【連載小説】就活中の自殺って、よく聞く話だよね。 小林由香「イノセンス」#18
小林由香「イノセンス」
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※本記事は連載小説です。
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恐怖心が完全に消失した星吾が、笑みを湛えながら賛同すると、男は急に怯えたような表情になり、「薄気味悪い野郎ばかり採用しやがって」と言い残し、逃げるように店を出ていった。もしかしたら、最初から人を傷つけるつもりはなかったのかもしれない。その後、店にやってきた警察から事情聴取され、大変な思いをしたが、犯人はあっけなく捕まったようだ。
光輝は気の毒そうな口調で言った。
「不採用だったのを恨むなんてかなりダサいけどさ、俺はあの包丁男の気持ちが少しわかるんだよね」
星吾は驚きを隠せず、思わず顔を見た。彼の横顔には深い憐れみの色が浮かんでいる。
しばらく間をおいてから、光輝は緊張を滲ませた声で言った。
「この前、心理学研究会の先輩が就活に失敗して自殺未遂したらしいんだ。学食でその話題になったとき、メンバーのひとりが『就活中の自殺って、よく聞く話だよね』って半笑いしていた。でも……どうしても笑えなかった。就活のこと考えるとぞっとするし、たとえうまく就職できたとしても、景気がいいときはいいけどさ、会社なんて不況になれば椅子取りゲームじゃん。上司の顔色窺って、いかに自分が有能なのかをアピールして結果をださないと生き残れない。そんな厳しい社会で生きていたら、たまに包丁男みたいなのが生まれるのかもしれない。俺は優秀じゃないからさ、なんか
光輝が心理学研究会に入会しているのを知らなかったし、こんな真面目な話を聞いたのも初めてだった。
ふたりだけの空間。なにか秘密を打ち明けられたような気がして、星吾も胸の中にしまい込んだ苦しみを吐きだしたくなる。そう思った刹那、心が
光輝は眉をひそめながら尋ねた。
「包丁を向けられてもまったく動じなかったのに、どうして学食で紗椰を見たときはあんなにも動揺したの?」
「彼女を見ていると……妙にイライラするんだ」星吾は思わず本音を吐露した。
「どうして」
「自分でもよくわからないけど……」
「俺とは逆だね。高校の頃、紗椰のことが気になっていた時期があったんだ」
光輝はいつも素直で自分の感情に正直だった。きっと、過去に一点の曇りもないのだろう。まっすぐ生きられる人間を目にすると、常になにかに怯え続けている生活に嫌気が差す。
「星吾と紗椰って、雰囲気が似ている。ふたりとも俺にはないものを持っているから好きなんだ」
最前から光輝は、しきりに自分の腕時計を触っている。緊張しているときに見せる仕草だ。バイトの初日に業務内容を教えているときも、何回も腕時計に触れていたのを覚えている。
腕時計のベルトは淡いベージュ。文字盤は澄んだ海のようなライトシアン。右上部には淡い緑色の二匹の
星吾が中学の頃、同じ塾の友だちがほしがっていた腕時計だ。当時、雑誌に載っているのを見せてもらったことがあった。数量限定のブランド品で、確かベルトと文字盤の色が選べるというものだったはずだ。
光輝は少し視線を落とすと、かすれた声で打ち明けた。
「俺の姉貴は、双子なんだ。ふたりとも優秀で、ひとりは法律事務所で弁護士をしていて、もうひとりは外資系企業で公認会計士として働いている。しかも姉貴たちは容姿端麗で……でも、俺は幼稚園の頃から身長、体重、成績もすべて普通で、特に人より秀でているものはなにもなかった。唯一自慢できるのは、友だちが多いことくらいでね。人気者っていう以外は、なにも誇れるものがないから、それだけは守ろうと必死だった。だから他人の目を気にせず、ひとりでいられる人間に
そう話す声は、どこか沈んでいるようだった。
姉たちに対して、劣等感を抱いているのだろうか──。
いつも周りから愛されている光輝しか知らなかったので、コンプレックスを抱いているなんて思いもよらなかった。接客態度はもちろん、仕事も慣れてくれば完璧にこなし、彼のネガティブな部分を見つけるほうが難しい。
光輝はどこか遠くを見つめながら唐突に話し始めた。
「紗椰、高校二年の夏休み明けから、しばらく学校に来なくなったんだ。俺は紗椰が好きだったから、チャンスだと思って電話をかけた。緊張しながら携帯電話を握りしめて連絡したら、淡々とした口調で『なに?』って返されたんだ。一時間くらい考えて用意した言葉が全部吹っ飛んじゃって、頭の中が真っ白になった。しょうがないから、素直に『どうして学校に来ないの』って尋ねたら、冷静な声で『なんのために学校に行くの』って訊き返された。すげぇ難題だと思わない?」
光輝は苦笑しながら言葉を継いだ。「偉そうに励まそうとして撃沈。自分の無能さに泣きたくなったよ。余計なことしなければよかったって後悔した」
「それから、ずっと学校には来なかったの?」
「いや、二週間後くらいに、なにもなかったかのように登校してきた。でも、それ以来気まずくて……まともに話せなくなった」
入店音が鳴り響くと、五十代くらいの白髪の男が店内に入ってきた。灰色のスーツが雨に濡れて部分的に変色している。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら、ふたりは同時に立ち上がった。
白髪の男は籠を手に、カップラーメンや弁当の棚の前を行き来していた。ときどき商品を手に取り、成分表示を確認している。
他人に無関心な星吾でも覚えているほど、よく見かける常連客だった。いつもは終電に間に合わず、タクシーで来る日が多かったが、今日は普段よりも早い帰宅のようだ。
星吾は常連客に目を配りながら、頭の隅にあった疑問を小声で訊いた。
「学校に来なくなった理由はなんだったの?」
「噂で聞いたんだけど、ひどい出来事があったみたいで……」
光輝は珍しく思案顔になり、少し言いづらそうに言葉を継いだ。「あの頃、紗椰の母親が電車に飛び込んで自殺したらしいんだ」
星吾は頰を強く張られた気がした。胸の奥が震えているような感覚がする。
彼女が駅のホームで泣いていた姿を思いだすと、やりきれない気持ちが押し寄せてきて、息苦しいほどの罪悪感に襲われた。
なぜ駅で執拗に絡んできたのか、奇妙な嫌がらせをしてきたのか得心した。
きっと、色白の男と自殺した母親の姿が重なり、星吾の暴言を許せなかったのだろう。もしも駅のホームで母親の自殺を止めてくれる人がいたら──そう夢想する日もあったはずだ。
「由紀恵さんに頼まれていたから……倉庫のチェックしてくる」
星吾はそう声を振り絞ってから、素早くレジカウンターを出てバックヤードに向かった。
うしろから「了解」という光輝の明るい声が響いてくる。
「いらっしゃいませ。今日はいつもより早いですねぇ」
光輝は白髪の男に屈託のない笑顔を向け、無駄のない動きでレジ対応をしていた。
その姿を確認してから、星吾は急いでバックヤードの中に駆け込んだ。
明かりはつけないまま顔を伏せ、しばらく足もとを睨みつけていた。呼吸をするたび、自身に対する怒りがじわじわと込み上げてくる。
紗椰の腕を強く振り払った手が微かに
フラッシュバックのように、幾度も彼女の泣きだしそうな顔が脳裏に浮かび、胸に暗い翳が広がっていく。
辛い過去を抱えながら生きている人間は、身近にもたくさんいる。それなのに自分だけが不幸だと嘆き、人に理解されない苦しみから他人を平気で傷つけるような生き方しかできなくなっていた。
震えている指で電気をつけると、覚悟を決めてパソコンの前に腰を下ろした。
なぜか氷室に会いたかった──。
目をそらさずに彼と
ぼんやり暗いモニターを眺める。罵られる覚悟はできていた。
十四歳の頃から変わらない卑怯な男を
モニターには、愚か者の顔が
▶#19へつづく
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