【連載小説】先生は殺したいほど恨んでいる相手がいると言っていた――。 小林由香「イノセンス」#21
小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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涼しい屋内とは打って変わり、外は蒸し暑くて不快な気分になる。
四限目に講義が入っている光輝とは、先ほど学食で別れた。星吾は時間をつぶすため、のんびりした足取りで美術室に向かった。
B棟の建物に沿うように延びている道を歩きながら、同じ疑問ばかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
学食にいたとき、光輝が険しい表情を浮かべていたのはなぜだろう。あのとき中庭には、親密そうに話をしている松原と武本の姿があった。
今まで他人に興味を持てなかったのに、彼のことは知りたくなってしまう。それなのに、いつも素直に質問できなかった。
木々の枝葉が風に揺れ、生き物のようにさわさわと動いている。
星吾はなんの気なしに空を見上げた。分厚い雲間から光がもれ、輝く帯が地上に向かって放射状に降り注いでいる。その幻想的な光景に誘われ、足を止めた。
次の瞬間、びくりと肩を跳ね上がらせた。
目の前を白い物体が落下していく。その直後、ガラスが割れるような音が響いた。
数秒遅れて、薄紫色の花がひらひらと舞い落ちてくる。
ドライフラワーのラベンダー。そう認識した途端、頭の中が真っ白に染まっていく。
目の前の光景に一歩も動けなくなる。その場をすぐに離れなければならないのに、切迫感が募るばかりで、足がすくんで動けない。
首をぎこちなく動かし、周囲に目を走らせた。
陶器が割れる音が聞こえたのか、少し離れた場所にいるふたりの男子学生たちが不思議そうな顔つきでこちらを眺めていた。どちらも見知らぬ人物だった。
B棟を見上げると、二階、三階の窓は閉まっている。けれど、四階の美術室の窓は開いていた。風に煽られ、カーテンが揺れている。
思わず目を凝らした。
全身に鳥肌が立ち、鼓動が急速に速まっていく。
カーテンの向こうに人影が見えたのだ。
星吾は、B棟に向かって全速力で駆けだした。
エントランスを抜けて廊下に出ると、長身の男と視線がぶつかる。
武本伸二──。
彼とは一度も言葉を交わしたことはない。それなのに、武本は因縁の相手に向けるような鋭い視線を投げてくる。その挑戦的な眼差しに射すくめられ、星吾は額にじっとりと汗が滲んでくるのを感じた。
咄嗟に嫌な予感を覚えて身構えたが、武本はさっと目をそらし、涼しい顔で横を通り過ぎていく。甘い香水のような匂いが漂ってきた。
星吾は我に返り、また廊下を駆けだした。
人影を見てから二分も経っていないのを考慮すると、犯人はまだ美術室の近くにいるかもしれない。
エレベーターのインジケーターは四階を示していた。降りてくるまでに時間がかかる。
星吾は乗降用ボタンを押すのをやめて、全速力で廊下を走り、階段を駆け上がった。
肉体的な疲労か、それとも精神的な恐怖からなのかわからないが、心臓は張り裂けそうなほど早鐘を打っている。足がもつれ、何度も階段を踏み外しそうになった。
旧図書館で画集が落下してきたのも、誰かが故意に行った可能性が高い。
間違いなく、犯人は自分を狙っているのだ──。
四階の廊下に出ると、突き当りにある教室に向かって走っていく。
美術室のドアは、まるで誘導するかのように口を開けて待っていた。
あの先には、いつもの教室はなく、不幸へとつながる闇の世界が待ち受けている気がした。鼓動が速まるほど、胸の中の不安はどんどん色濃くなっていく。
ふいに、昨日の自分の姿がよみがえってきた。
怒りに支配され、なにかに取り
その後の記憶をたどってみたものの、混乱をきたしていたせいで美術室を出たときにドアを閉めたかどうか思いだせなかった。普段なら必ず閉めているはずだ。
ドアまであと数歩のところで、恐怖を伴う戸惑いが生まれた。
宇佐美を呼んでから室内に入るべきだろうか。いや、もう犯人はいないかもしれないが、一刻も早く確認したいという気持ちが勝った。
鞄の外ポケットに手を滑り込ませ、お守りを取りだして強く握りしめる。覚悟を決めて駆け込むと、そこには意外な人物の姿があった。
星吾は肩で息をしながら、広い背中を呆然と眺めた。
静寂に包まれた教室に、自分の激しい呼吸音だけが響いている。心臓が脈を打つたび、困惑はさらに深まり、思考が麻痺していくようだった。
窓際にいる男の服装も体格も見慣れている。それなのに顔を確認するまで心が休まらなかった。
「先生……」
声は届いているはずなのに、宇佐美は窓の外に視線を据えたまま全く反応しない。
室内を見渡すと、どこにも花瓶とラベンダーが見当たらなかった。落下してきたのは、間違いなく美術室に置いてあったものだと確信した。
嫌な予感が頭をもたげた。
先生は殺したいほど恨んでいる相手がいると言っていた──。
星吾が近寄ろうとすると、甚平姿の男は硬い表情で振り返った。
そのまま彼は
慌てて手にあるお守りを隠すように鞄のポケットに戻し、少しだけ顔を伏せた。うまい言い訳が見つからない。
場は険悪な雰囲気になり、余計になにも話せなくなってしまう。
宇佐美はなにを持っていたのか気づかなかったのか、星吾の全身に目を走らせてから口を開いた。
「怪我はなかったか?」
「僕は……大丈夫です。でも、どうして先生が……」
数秒の沈黙が流れたあと、彼は顔をしかめた。
「おいおい、俺はなにもしていないぞ。美術室のドアが開いていたから様子を見に来たんだ」
冷静に観察してみたが、宇佐美が虚偽を口にしているようには見えなかった。
窓から顔をだして地面を覗き込む宇佐美に倣い、星吾も隣に立って覗いてみる。無残に砕け散った花瓶とラベンダーの残骸が見えた。
「俺がこの部屋に来たときは誰もいなかった。でも、窓が開いていたから気になって外を覗いてみたら駆けていくお前の後ろ姿が目に飛び込んできた。地面には破片のようなものが散らばっていたから、まさかと思ったんだが……」
きっと、カーテンの向こうに見えた人影は宇佐美だったのだろう。
初めて事の重大さに気づいた。
花瓶が落下してきてから窓の人影に気づくまでに要した時間はほんの数秒だ。宇佐美が犯人と鉢合わせしていてもおかしくない状況だった。もしも犯人が凶器を持っていたら深刻な事態に陥っていただろう。
最悪な現場を想像するだけで息苦しくなってくる。
「先生は、ここに来る途中で誰かに会いませんでしたか?」
「俺は誰にも会わなかった。一体なにがあった? 詳しく状況を説明してくれ」
「学食を出てから美術室に向かおうとしているとき、花瓶とラベンダーが降ってきたんです」
星吾が簡潔に伝えると、宇佐美は呆れたような笑みを浮かべた。
「花瓶が空から降ってくるわけがない」
「自然現象ではないなら……誰かに命を狙われているのかもしれません」
「心当たりはあるのか?」
星吾は小さく首を傾げた。
恨まれる覚えなら山ほどある。けれど、これまでは精神的な嫌がらせだけで、命を狙われるようなことはなかった。いや、旧図書館での出来事が故意に行われたものだとしたら──。
宇佐美は眉根を寄せ、顎鬚を撫でながら言った。
「昼のニュースでやっていたが、児童が七階のマンションのベランダから卵を落下させて遊んでいたらしい。この大学に善悪の分別がつかないガキがいるとは思いたくないが、もしも偶然ではない誰かの仕業なら、これは悪ふざけじゃ済まされない」
「たぶん、悪ふざけではないと思います」
「思いあたるふしがあるんだな? ひとりで抱え込まず、すべて正直に話せ」
宇佐美の声は珍しく怒気を
▶#22へつづく
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