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連載

小林由香「イノセンス」 vol.27

【連載小説】母はね、父が通勤時に乗っていた電車に飛び込んで自殺したの。 小林由香「イノセンス」#27

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 駅の構内は、朝の通勤ラッシュでひどく混み合っていた。
 星吾はホームに向かう乗客たちと歩調を揃え、足もとを見ながら長い階段を下りていく。
 朝のホームは、さなぎが羽化するときのような独特の緊張感がみなぎっている。乗客の誰もが素の自分から社会に適合する人間に変わろうとしているようで、少し息苦しさを覚えた。
 ホームを歩くたび、あの色白の男を思いだしてしまう。彼が生きていたと知ったときの喜びが忘れられないでいた。もしかしたら、彼は羽化に失敗し、羽が伸びきらず、うまく飛ぶことができなかったのかもしれない。
 あの朝、そんな人物にひどい言葉を掛けてしまったのだ。
 微かに自己嫌悪を感じながら、星吾は人混みをかき分けてホームの端まで進み、電車を待つ列の最後尾に並んだ。前にはスーツ姿の男女が三人ほどいる。
 電車の到着を伝えるアナウンスが流れると、周囲の空気は一層張りつめた。
 突然、肩になにかが触れた。
 咄嗟に横断歩道での恐怖がよみがえり、星吾が振り返ると、そこには紗椰の姿があった。
 彼女は長い髪をサイドに集めて緩く結んでいる。淡い紫のノースリーブのワンピースが涼しげで、よく似合っていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで……」
 恐縮しきっている彼女を見ていると、こんなことで震えおののいている自分が無性に情けなくなってくる。
 星吾は沈んでいく気持ちを紛らわすように、平静を装いながら尋ねた。
「黒川さんが住んでいるのは、この駅の近く?」
 彼女は笑顔でうなずくと答えた。
「私は実家から大学に通っているの」
 前に光輝は、紗椰と同じ高校だったと話していた。きっと、ふたりともこの近辺で生まれ育ったのだろう。
 突然、笑みを浮かべた紗椰が誰かを指差した。その先を追うと、スーツ姿の男に行き当たった。
 胸の中に不思議な感覚が走り抜けていくと同時に、高揚感が沸き上がってくるのを感じた。
 彼女が指差す先には、あの色白の男がいたのだ。
 灰色のスーツは変わっていないが、綺麗にアイロンがかかっている。無精ひげはなく、見違えるほど血色もよくなっていた。
 紗椰は安堵した表情で、到着した電車に乗り込む男の姿を見守っていた。その慈愛に満ちた横顔を目にしたとき、妙な気持ちになった。
 笑うと少し下がる目尻、右頰にある小さな黒子ほくろ、長いまつげ、彼女の細部を一つひとつ眺めていたい心境になる。
 うしろにいる乗客たちに急かされるように、ふたりは中程まで押し込まれていく。車内は肩が触れ合うほど混雑していた。
 華奢な肩から伸びる白い腕。星吾は慌てて視線をそらし、正面に目を向けた。手を伸ばしてつり革につかまると、自分の腕によって彼女との間に隔たりができた気がして、少しだけ気持ちが落ち着いていく。
 ドアが閉まり、電車はゆっくり動きだした。
 密着した空間での沈黙は耐え難いものがある。星吾はなにか会話の糸口を探そうと試みたが、気が急くばかりでなにも言葉が思い浮かばなかった。
 電車に揺られ、ときどき彼女にぶつかってしまう。つり革につかまる手に力を込めた。
「幽霊って、本当に存在すると思う?」
 一瞬、耳を疑った。
 隣を見やると、紗椰の視線とぶつかった。
 先ほどまでの緊張を一気に消し去るほど、彼女は冷たい表情を浮かべている。
 紗椰はぼんやりした声で、また奇妙なことを口にした。
「電車に飛び込んで死んだ人の霊は、いつまでも車内にいる気がする」
 目の前に座っている中年男性が、不審な目つきでこちらを見上げてくる。
 星吾は胸騒ぎを覚えながら訊いた。
「もしかして……お母さんのこと」
 紗椰は黙ったままうなずいた。彼女の横顔には哀しみではなく、皮肉めいた笑みが浮かんでいるように見えた。
「通学途中でうたた寝をすると、たまに怖い夢を見るの」
「どんな内容?」星吾は強張った声で訊いた。
「車内に血だらけの母が立っている夢」
 彼女は微かに微笑んでいるが、どこか怒りを含んでいるような声音だった。
 冷房が効きすぎているせいか、少し肌寒さを感じる。
「母はね、父が通勤時に乗っていた電車に飛び込んで自殺したの」
「どうして……」
「父に対する当てつけかもね。『あなたに殺された』って言いたかったのかもしれない。でも、本当に悪いのは父じゃない。母の背中を押したのは、私」
 しばらく沈黙が流れたあと、紗椰は感情のない口調で話し始めた。「父の浮気が原因で、母はアルコール依存症になっていたの。精神的に病んでいた母は、娘だけが頼りだったのに……、私は『そんなに死にたければ死ねばいい。毎日、愚痴ばかり聞かされるのはもうウンザリ』、そう投げつけた。母が自殺したのは、その翌朝だった」
 ──そんなに死にたいなら、夜にやってよ。朝やられると迷惑なんだ。
 あの日、色白の男に投げた言葉に、とてもよく似ていた。
「音海君と駅で会った日、母の命日だった」
 思い返せば、彼女は白百合の花束を抱えていた。もしかしたら、墓参りに行こうとしていたのかもしれない。
 突然、不快な音を響かせて急ブレーキがかけられた。
 乗客たちのどよめきと同時に、身体がいっきに傾く。
 星吾はつり革を強く握り、倒れそうになる紗椰を支えた。
 車内には『急停車します。ご注意ください』という自動アナウンスが繰り返し流れてくる。
 電車が完全に停まると、周囲がざわざわし始めた。
 人身事故でないことを祈りながら、胸に抱えている紗椰の姿を確認した。細い肩が小刻みに震え、押し殺した泣き声がもれてくる。
 しばらくしてから、彼女はなにもなかったかのようにそっと離れた。
 かける言葉が見つからない。なにを言っても慰めにはならないのを知っていたからだ。
 恐ろしい夢に苦しめられているのは、星吾も同じだった。
 血潮に染まった海。海底に沈んでいく少年の身体。苦しくて必死に手を伸ばしても、誰も助けてはくれない。空なんて見えないはずなのに、嘲笑うかのようにカラスが頭上で旋回しているのがわかる。夢からめると決まって、枕が涙で濡れていた。
 紗椰は俯いたまま静かな声で言った。
「音海君を見ていたら……自分の姿と重なった。まるで自分自身を見ているみたいで、あなたが許せなくなって……」
 色白の男が自殺したと告げに来たときの彼女の心情が、今なら痛いほど理解できる。
 紗椰は少し顔を伏せ、声を振り絞った。
「夢の中の母に追いつめられるたび、いつも消えてしまいたくなる」
 この世界から消えてなくなりたい──。
 ずっとそう思いながら、星吾も生きてきた。
 血まみれの氷室の姿が脳裏をかすめた。これまでも亡者に追われる日々の苦しさを嫌というほど経験してきた。あの男に謝り続け、幾度許しを求めただろう。
 夢の中にあらわれる故人は、抱えている気持ちを語ってはくれない。ただ静かに恐怖と痛みだけを残していく。だからこそ、いつまでも哀しみを消し去れないのだ。
「消えないでほしい」
 星吾は自分でも驚くほど素直に言葉をつむいだ。「僕は……黒川さんを絵に描きたい。描きたいから、消えないでほしい」
 時が心の傷を癒やしてくれるという人もいる。けれど、長く生きるほど徒労感が増していく人間も存在する。だからこそ生きる理由を求めてしまうのだ。
 電車はなにごともなかったかのように、少し揺れながらゆっくり動き始めた。

▶#28へつづく
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