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連載

小林由香「イノセンス」 vol.23

【連載小説】愚かで、卑屈で、自分本位で、自己愛が強くて、自意識過剰で……。 小林由香「イノセンス」#23

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 紗椰は涼しげなオフホワイトのワンピース姿だった。少し申し訳なさそうな表情を浮かべ、こちらの様子を窺っている。
 星吾は動揺を悟られないように尋ねた。
「……どうしたの?」
「光輝君から、ここに来れば音海君に会えるって聞いて……」
 紗椰はどこか気まずそうに答えてから宇佐美に挨拶した。「教育学部の黒川紗椰です」
「あぁ、お噂はかねがね伺っています。汚い部屋ですけど、どうぞ、どうぞ」
 驚くことに、宇佐美は満面に笑みを浮かべ、まるで自分の家に招くような仕草で彼女を誘導し始めた。ついさっきまで『怪しい女』だと言っていたのが噓のようだ。
 あまりのひようへんぶりにぜんとしている星吾を歯牙にもかけず、宇佐美は近寄ってくると小声で「可愛い子だな。一時休戦だ。まだ話は終わっていないから、あとで研究室に来い」と言い残して教室を出ていってしまった。
 ドアがバタンと閉まると、室内がしんと静まり返った。
 妙な緊張感が漂う中、星吾は額の汗を手で拭った。気を利かせたつもりなのかもしれないが、ふたりきりにした宇佐美が恨めしく思えてくる。
 ひどく気詰まりな時間が流れていく。
 用事があるから美術室に来たはずなのに、彼女は床に視線を落としたまま、なにも話そうとしない。
「急に……なんの用?」
 星吾はぶっきらぼうな口調で尋ねた直後、わずかに胸が痛んだ。
 彼女の動揺した表情を見て、居たたまれなくなったのだ。また失言してしまったことに気づき、自分の愚かさに嫌気が差す。
 周囲に溶け込めない原因を自覚していた。自然な会話ができないからだ。氷室の事件が起きるまでは、自分の言動に注意してこなかった。それでも周りから疎まれることはなく、多くの友人たちと楽しく過ごせた。けれど、今は慣れない相手との会話が極度に苦手になった。なにか言葉を発するたび、相手を不快にさせてしまいそうで怖くなるのだ。
「噓をついたこと……もう一度、ちゃんと謝りたくて……先生と話していたのに邪魔をしてしまったみたいで、ごめんなさい」
 紗椰はそう言うと、ドアに向かって歩きだした。
「邪魔じゃない。暇だから」
 星吾が慌てて声をかけると、振り返った紗椰は目を丸くし、少し戸惑っている様子だった。
「暇っていうか……時間はある。それも、たくさん」
 星吾が慎重に言葉を探して伝えると、彼女はくすくす笑いだした。
 唐突に、雨の夜の記憶が舞い戻ってくる。
 トラックに水をかけられ、ふたりで笑い合った歩道──。
 どうしてだろう。胸の辺りがあたたかくなるのを感じた。
 彼女の笑顔を目にしたせいか、先刻までの不安は静まり、わずかに呼吸が楽になっていく。相手の表情から敏感に感情を読み取り、右往左往してしまう自分の臆病さが嫌になる。
 彼女はイーゼルの前に立つと、そこに置いてある画用紙に目を向けた。
 誰にもられたくない絵なのに、どこまで運が悪いのだろう。
 いつもは感情が剝きだしになるような絵は描かなかった。どちらかといえば、静かな印象の風景や花を好んで描いていたのに──。
 星吾は陰鬱な気分を押し殺し、言い訳めいたことを口にした。
「失敗作だから、捨てようと思っていたんだ」
 それでも紗椰は、感情の読めない表情で絵をじっと見つめている。
 星吾は気まずくなって視線を落とした。小さな溜息がもれる。静まったはずの胸のざわめきが、またぶり返してきた。
 絵はときとして、描く人間の本性をあらわしてしまうことがある。胸の奥に隠し持っている、卑怯で薄汚い部分を覗かれているようで落ち着かなかった。
「この人……」紗椰はなにかつぶやいた。
 思いきって見た彼女の顔は、憐れみも嫌悪感も宿していなかった。予想に反して、安堵しているような、嬉しそうな表情を浮かべている。
「この人は誰を見ているの?」
 その意外な問いに、心は乱れ始めた。いたってシンプルな質問なのに、窮地に追いつめられた気分になる。
 氷室が憎しみの目で見ている相手を答えれば、どうしてそんな目で見られているのか尋ねられそうで怖かった。心を覗かれたくないから、いつだって口から噓がこぼれる。
「その人は誰も、なにも見ていない」
 星吾の答えを聞いても、紗椰は黙ったまま真剣な眼差しで絵を眺め続けていた。
 しばらくすると憂いを帯びた表情になり、彼女は弱々しい声で意外なことを口にした。
「同じ目をしている人を知っている」
「誰が……この目をしているの?」
 星吾はなにかに誘われるように問いかけた。
「私の母」
 紗椰の瞳は、深い哀しみをたたえていた。
 なぜ彼女の母親が、氷室と同じ憎しみの目をしているのだろう。その目は誰に注がれているのか。瞬時に様々な疑問が湧き上がってくる。
「黒川さんのお母さんは、その目で誰を見ているの?」
「私よ」
 紗椰はさも当然のように答えてから、窓際まで行くと外を見やった。「光輝君から、音海君と私は似てるって言われた。それから、いろいろ気になり始めて……」
 自分と似ていると言われれば、その相手が気になる心理は理解できる。
「それから音海君を見かけるたび、目で追ってしまうようになった」
「黒川さんは、僕とは似てない」
「とても似ていた」
 紗椰は、有無を言わせない断定的な口調だった。
 星吾は強張った声で訊いた。
「僕らのどこが似ているっていうの?」
「愚かで、卑屈で、自分本位で、自己愛が強くて、自意識過剰で、それなのにとても弱くて……生きるのがとても苦しそうで……」
 屈辱的な言葉を投げつけられるたび、平常心が決壊するほどの哀しみが胸に押し寄せてくる。歯を食いしばってどうにか堪えた。そうしなければ、立っていることもできないほど震えていたからだ。
 これまでも自分に向けられた暴言はネット上で幾度も目にしてきたが、面と向かって言われたのは初めてだった。的を射ている残酷な言葉にどう向き合えばいいのかわからず、星吾は本音を吐きだした。
「黒川さんには、僕のことはわからないよ」
 その言葉は憤りからではなく、過去を知っているのではないかという怯えと恐怖心から出たものだった。
 紗椰は我に返ったかのように、はっとした表情をみせた。
「失礼なことを言ってごめんなさい。でも、音海君の行動を見ているうちに、私とあなたは同類なんじゃないかと思えた」
 以前、星吾は自分の顔が彼女に似ていると感じた。シンパシーを覚えたのは事実だ。あのとき、紗椰自身も星吾の中に自分の姿を見たのかもしれない。
「いつか……お互いあの目から逃れられる日が来ればいいのにね」
 紗椰は憐れんでいるような、軽蔑しているような複雑な表情で言った。
 あの目から逃げたいと思っていることを、なぜ彼女は知っているのだろう──。
 頭に浮かんだ疑問は言葉にならなかった。
 素直に理由を尋ねられないのは、己の過去を語りたくないからだ。後ろめたい過去がある人間ほど、質問が下手になる。
 紗椰は噓をついたことを丁寧に謝罪してから歩きだした。
 星吾が振り返ろうとしたとき、バタンとドアが閉まった。
 吐きだした溜息が、周りの空気を孤独に染めていく。見知らぬ場所に、ひとり取り残された気分になり、次になにをすればいいのかわからなくなる。
 屈辱的な言葉を浴びせられても、なぜか怒りは湧かなかった。『同類』という甘美な響きが、負の感情を溶かしていく。
 あの事件以来、普通の人間とは違う卑怯者、普通とは違う愚か者だと感じて生きてきた。ネットでもひどい言葉を浴びせられた。匿名の書き込みを読んでいて気づいた。彼らは『卑怯な少年とは違い、自分だけは正義を貫く崇高な生き物だ』ということを証明したいのだ。
 そのせいか『同類』という言葉は胸に感動を呼び起こし、計り知れないほど大きな安らぎを与えてくれる。同時に、深い同情を覚えた。
 自分の痛みさえ対処できないのに、ある疑問が頭から離れなかった。
 彼女の過去になにがあったのだろう──。

▶#24へつづく
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