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連載

小林由香「イノセンス」 vol.26

【連載小説】ーーどうかお願いします。家族には危害を加えないでください。 小林由香「イノセンス」#26

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
>>前話を読む

 ディスプレイには『吉田光輝』と表示されている。
 応答ボタンをタップすると、切羽詰まったような「星吾、大丈夫か? こんなにも遅れるなんてどうしたんだよ?」という声が耳に飛び込んでくる。
 恐ろしい事件に遭遇し、バイトがあるのをすっかり忘れていた。
 光輝はバイト中のはずなのに、まるで母親のように「なにかあった? 具合が悪いのか? 声が暗いけど大丈夫?」と矢継ぎ早に質問してくる。息遣いも荒く、心の底から心配しているのが伝わってくる声音だった。他人なのに、親みたいにおせっかいで、少し鬱陶しいのに胸が熱くなる。
 星吾はシフトが入っているのを忘れていたと謝罪し、今から向かうと伝えてから電話を切った。しばらく、青白く光るディスプレイを眺めていた。
 光輝の優しさに背を押され、思いきって実家の番号を選択した。
 コール音が響くたび息苦しくなり、恐怖を伴う不安が募ってくる。
 三コール目が鳴りやむと、生真面目そうな男性の声が聞こえた。
『もしもし……星吾か?』
 ナンバーディスプレイで相手がわかったのだろう。久しぶりに聞く父の声に、言葉が見つからなかった。母が出ると思ったので、少し戸惑いもあった。
『なにかあったのか?』
 あの事件以来、父の声はいつも不安と心配に満ちている。そうさせてしまったのは、紛れもなく自分自身だと嫌というほど理解していた。
 星吾はなるべく明るい口調で尋ねた。
「なにもないけど、母さんやトシが元気かどうか知りたかったんだ」
 数秒の沈黙が流れたあと、父は妙に明るい声で答えた。
『みんな元気だけどな、母さんはニューヨークだ』
「え? アメリカの?」
 電話の向こうで、気まずそうに咳払いする音が聞こえた。
『ニューヨーク……つまり入浴中だ』
 そう言うと父はふっと笑った。
 あの生真面目な父の精一杯のダジャレがせつなかった。
 うまく声にだして笑えない。どう返答すればいいのかわからなくなり、気詰まりな沈黙が流れる。家族だからこそ、気の利いた一言を口にできなかった。
 父はどこか気まずそうな声で訊いた。
『まだ絵を描いているのか?』
「うん……描いてる」
『そうか』
 父は一呼吸置いてから言葉を継いだ。『縁側で死ぬなんて、じいちゃんらしいよな』
「うん」
『じいちゃんが残した紙のことだが……』
「紙?」
『縁側で死んだとき握りしめていただろ』
 星吾が小さな声で「うん」と返答すると、父は力強い声で言った。
『あれは家族の総意だ』
 星吾は意味がとれず、押し黙っていた。
『じいちゃんだけじゃなくて……母さんも、俊樹も、俺にとっても、お前は大切な宝物だからな』
 慌てて口元を手で覆い、星吾はスマホから顔をそむけた。
 目の奥が熱くなり、景色が涙で滲んでいく。
 祖父の書き残した言葉の意味を、父はわかっていたのだ。
 声が震えないように気をつけて、「ありがとう。近いうちに帰るから」と告げて通話を切った。頰を伝う涙が、乾いた心に染み込んでいく。
 うなだれるように膝に額を押しつけ、星吾は胸の内で祈り続けた。
 ──どうかお願いします。家族には危害を加えないでください。
 気づけば、両の拳を固く握りしめ、幾度も声にだしてつぶやいていた。

 コンビニの裏手のドアからバックヤードに駆け込み、タイムカードラックまで行こうとして足を止めた。
 星吾は目の前にいる人物を見つめたまま動けなくなってしまった。
 予想外の展開に気が動転し、額にじわじわと汗があふれてくる。
 パソコンの前には、派手なアロハシャツを着た店長がいたのだ。
 嫌な予感がする。遅刻をとがめられるのはかまわない。けれど、店に氷室の事件に関する苦情が届いていたとしたら──。
 今までも何度もやられてきた嫌がらせを受け、また店を辞めなければならないのかと思うと焦燥が募ってくる。
 遅刻した気まずさもあり、どう声をかけたらいいのか逡巡していると、店長がおもむろに振り返った。
 驚きで声を上げそうになるほど、肌は真っ黒に焼けている。
「アロハ~、身体は大丈夫? 電車の中で具合が悪くなったんだって?」
 楽園の雰囲気を引きずったままの軽いノリに困惑し、星吾は言葉を失ったまま立ちつくしていた。
「音海ちゃん、本当に顔色悪いねぇ。今日は帰る?」
「いえ、大丈夫です」
 店長は興味なさそうに「そっか、大丈夫かぁ」と、白い歯を見せて笑った。
 珍しく店に来た理由は、シフトの変更をするためらしい。警察から、深夜番をふたり体制にしてほしい、という要望があったそうだ。包丁男の一件が影響しているのかもしれない。
 星吾は悪い噂がコンビニにまで波及していないことに胸を撫でおろした。
「音海ちゃんと吉田ちゃんは、深夜番も嫌がらないから助かるんだよね。でも、無理して身体を壊さないでよ。うちのエースなんだからさ」
 店長は誰に対しても「エース」という。どうやらサーフィンを始めたらしく、波乗りの楽しさを説明してから、ご機嫌なまま店をあとにした。
 バックヤードから出ると、光輝がカウンターで「ありがとうございました」と客を見送っているところだった。店内には、雑誌コーナーに男性客がひとりいる。
 星吾はレジカウンターに入り、「遅れてごめん」と小声で謝罪した。
「ひとりのほうが楽だったよ。店長がお釣りを間違えて、お客さんを怒らせて大変だったんだ。ただでさえ客が少ないのに、不況になればこの店は確実にアウトだね」
「具合が悪くなったって噓ついてくれてありがとう」
 光輝は、噓か本当かを推し量るような目で言った。
「真面目な星吾がバイトを忘れるとは思えないんだけど……最近、遅刻も多いし、大丈夫?」
 その鋭い指摘に戸惑い、星吾はうまく返答できずにいた。
 なにも買わずに出ていく男性客を見送ってから、光輝は意外なことを訊いた。
「もしかして……」
 彼はどこか探るような眼差しを向けてくる。「紗椰となにかあったの? 学食で紗椰を見たときも変だったから」
 思い起こせば、彼女に出会ってから奇妙な出来事が続いていた。
 デッサン画を汚され、書架から画集が落下し、花瓶を落とされ、車道に向けて突き飛ばされた。どの日も紗椰に会っている。
 ただの偶然なのだろうか──。
「今日、大学の廊下で紗椰と会ったとき、星吾のこと気にしているみたいだったから美術室に行ったのを教えたんだ」
 光輝は嬉しそうな顔で言葉を継いだ。「朗報をひとつ。紗椰と武本は付き合ってないんだって。あれはただの噂だったみたい。何気なさを装いながら訊きだしてやったんだから感謝してよね」
「感謝って……」
「星吾はさ、紗椰のことをどう思っているの」
「別にどうも思ってないよ」
 空を見上げたとき、彼女を描きたいという衝動に駆られた。そんな本音を口にしたら、変に誤解されそうで言葉にできなかった。
「最近、紗椰はますます明るくなった気がするんだ」
 光輝は、どこか暗い声で言葉を継いだ。「俺にとってはふたりとも大事な友だちだからさ……仲良くしてほしいんだよね」と目尻を下げて微笑んだ。
 星吾には、なぜかその笑みが哀しげに映った。

▶#27へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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