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連載

小林由香「イノセンス」 vol.25

【連載小説】交通事故に見せかけて、人を殺すことは可能ですか? 小林由香「イノセンス」#25

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 ──強い憎悪の念を抱いているなら、僕を殺せばいい。
 先刻、宇佐美に投げた愚かな台詞が、虚言に姿を変えて舞い戻ってくる。
 自分が強がっていたことに気づき、羞恥が胸にこみ上げてきた。死を実感した途端、こんなにも怯えている。そんな間抜けな現状に失望さえ感じた。
 じわじわといたぶられながら、いつか本当に殺されてしまうのだろうか。この世界に安全な場所なんてどこにもない。大学、駅のホーム、横断歩道、歩道橋、そのすべてが殺害現場になりうる。
 横断歩道の先に視線を移すと、自転車に乗った警察官が通り過ぎていくのが目に入った。
 駅の周辺には、防犯カメラが設置されている。運がよければ、犯人を特定してもらえるかもしれない。
 花瓶のことを話せば宇佐美に迷惑がかかる。けれど、大学構外の出来事なら自分ひとりの問題だ。警察に助けを求めたら、怯えて暮らす日々から抜けだせるかもしれない。
 わらにもすがる思いで交番に行こうと思い立ったとき、嫌な予感に苛まれた。
 警察に個人情報を伝えれば、氷室の事件のとき逃げだした少年だと気づくだろうか。警察からも白い目で見られる可能性がある。
 臆病風に吹かれた瞬間、見慣れたふたりの顔が頭をかすめた。
 宇佐美と光輝は「お前には生きる権利がある」と言ってくれているような気がした。
 彼らに背を押されるようにして横断歩道を渡り、駅裏にある交番を見据えて歩きだした。心を奮い立たせ、足を前へ動かすことだけに集中する。そうしなければ、自分さえ見捨てて逃げだしてしまう予感がしたのだ。
 星吾が小さな交番に駆け込むと、男性の警察官が顔を上げた。
 対応してくれたのは、とうという四十代くらいの人の好さそうな警察官だった。
 とつとつと現状を説明する星吾の話を、佐藤はいちいちあいづちを打ちながら聞いてくれた。
 一緒に信号待ちをしていた母親の証言を伝えると、佐藤は「目撃者も一緒に来ていただければ助かったんですが」と、残念がっていた。
 一通り話し終えてから、被害に遭った時刻や負傷したところはないか詳しく尋ねられた。
 星吾が痛みを感じている箇所を確認すると、掌と膝に擦過傷があった。写真を何枚か撮られ、佐藤から「これまでも危険な目に遭ったことはないか」「悪気のない誰かがぶつかってきた可能性はないか」などと事情聴取された。
 すべて想定内の質問だったのに、実際に問われると、うまく答えられなかった。
 旧図書館での出来事や花瓶の話をしなければ、深刻に捉えてもらえないかもしれない。けれど、大学に来て騒がれるのは避けたかった。
 窓に貼られた脅迫文のことを伝えようとして、星吾は唇を固く結んだ。脅迫文は既に捨ててしまい、証拠になるものはなにも残っていない。けれど、月野木の事故のことが気になり、星吾は思いきって尋ねた。
「交通事故に見せかけて……人を殺すことは可能ですか」
「はい? それって、どういう事故?」佐藤は困惑した表情を浮かべた。
「たとえば、直進していた軽乗用車と対向車線から右折しようとした大型バイクが衝突する事故で……」
「それは物損事故ではく、人身事故だよね?」
「あの、そうです。バイク運転手が死亡して、たとえば……事前にバイクに細工とかされていて」
 佐藤は声をだして笑うと、困り顔で頭を搔いた。
「運転手が死亡している場合、刑事裁判を視野に入れて捜査しなければならないから、整備不良など、我々も事故原因となるものを入念に捜査するからね。細工は見破られてしまうと思いますよ。今回のこととなにか関係があるんですか」
 やはり、荒唐無稽な仮説だったと思い知り、星吾は慌てて「この前、ドラマを観ていて気になって」とごまかした。
 最後まで月野木のことは話せなかった。氷室の事件で事情聴取を受けたときの険しい刑事の顔がよみがえり、逃げだした少年だと名乗り出る勇気がどうしても持てなかったのだ。
 脅迫文がアパートの窓に貼られていたことだけを伝え、駅前の防犯カメラを確認してもえることになった。捜査を開始してもらうために、所定の用紙に個人情報を記入し、印鑑は持っていなかったのでいんを押した。
 その後、警察官と一緒に現場に向かった。
 立っていた位置、背中を押されたときの状況、車道のどの辺まで出たのか、周囲にはどのような人物がいたか、それらを詳細に説明した。
 佐藤から「後日、調査してからご連絡します。もし気になることがありましたら、また交番に来てもらうか、先ほどお渡しした紙に書いてある番号までご連絡ください」と言われた。渡された紙には、「本件について連絡がある場合は」という文のあとに電話番号が記載されている。警察署の番号のようだった。
 アパート周辺のパトロールを強化してもらえると聞いたときは、安堵で胸が満たされた。
 警察に調査を依頼したせいか、身体の強張りは少しだけ和らいだ。けれど、それは表面的なものだったことに、すぐに気づかされた。
 混雑している駅のホームに立ったとき、強烈な不安に襲われたのだ。
 線路には恐ろしくて近寄れない。怯えながら周囲に視線を走らせると、乗客たちの誰もが怪しい人物に思えてしまう。辺りを慎重に確認しながら列の最後尾に並んだ。
 到着した電車に乗り込み、星吾はつり革につかまりながら目をきつく閉じた。
 信号待ちをしていた母親は、キャップを被った背の高い男の人が走っていく姿を見た、そう教えてくれた。その人物が犯人なのだろうか。
 背の高い人物──。
 光輝は人並みであり、宇佐美はやや低い。上背のある人物が思い当たらない。そこまで考えてから重い溜息を吐きだした。
 身近な人間を疑っている自分の愚かさを恥じた。いや、信じたいからこそ検証したいのだ。
 氷室はとても上背があった。すべては亡者の仕業ではないか──。そんな非現実的な妄想に襲われ、じくたる思いで奥歯を強く嚙みしめた。
 しばらく電車に揺られていると、制服姿の高校生たちが乗り込んできた。
 唐突に忌まわしい記憶がよみがえり、鼓動が速まる。

 静まり返った高校の廊下。クラスメイトのがさわらが、廊下に横たわっていた。小笠原は苦しそうな演技をしながら「助けて、助けて」と、こちらに向かって手を伸ばしてくる。生徒たちの好奇の目にさらされながら、星吾が「やめろよ」と言うと、小笠原は「被害者って、こんな感じだった?」と笑いながら立ち上がり、制服の埃をはらった。
 あれはいじめではなく、悪ふざけだと思い込もうとしたせいか完全に忘却していた。苦い記憶が掘り起こされるたび、心の傷が深くなる。激しい目眩を覚えた。
「お兄ちゃん、具合が悪いんじゃないの? お座りなさい」
 優しい声音でそう言って、目の前に座っていた薄紫色の髪をした老婆が立ち上がった。
 老婆は小さな身体には似つかわしくない強い力で星吾の腕をつかみ、半ば無理やりシートに座らせた。
「僕は……大丈夫ですから」
 星吾が腰を浮かしながら言うと、老婆は両手で肩を軽く叩いた。
「大丈夫、大丈夫、こう見えて足腰は丈夫なのよ」
 それ以上は抵抗できず、座らせてもらうことにした。気力を失い、全身がぐったり疲れ切っている。
 老婆は「はい」と言って、星吾の手に小袋に入った飴をのせた。皺くちゃで、乾燥した手だった。
 閃光のごとく、懐かしい祖父の声が舞い戻ってくる。
 ──大丈夫、大丈夫、心配はいらないよ。
 それは祖父の口癖だった。幼い頃、転んで泣くと、呪文のように囁いてくれた。
 星吾は次の駅に到着すると素早く立ち上がり、老婆に礼も言わず、逃げるように閉まりかかったドアから駆け降りた。
 自宅の最寄り駅よりも、三駅ほど手前だった。
 近くにある青いベンチに腰を下ろし、発車するまで顔を伏せていた。痛いくらい飴を強く握りしめる。
 電車が発車してから、微かに震えている指で袋を破った。真っ白な飴を口の中に入れる。
 祖父が好んでいたミルク味の飴だ。優しい味が口の中に広がると涙がこぼれ落ちた。
 電車の中で席を譲る人間なんて偽善者にしか思えなかった。誰かの善意を目にするたび、今まではどこか白々しい気分になり、世界のすべての思いやりが、ただ鬱陶しくてしかたなかった。それなのに、あの老婆の優しさがやけに身にみた。
 ふいに、腕を支えて起き上がらせてくれた男子高生たちの顔が脳裏に浮かんだ。
 彼らの姿と弟の俊樹が重なる。急に家族のことが心配になった。
 祖父の葬儀以来、実家には一度も帰省していない。家からの電話にも出なかった。それが家族のためになると思ったからだ。次第に実家からの連絡も少なくなり、関係性が希薄になっていくのを感じていた。
 星吾はスマホを取りだし、しばらく実家の電話番号を眺めた。
 命を狙われているのは、自分だけなのだろうか──。
 突然、手にあるスマホが振動した。

▶#26へつづく
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