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連載

小林由香「イノセンス」 vol.22

【連載小説】ネットで誹謗中傷され、自分が情けなくて簡単に死ねる方法ばかり考えていた。 小林由香「イノセンス」#22

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 星吾は記憶をたどりながら、おもむろに口を開いた。
「最近、赤色の絵具でデッサン画を汚されました。先生が学会に出席していて大学にいなかったとき、雷で停電になった日があって……そのとき旧図書館の棚から重量のある画集が落ちてきたこともありました」
 画集が落下してきたときは驚いたが、恐怖心はそれほど引きずらなかった。その後、不審な出来事に遭遇しなかったからだ。
「その出来事をどうして言わなかった?」
 宇佐美はきつい口調で言葉を吐きだした。
「先生に……心配かけたくなくて」
「嫌がらせを受け続けたせいで、感覚が麻痺してないか? 起きている出来事は、お前が想像する以上に重大だぞ。当たりどころが悪ければ、重傷を負った可能性もある。今回の花瓶もそうだが、お前は死んでいたかもしれない」
 書架から本を落とされた程度だと軽く考えていたため、なにも反論できなかった。
 誰かに命を狙われていると実感した途端、胸に恐れの感情が芽生えた。あれほど死にたいと願っていた時期があったはずなのに、相反するような生への執着も併せ持っていることに気づき、少しだけ自分が哀れに思えた。
 宇佐美は憤った気持ちを静めるようにイーゼルの前まで歩いていくと、床に落ちている画用紙に視線を向けた。
 画用紙はイーゼルの真下に寂しく放置されている。描かれている双眸は、何度も踏みつけられたせいで、いくつも靴跡が残っていた。
 宇佐美は怪訝そうな面持ちで、画用紙を拾い上げてから訊いた。
「これも犯人の仕業か?」
 星吾は気まずくて目をそむけた。落ち着こうとして握りしめた自分の手が氷のように冷たかった。
「それは……自分でやりました」
 宇佐美は動揺する素振りも見せず、「相変わらず、変わった学生だな」と、目を細めて笑った。
 その優しさを無下にしたくなくて、星吾はできるだけ明るい声で説明した。
「描き上げた絵が気に入らなくて、つい苛立ってしまって……」
「絵を描いていれば、そういうときもある。ところで、花瓶を窓の近くに置いていた覚えはないか?」
 ぼろぼろの画用紙なのに、宇佐美は丁寧にイーゼルに立てかけながら尋ねた。
 星吾はしばらく考えてから答えた。
「花瓶もラベンダーも教卓に置いていました」
「そうだよな。俺も教卓にあったのを覚えている」
 その証言に安堵の気持ちが湧いてくる。氷室の事件以来、自分の記憶に自信が持てないでいた。今もなお事件当日の記憶は曖昧なままだった。
 宇佐美はこちらをまっすぐ見据えながら尋ねた。
「最近、誰かに恨まれるようなことをしていないか」
 ホームで自殺しようとした色白の男に暴言を吐いたが、彼が大学までやってきて、さらに美術室に忍び込み、花瓶を落として仕返しするとは到底思えなかった。
「黒川紗椰……あの怪しい女とはどうなった?」
 唐突な質問に、星吾は顔をしかめた。
「彼女とはなにもありません」
 紗椰のことが頭に浮かばなかったわけではないが、以前ならともかく、あの雨の夜の出来事を思いだすと彼女が悪意を持っているとは考えられなかった。
 宇佐美は毅然と言い放った。
「警察に被害届をだしたほうがいい」
「被害届?」思わず声が裏返った。
「相談はしてみるが、大学側に訴えても警察に連絡してくれる可能性は低い。事件が起きても、大抵の問題は学内で処理される。講義室の戸締まりを強化し、施錠のない教室は新たに鍵の設置を検討するだけだ。次にやるのは鍵の徹底管理だ。そんなルールを作ってお茶を濁す。前にも別の学校で似たような事件があったが、教育現場はどこも隠蔽体質だ。真剣に捜査してほしいなら自分で警察に訴えるしかない」
 被害届が受理されれば、警察が大学まで来て捜査するのだろうか──。
 大学関係者に事情聴取を行うかもしれない。忌まわしい過去を掘り起こされ、また変な噂が立つ可能性もある。噂はどこまでも広がり、コンビニのバイトも辞めさせられる事態に陥るかもしれない。光輝や多くの学生たちに、愚かな過去を知られるのが恐ろしかった。それ以上に、心配なことがあった。大学側が内密に処理したかった場合、警察沙汰にすれば宇佐美にも迷惑がかかるのは目に見えている。
 星吾は不安を顔にださないように努めた。
「近くに防犯カメラはないし、警察が捜査しても誰がやったか特定するのは難しいと思います。怪我もなかったから、そこまでしなくても……」
「今回は運がよかっただけだ。だが、この先も危険なことが続いたら命にかかわらないとも言い切れない」
「やればいいと思います」
 星吾は、眉をひそめている宇佐美の顔を見つめながら言葉を継いだ。「強い憎悪の念を抱いているなら、僕を殺せばいい」
「どんなポリシーだよ。強がって投げやりになるな」
「投げやりではないです。ネットで誹謗中傷され、家族にまで迷惑をかけてしまって、自分が情けなくて簡単に死ねる方法ばかり考えていた時期もありました。でも、臆病だから実行できなかった。それを誰かがやってくれるなら望むところですよ」
 氷室を見殺しにしたのに、自分は生にしがみつくなんて不合理な気がした。
 室内に重い沈黙が流れ、呼吸が苦しくなる。
 しばらくしてから、宇佐美の無機質な声が響いた。
「お前の人生だから好きにすればいい。だけどな、常に死を覚悟して生きるのは、そう簡単じゃない。もしも簡単じゃないと気づいたら、そのときは正直に俺に話せ」
「どうして先生は……そんなにも親身になってくれるんですか」
「他人に親身になる人間は偽善者か? 怪しいか?」
 図星だったので星吾は返答に窮した。
 宇佐美は自分の動かない左手の指に視線を落としながら口を開いた。
「お前に干渉するのは、俺自身のためだ。音海がいなくなったら、しゃべる相手がいなくてつまらなくなる。それに、このまま放っておいて、お前になにかあったら俺が苦しむ結果になるからな。残りの人生、そんなくだらない贖罪を抱えながら生きたくない」
「誰かと関われば……僕はいつも相手を不幸にしてしまう」
「俺は痛みを知っている人間が好きだ。今は気が済むまで卑屈になればいい。だけどな、そういう観念的思考は身を滅ぼすだけだ。真実をじ曲げて、どこかに逃げようとしても、必ず最後は真実に追いつかれるときがくる」
「僕は真実から目をそむけている、っていうんですか」
「人間はみんな安全に自由に生きる権利がある。もちろん、お前にもその権利はある。そこから目をそむけるのは真実を見ていない証拠だ。それを認めない限り、永遠に立ち上がれない。人間は誰かの操り人形じゃない。お前を救えるのは、お前の意志だけだ」
 厳しい口調とは違い、宇佐美は穏やかに微笑んでいた。
 こんなにも強く忠告してくるのは初めてだった。
 想像以上に危険な状況に身を置いているのかもしれない。そう認識しても、宇佐美の言葉を素直に受け入れられない自分がいた。すべてが空疎な導きでしかない。安全に自由に生きる権利を求めた先に、希望に満ちた未来が待っているとは思えないからだ。
「あの、すみません」
 突然、室内に弱々しい声が響き、ドアのほうを見やると、意外な人物が立っていた。

▶#23へつづく
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