【連載小説】人間ってさ、生まれたときから勝ち組と負け組にわかれてるのかもね。 小林由香「イノセンス」#20
小林由香「イノセンス」
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※本記事は連載小説です。
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宇佐美の研究室に入ったのは三日ぶりだった。
学会に出席していたため、ここ数日は大学にいなかったようだ。
「これは刑事の勘だが、その女は怪しいな」
宇佐美はそう言うと、まるで敏腕刑事のような顔つきで顎鬚をしきりに撫でている。
突っ込みを入れるのも面倒になり、星吾は率直に尋ねた。
「なにが怪しいんですか?」
「初めて黒川紗椰と会ったのは、お前がいつも利用している最寄り駅のホームで間違いないな?」
星吾はしかたなく刑事ごっこに付き合うように「間違いありません」と軽くうなずいてみせた。
「つまり、お前が出会ったのは駅が最初だが、向こうは違うということになる。彼女は以前からこっそり音海の行動を観察していた。まるでストーカーみたいにな」
「僕にストーカーしてなんのメリットがあるんですか」
宇佐美は難しい顔で紅茶を飲んでから、すぐに「問題はそこだ。まったくメリットがない」と破顔した。
現実感の伴わないあの夜は、激しい雨が降り続いていたため、あまり会話ができなかった。
まだ宇佐美には、紗椰の母親が自殺したことを話せないでいた。そこまで話してしまうのは彼女を軽んじているようで
星吾は故意ではない可能性を口にした。
「もしかしたら住んでいるところが近くて、僕の嫌な態度を偶然見かけただけかもしれません」
「偶然ねぇ。どちらにしろ、そいつはミステリ小説でいうところの謎の女だな。でも、まぁ大抵、恋は謎から始まるものだから、そういう出会いも悪くない」
星吾は急に白けた気分になり、わざとらしく溜息をついた。
「この大学に彼氏がいるみたいですよ」
「彼氏がいたら恋しちゃいけないのか? いくら法治国家でもそんな決まりはないだろ」
「そもそも恋なんてしていませんから」
「誰にも遠慮する必要はない。お前はもっと肩の力を抜いて学生生活を楽しんでもいいんだ」
その言葉には深い意味が含まれている気がして、急に居心地が悪くなる。
罪を抱えている人間にとって、幸福感と罪悪感は常に一体となってあらわれる。永遠に消し去ることはできないのに、心が少しでも幸せを感じるたび、誰かが頭の中で被害者遺族の苦しみを忘れるなと叫ぶのだ。その声を打ち消すことはできない。なぜなら、叫んでいるのは他の誰でもなく、もうひとりの自分自身だからだ。
宇佐美は胸中を察したのか、真剣な面持ちで苦言を呈した。
「お前が闘うべき相手は、見えない敵じゃない。恐れるものは、いつだって己の心が作りだす」
その言葉はあながち間違いではないのかもしれない。
昨日、パソコンのモニターをしばらく凝視していたが、いつまで待っても氷室はあらわれなかった。自分の弱さが、亡者を映しだしているのかもしれない──。
「とにかく、悩み事があるときは研究室に来い。お茶くらいならいつでもだしてやる」
星吾はできるだけ明るい声で言った。
「大丈夫だと思います。最近は嫌がらせもなくなって、普通の生活が送れていますから」
「普通の生活か……」
宇佐美は憐れむような表情になると「そりゃ、なによりだ」と微笑んだ。
五限目まで講義が入っていなかったので、研究室を出てから遅めの昼食をとるために学食へ向かった。腕時計に目を向けると、もう一時半を過ぎている。
混み合う時間帯を避けたせいか、学生の姿はほとんど見当たらず、学食は閑散としていた。
星吾は人の少ない時間に昼食を済ませるのが好きだった。けれど、今日はたくさん席が空いているのに、どこに座るべきか真剣に悩んでしまう。
窓際のテーブル席に、光輝がひとりで座っていたのだ。どことなく険しい表情を浮かべている。ときどき中庭のほうに目を向け、溜息をついているようだった。すでに食べ終わったのか、テーブルには飲み物のカップだけが置いてある。
彼はいつも大勢の仲間たちに囲まれ、
光輝が他の学生たちといるときは、星吾はできるだけ離れた場所に座り、気づかれないように努めた。友だちを紹介されるのが面倒だという理由もあるが、それ以上に人間関係をうまく築けない自分が仲間に加わり、光輝に迷惑をかけるのが嫌だったのだ。けれど、相手がひとりのときに離れた席に座るのは、あまりにも不自然だ。
これだけ学生が少ないのだから、声を掛けても問題ないような気がする。
自分が面倒くさい人間だと再認識し、思わず溜息がこぼれた。
あっという間に出来上がったカレーをトレイにのせてからも、しばらくその場に佇んで逡巡していた。
頭が混乱し、一瞬周囲の音がすっと遠のいた。
光輝がなにか気配を感じたのか、鋭い目つきでこちらを振り返ったのだ。かつて見たこともないような邪気に満ちた眼差しに
「ここで一緒に食べよう! ひとりで寂しかったんだ」
光輝は、大声でそう言いながら手招きしてくる。普段の穏やかな表情に戻っていた。
見慣れた柔らかい笑顔に安堵し、星吾は同じテーブル席に座った。
「あいつが武本」
光輝は少し強張った顔で言うと、中庭に視線を移した。
そこには意外な人物がいた。
ひとりは、紗椰が付き合っているという武本伸二。もうひとりは、司書の松原だった。
ふたりは中庭にあるハナミズキの近くに立っている。どちらも長身で手足が細長く、まるでモデルのような体形だ。
武本は白いシャツにサックスブルーのジーンズ。髪はやや長く、悠然とした雰囲気を醸しだしている。光輝から聞いていたせいか、育ちのよさが感じられる爽やかな人物だった。
ファッション誌から抜け出たような武本の姿を目にしたとき、なぜか胸がしめつけられるような感覚を味わった。
ふたりとも深刻そうな表情で立ち話をしている。武本の耳もとに口を寄せ、なにか囁くように話している松原の姿は親密な関係を窺わせた。
あの雨の夜以来、紗椰とは廊下ですれ違うたび、軽く挨拶を交わすようになった。
けれど、星吾はやはり彼女が苦手だった。
紗椰を目にすると全身に奇妙な緊張感が走り、居心地が悪くなるのだ。どんな表情をするのが自然なのか、相手がひとりのときはなにか話しかけたほうがいいのか、そんなことばかり考えて、ひどく疲れてしまう。
「人間ってさ、生まれたときから勝ち組と負け組にわかれてるのかもね」
光輝はふてくされたような顔でぼやいた。「武本はイケメンだし、あいつの父親は大手企業の重役。マジで羨ましいよ」
光輝の腕にある腕時計は、何十万もする高価な代物だ。服や鞄もブランドものが多い。彼は裕福な家庭で育ったと思い込んでいたので、金持ちの息子を羨んでいる姿に強い違和感を覚えた。よく考えれば、コンビニでバイトをしているのも不可思議だ。
星吾は芽生えた疑問を直接言葉にできず、遠回しに尋ねた。
「その腕時計、かなり高いよね」
光輝は自分の腕時計に視線を落とすと、嬉しそうに答えた。
「誕生日プレゼントにもらったんだ。自分じゃ買えないよ」
彼は意味深な笑みを浮かべながら続けた。「紗椰から聞いたんだけど、昨日バイトが終わってから会ったんでしょ?」
星吾は「会ったというか……」と言ったきり、二の句が継げなくなる。
彼女からどこまで聞いているのだろう。駅のホームで色白の男に吐き捨てた暴言のことも聞き知っているのか──。彼の無邪気な表情からは窺い知ることはできなかった。
光輝は柔らかい笑みを湛えながら口を開いた。
「紗椰がいきなりコンビニに来て、切羽詰まったような顔で『音海星吾ってどういう人』って訊くから、正直に答えたんだ」
「どうして教えてくれなかったんだよ」
「女の子からの相談を誰かに話したら信用をなくすだろ」
光輝は、なにを勘違いしたのか慌てて言葉を継いだ。「俺は悪く言ってないからね」
「悪く言ってもいいよ。事実なんだし」
「星吾はマジでいい奴だよ。俺が保証する。だけど、なんであんなに気にしているんだろう。ふたりはどういう関係なの?」
おそらく、詳しいことはなにも聞いていないのだろう。
星吾は安堵感と同時に妙な後ろめたさを感じながら答えた。
「廊下で会ったとき……挨拶する関係」
ありのままを正直に伝えると、光輝は噴きだした。
「なにそれ? たまに会う近所のおじさんみたいじゃん。お互い相手のことを気にしているのに、本人たちは『挨拶する関係』って、理解不能だよ」
光輝の口調は明るいが、よく見ると目の下のくまがひどい。初めて会ったのは三ヵ月前。そのときよりも、ずいぶん瘦せた気がする。
「吉田、どこか具合が悪いのか?」
星吾の心配をよそに、光輝は驚いたように目を丸くし、椅子を弾き倒す勢いで立ち上がった。そのまま微動だにせず、こちらの顔を食い入るように見つめてくる。
「急にどうしたんだよ?」
星吾が戸惑いを言葉に滲ませながら訊くと、光輝は拳を天に高く突き上げ、学食中に聞こえる声で「ついに苗字に昇格した!」と叫び始めた。
調理場のスタッフや数人いる学生たちの視線を集めてしまい、星吾は最悪な気分になった。
恥ずかしくて中庭のほうに顔を向けると、こちらを見ていた松原と視線がぶつかる。そのまま目をそらさず、銀縁メガネの奥から冷たい眼差しを投げてきた。
彼女は騒ぐ学生が嫌いだ。
松原はロングスカートを揺らしながら、旧図書館に続く道を歩きだした。
長身の彼女に似合う細身のデザインだった。
▶#21へつづく
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