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連載

小林由香「イノセンス」 vol.24

【連載小説】すぐ目の前を車が横切っていく。誰かに車道に突き飛ばされたのだ。 小林由香「イノセンス」#24

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 同じくらい深い罪を抱えていればいいのに、そんな卑しい感情が芽生えた瞬間、すぐに現実に引き戻された。
 助けてくれた人を置き去りにし、逃げだしてしまったときの心境を彼女に話しても、きっと理解してもらえないだろう。
 おそらく同様の事件に巻き込まれたら、すぐに救急車を呼び、被害者を助けたはずだ。それは宇佐美も光輝も同じだ。そう考えると、やはり自分には決定的になにかが欠けていると思い知らされた。
 先ほどまで抱いていた同類という安堵感は、思い込みに過ぎない。誰にも期待しないと決めたはずなのに、ここ最近は他人に希望を見出そうとしてしまう。
 あの事件以来、同じ夢ばかり見ている。
 ひとつは氷室の夢。
 もうひとつは、海で溺れている少年の夢──。
 海に波はない。どこまでも広がるのは、血液の混じった赤い水。どうしてなのかわからないが、それは氷室が流した血だと夢の中で認識していた。
 少年は海底でもがきながら必死に上空を見上げている。今にも泣きだしそうな表情だった。
 遥か彼方かなたに見える海面には、太陽の光がゆらゆら揺れている。どうにか浮上したくて、少年は光に向かって必死に手を伸ばす。けれど、手足にまとわりつく赤い水がそれを許さない。身体が重くなり、深く沈んでいく。息が苦しくて、こめかみの血管がはち切れそうなほど浮き出ていた。
 少年の口からごぼごぼと気泡が上がり、次第に意識が遠のいていく。
 決まって、いつもそこで夢から覚める。実際に海の底にいたかのように全身は汗だくになり、呼吸まで荒くなっていた。
 今もなお、どれほど考えても、どれだけ祈り続けても、氷室の血の中でもがく少年を救うすべは見つけられないままだった。

 五限目の講義が終わったあと、旧図書館で心理学実験の課題のレポートを終わらせてから校舎を出た。空は西の方角にわずかにあかね色を残し、薄暗くなり始めている。
 大学の敷地内に人は少なかったが、正門付近に数人の学生たちが集まっていた。これからの予定を楽しそうに話し合っているようだ。どの学生たちも、未来には必ず楽しいことが待っている、そう信じている者だけが見せる無邪気な笑みを浮かべていた。
 星吾は一抹の不安を抱えながら、緩慢な動きでB棟を振り返った。ついうっかりしていて、宇佐美の研究室に寄るのを忘れていたのだ。
 講義中、紗椰のことがずっと頭から離れなかった。美術室での会話の一部始終を思い返しては、そこにある感情や意味を探してしまう。けれど、どれほど考えても明確な答えはだせず、胸にもどかしさを残していくだけだった。
 なぜか、もう二度と会えないような気がした。
 これから仲よくなりたい相手に、傷つけるようなことは言わないだろう。もともと彼女とは深い関わり合いはないのだが、今思えば、強い言葉を投げてきたのは決別宣言のようで奇妙な寂しさを覚えた。
 重い足取りで歩道をゆっくり進んでいく。
 大学の周辺にはいくつか駅がある。星吾が通学で利用している駅は、大学から徒歩七分くらいの距離にあった。しばらく歩を進めると、車の往来が激しい駅前の大通りに行き着く。
 横断歩道の信号が、利用者を急かすように点滅を始めた。
 交通量が多いため、信号が変わるまでには時間がかかる。けれど、長い横断歩道を走って渡る気にはなれなかった。
 花瓶の事件のせいで陰鬱な思いが立ち込め、全身がぐったり疲れ切っていた。
 信号が赤に変わる頃、左隣が急に騒がしくなる。隣を見やると、制服姿のふたりの男子高生が、芸人のコントを真似て笑い合っていた。きっと、軽音楽部なのだろう。ギターケースのようなものを抱えている。
 高校時代、あんなにも屈託なく笑い合える友人はひとりもいなかった。けれど今は、宇佐美や光輝を身近に感じる。深く関わる人間が増えるほど気持ちは重くなるのだが、彼らが暗い人生に明かりを灯してくれたのも事実だった。
 目の前の車道を何台もの車が走り抜けていく。疲れているせいか、車の走行音がやけに耳障りだった。
 星吾は手持ち無沙汰になり、何の気なしに天を仰いだ。
 細長い雲が流れると、白い三日月が姿をあらわす。夜の闇が迫る空に、小さな星が瞬いていた。少しだけ青紫を混ぜて空全体を塗り直したくなる。
 そうすれば、彼女に似合う背景になるのに──。
 唐突に、胸の奥底から紗椰を描きたいという強い衝動が込み上げてくる。
 哀しみを湛えた瞳、憂いを帯びた表情。氷室を描いてしまったときと同じように、彼女にもまた描かずにはいられない求心力があった。
 背中に衝撃が走り、全身が震えた。
 視界が揺らぎ、上半身が傾いていく。バランス感覚が崩れ、星吾は前へ飛びだすように倒れ込んだ。気づけば、車道に身を乗りだし、アスファルトに両膝をつけ、四つん這いになっていた。
 掌に強い痛みを感じる。緩慢な動きで顔を上げると、すぐそこに車が迫っていた。
 誰かに車道に突き飛ばされたと認識するまでに数秒かかった。
 すぐ目の前を車が横切っていく。車との距離は頭一つ分しかなく、風圧が前髪を揺らす。頭をもぎ取られるような恐怖を覚えた。
 危ないとわかっているのに身体が硬直して立ち上がれない。耳にけたたましいクラクションの音が飛び込んでくる。
 咄嗟に人の気配を感じて顔を上げた。さっき騒いでいた男子高生たちが腕をつかみ、星吾を歩道に引き戻してくれる。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込む高校生を無視して、星吾はすぐに振り返って確認した。
 五歳くらいの男の子を連れた母親、スマホを手に持った若い女性……不審な人物は見当たらなかった。
「ちゃんと立てますか?」
 男子高生たちに支えられるかつこうで、どうにか立ち上がる。支えてもらわなければ起き上がれないほど、膝が震えて足に力が入らなかった。
「もしかして具合が悪いんですか?」
 彼らは気分が悪くなって倒れたと勘違いしたのか、困惑した表情で訊いてきた。
 動揺していた星吾はなにも返答せず、いちばん知りたい質問を投げた。
「不審な人物を見ませんでしたか? 誰かに背中を押されたんです」
 正直に伝えると、高校生たちの顔がさっと曇った。
「俺らじゃないっすよ。俺ら騒いでたけど、マジでぶつかったりしてませんから」
 そのやり取りを見ていた若い女性は、星吾と視線が合うと自分は関係ないという顔つきで目をそらした。
 彼女はスマホに夢中で犯人に気づかなかったのだろうか──。
 男子高生たちは疑われていると勘違いしたのか、信号が青に変わると急ぎ足で横断歩道を渡り始めた。若い女性も続くように足早に遠ざかる。
「あの……さっき、あっちのほうにキャップをかぶった背の高い男の人が走っていく姿を見て……だからといって、その人がなにかしたかどうかまではわからなくて……」
 母親はそう言い残すと軽く頭を下げ、男の子の手を握りしめて横断歩道を渡っていく。
 星吾はすぐに母親が指差した方角を確認してみたが、怪しげな男はどこにも見当たらなかった。思わず鞄の外ポケットに手を入れ、手が痛くなるほどお守りを強く握りしめていた。
 窓に貼られた真紅の文字が脳裏にありありと浮かんでくる。
 ヒトゴロシハシネシネシネシネシネシネシネ──。
 たしか、去年の二月九日、氷室の事件の加害者、月野木礼司が事故死していたはずだ。
 喧騒が遠のき、高音の耳鳴りが響いてくる。
 極度の緊張のせいで胃がむかつき、強い吐き気を催した。あれは脅しではなかったのかもしれない。
 宇佐美の「常に死を覚悟して生きるのは、そう簡単じゃない」という言葉がぐるぐる頭を巡っていた。

▶#25へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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