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連載

小林由香「イノセンス」 vol.19

【連載小説】この先、あの人が自殺しないとは言い切れない。 小林由香「イノセンス」#19

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 店の裏口のドアを開けると、傘が意味をなさないような激しい雨が降り注いでいた。雨粒がアスファルトに強く打ちつけられ、水しぶきを上げている。
 上がりが三十分早かった光輝は先に帰り、星吾も日付が変わる頃、深夜番のバイトと交替した。光輝は帰り際まで、星吾の顔色が悪いと心配し、幾度も「大丈夫か」と声をかけてきた。そのたびに笑顔で「大丈夫」と答え、平静を装いながら仕事を続けた。
 どうしても光輝の前では、本心を隠そうとしてしまう。
 ビニール傘を広げ、緩慢な足取りで大通りに向かって歩き始めた。
 力仕事をしたあとのように、全身がぐったり疲れ切っている。身体だけでなく、ひどい脱力感が心を覆っていた。
 傘を持つのも面倒で、投げ捨てたい衝動に駆られる。
 鬱々とした感情を抱えたまま、ひたすら重い足を前へだす。足を動かすことだけに意識を集中した。そうしなければ立ち止まってしまう予感がしたのだ。
 深夜のせいか、大通りには大型トラックしか走っていなかった。
 ヘッドライトが雨に滲んで、ぼやけた光を放っている。
 ビニール傘を激しく叩く雨音が、やけに耳障りだった。
 横殴りの雨が服を濡らす。傘はほとんど役に立たない。それなのに、傘を手放せないのはなぜだろう。歩道の水溜りを避けることなく歩き続けた。
 靴の中に水が入り、不快な気分になる。
 子どもの頃は、雨の日にわざと靴の中に水を入れ、傘もささずに家に帰ったこともあった。風邪をひくのも気にせず、無邪気に自然と一体になれた頃が懐かしい。
 思い返せば、氷室の事件が起きる前は、世界は楽しいことで満ちていた。
 幸せだった頃に思いをせながら、駅とは逆方向の街灯の少ない歩道を進んでいく。
 突如、前方から強い光線が射し込んできた。
 星吾はおもむろに顔を上げて双眸を細めた。
 大型トラックのヘッドライトがこうこうと光を放っている。水しぶきを上げて通り過ぎていくと、また後方から次のトラックがやってくる。
 歩を止め、ヘッドライトに照らされた前方に目を凝らした。
 まっすぐ続く歩道の先に、うずくまっている人影が見えたのだ。
 脳は警告を鳴らしているのに、意思に反して足はどんどん前へ進んでいく。強い不安を感じながらも、近づこうとする足は止められなかった。
 幻のように見えた人影は、距離を縮めるにつれ現実味を帯びてくる。
 星吾はあと数歩のところで立ち止まり、雨音に搔き消されそうな声で尋ねた。
「こんなところで……なにしてるの」
 顔を上げた紗椰は、弾かれたように立ち上がった。
 大きな瞳は困惑に揺れている。怯えからか、それとも雨のせいで凍えたのかわからないが、薄い唇がわなないていた。前髪が額に張りつき、頰にはまったく血色がない。その憔悴した顔に見覚えがあった。鏡に映る自分によく似ていたのだ。
 出会った頃から不思議だった。彼女からは憎しみだけでなく、戸惑い、怒り、哀しみの感情がいつも漂っていた。
 紗椰にかかる雨を防ぐように傘を差しだすと、彼女はかぶりを振った。
「平気だから」
 そう言うと傘を軽く手で押し返し、黙ったまま目を伏せた。
 傘は誰の役にも立てず、中途半端な位置で戸惑っているようだった。
 当たり前の言葉が、星吾の口からこぼれた。
「ひどい雨だよ」
「今日、どうしても言わないといけないことがあって……」
 紗椰は絞りだすような声で言った。「あの男の人は自殺なんてしてない。勘違い……噓をついてしまったの」
 そう打ち明ける声は、自供を迫られた犯人のように震えていた。
 星吾は呆然と彼女を見つめながら口を開いた。
「でもスマホで検索したら本当に……」
「あの人じゃない」
「どういうこと」
「駅で人身事故が起きたのを知って、あの人が死んでしまったと思った。だから、あなたの発言が許せなくなった。でも、同一人物かどうか急に不安になって、さっき駅員さんに教えてもらったの」
 あの日、色白の男は駅員室に連れていかれ、必要な書類に個人情報を記入していたという。彼女が何度も頭を下げて尋ねると、人身事故の被害者は彼ではないと教えてくれたそうだ。
 動揺している彼女とは対照的に、星吾の心は急速に静まっていく。怒りは心のどこにもない。今あるのは感謝の思いだけだった。
「もしかして……それを伝えようとしてコンビニで待っていてくれたの?」
 紗椰はうなずくと、「ごめんなさい」とつぶやいた。
 星吾は行き場を失った傘を閉じた。
 全身を打つ雨は、なぜか子どもの頃のように心地いいものに感じられた。
 紗椰は顔を歪めて言葉を吐きだした。
「ひどい噓をついてしまって……」
「違う。悪いのは僕だから」
 星吾は断言した。「この先、あの人が自殺しないとは言い切れないし、あのときの言葉は、暴言だったと思う」
 泣きだしそうな彼女の顔を見ていると、心が共鳴するような不思議な感覚が走った。
「さっき吉田から……お母さんの話を聞いた。僕の言動を許せなくても当然だよ。やっぱり、ひどいことをしたと思っている」
「勝手に母の出来事と重ねて……八つ当たりみたいなことをしてしまった。それに、ひどい誤解をしていたみたいで」
「誤解?」
「光輝君から聞いたの」
 バイト中、彼にいっさい変わった様子はなかった。紗椰となにか話したような素振りも雰囲気も感じ取れなかった。いや、彼女の話をするとき、しきりに腕時計に触れていたのを思い返すと、もしかしたら動揺を隠していたのかもしれない。
 紗椰は驚くべき言葉を口にした。
「光輝君は、『星吾はとてもいい奴だ』って言っていた。あんなに優しい人間は見たことがないって」
 なにかに引き寄せられるように、星吾はコンビニを振り返った。そのまま明るい光を放つ看板をしばらく見つめていた。ゆっくり視界が滲んでいく。心を覆っていた分厚い殼が雨に打たれ、剝がれ落ちていくのを感じた。
 次の瞬間、咄嗟に身を強張らせた。
 トラックに多量の水しぶきをかけられたのだ。
 ふたりの視線が交差すると、強張っている肩が丸くなり、口もとが緩んだ。
 激しい雨の中、どちらからともなく笑い合っていた。

▶#20へつづく
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