ」
 光輝はそう言うとモップをコピー機に立てかけ、売り物の夕刊に手を伸ばした。
 彼が広げた夕刊を目にしたとき、驚きのあまり声を上げそうになった。
 ──氷室リゾート食品偽装。
 星吾もすぐに夕刊を手に取り、記事に目を走らせた。
 氷室リゾートが運営するホテルで、いくつもの食品偽装が見つかったという。
 光輝は唐突に険しい声音で言った。
「不運はどこまでも続くのかな。紗椰の家、これから大変になるだろうな」
 星吾は一瞬耳を疑った。
 直後、確信に近い予感に駆られ、一気に心拍数が上昇していく。
「どうして……黒川さんの家が大変になるの?」
 内心の怯えをられないように訊くと、光輝は重苦しい溜息を吐きだしてから口を開いた。
「俺らが中学三年の頃にひどい事件が起きたんだ。大学生が、金を巻き上げられている中学生を助けようとして、犯人に刺された挙句、助けた相手に放置されて死亡した事件」
 心臓は早鐘を打ち、全身が小刻みに震え始めた。
 光輝は少しの沈黙のあと、気の毒そうに表情を曇らせてから言った。
「高校の頃、紗椰と同じ中学だった人に聞いたんだ。あのとき殺された大学生は、紗椰の兄貴だったらしい」
 なにかを警告するかのように、耳の奥から自分の鼓動音が強く鳴り響いてくる。
 氷室は十四歳の頃、川で溺れそうになった少年を助け、山梨県警察本部から感謝状をもらっていたはずだ。その話は中学や予備校でも話題になっていた。
 氷室は山梨の出身だと思ったから、受験のときに気をつけて他県の大学を受験したのだ。
「黒川さんはここが地元だから……山梨の出身ではないよね? たしか、あの事件の被害者の大学生は、川で溺れている子どもを助けて山梨県警から感謝状をもらったって……」
 星吾が訥々と疑問を言葉にすると、光輝は思案顔で言った。
「そういえば……なにかで見たことがある。あれは夏休みに家族旅行に行ったとき、子どもを助けたって話でしょ。紗椰の兄貴って、どこでもヒーローになれるタイプだよね」
 そんな報道があったのだろうか──。
 当時、事件の内容はマスコミによって扇情的に報じられた。痛みを伴いながらも目をそらさず、もっと週刊誌の記事や報道番組を見るべきだったのだ。
 紗椰の母親が自殺したのは、あの事件が関係しているのだろうか。
「さっき、不幸はどこまでも続くって……」
 星吾がそこまで言葉にすると、光輝は心中を察したらしく、神妙な面持ちで言った。
「紗椰の母親は、医学部に通う息子が相当自慢だったらしい。事件のあと、息子を厳格に育ててきた父親を責めて、毎日喧嘩が絶えなかったみたい。それで浮気されて……もしかしたら父親もなにかから逃げたかったのかもね」
 星吾は夕刊に目を落としたまま尋ねた。
「氷室リゾートって、黒川さんのお父さんの会社なの?」
「そうだよ。前に食中毒事件も起きているみたいだし、これから厳しいだろうな。どうして嫌なことって続くんだろう」
 ネットに掲載されていた食中毒事件の記事が脳裏に立ちあらわれる。
 星吾はすがるような思いで、必死に言葉を吐きだした。
「だけど……彼女の苗字は黒川だよね」
「好きな相手にはあまり知られたくない話なのかもしれないけど……」
 光輝は言いづらそうに言葉を継いだ。「母親が自殺したあと、父親が許せなかった紗椰は祖父母の養子になったんだ。たぶん、父親と縁を切りたかったんだと思う」
 数年前、ネット上に星吾のフルネームが晒された。氷室の関係者ならば、一度は目にしていてもおかしくないはずだ。
 彼女はすべて知っていて近づいてきたのだろうか。そう考えるのが自然だ。どんな思惑があるのかわからないが、もしかしたら兄の命日に報復しようと考えているのかもしれない。
 星吾は、紗椰の誕生日に過去の罪を打ち明けようとしていた。
 彼女には無関係の出来事として──。けれど、それは大きな間違いだった。紗椰は無関係な人間ではなく、あの事件と強く結びついていたのだ。
「プライベートな話を俺が伝えるのはよくないと思ったけど……これから紗椰も大変になると思うから支えてあげてほしくて」
「吉田……僕は……」
 舌がもつれてうまく話せなかった。ひとりでは抱えきれない真実を聞いてもらいたい。たとえ、最低だと罵られたとしても──。
「最低だよな、犯人も逃げた奴も」
 光輝の怒りに満ちた鋭い言葉に喉を切り裂かれ、星吾は言葉を失った。哀しみが、堪えきれないほどの痛みに変わる。きつく口を結び、震える手を隠すように固く握りしめた。
 耳の奥で繰り返し再生される「最低だよな」という言葉が、芽生えた勇気を奪っていく。浅はかな覚悟は、簡単に搔き消えた。
 星吾は足に力を入れ、どうにか声を振り絞った。
「在庫チェックに行ってくる」
「俺も手伝おうか?」
 星吾は「ひとりで大丈夫」と言い残し、バックヤードを目指した。
 うまく歩けているのか、まっすぐ進めているのかさえわからない。指先が冷たくなり、膝が笑っている。歩く振動に合わせて周囲の景色がぐらぐら揺れていた。恐怖に苛まれているのに、頭がぼうっとする。
 どうにかバックヤードに駆け込み、素早くドアを閉めると、目眩がして床に崩れ落ちた。震える手から夕刊が離れていく。
 食品偽装問題は、氷室の事件とはなんの関係もないはずだ。それなのに、すべての不幸が、あの事件と関連しているように思えてしまう。
 あり地獄に引きずり込まれるような運命から逃れられない。抜け道も助かる方法も見つからず、深い絶望感に打ちのめされた。
 真相を聞いたはずなのに、さっきから頭は混乱をきたしていた。なぜか、実際の紗椰ではなく、絵に描いた彼女の姿ばかりが網膜に浮かぶ。
 ──私はこんなふうに笑ってるの?
 自然公園に行ったとき、彼女はそう訊いた。あんなにもたくさん描いたのに、本心をなにひとつ見抜けなかったのだ。
「具合が悪いのか?」
 遠くから声が聞こえる。ゆっくり顔を上げると、目の前に光輝が立っていた。
「椅子を並べるから、少し横になる?」
 星吾は黙ったままかぶりを振ると、光輝は背中をさすってくれた。
「深夜はあまり客が来ないから、バイトは俺ひとりでも大丈夫だからね」
 友人の姿がぼやけていく。とめどなく涙がこぼれ落ちた。星吾はざんするように床に額をつけ、嗚咽をもらした。胸が波打つたび、強い吐き気に襲われる。取り返しのつかない罪を、大切な友を、そして好きな人を想ってむせび泣いた。
 光輝は「どうしたんだよ」と不安げな声を上げながら、背中を優しくさすり続けてくれた。
「あのとき……逃げだした中学生は……」
 星吾は必死に声を振り絞った。「被害者の大学生を置き去りにして逃げだしたのは……僕なんだ」
 背中の手が止まり、すっと離れていく。光輝の顔を見ることができなかった。彼の軽蔑した表情が目に浮かぶ。
「ずっと……助けてくれた大学生を恨んでた」
 星吾は堪えきれず、自分の気持ちを打ち明けた。「どうして警察も呼ばずに助けに来たのか……本当は誰も犠牲にしたくなかった。逃げだした自分自身も許せなかった」
「星吾……」光輝の声には動揺が滲み出ていた。
「こんな人生を送らなきゃならないなら……僕が死ねばよかった……あのとき逃げずに……許してください。許してください……」
 静かな室内に、星吾の押し殺した嗚咽が響いた。
 ふたたび背にあたたかい体温を感じた。
 その手は公園のベンチで背中を撫でてくれた祖父のぬくもりによく似ていた。まるで、凍えている身体を必死にあたためるように、傷口をそっとふさぐように──。
 星吾の中で揺るぎない決意が固まった。
 明日、十月一日、それが最期の日になってもかまわない。残酷な未来が待ち受けていたとしても、もう逃げだすという選択肢は残っていなかった。

つづきは単行本にてお楽しみください。
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