KADOKAWA Group
menu
menu

連載

小林由香「イノセンス」 vol.17

【連載小説】早く世界が消滅すればいいですね。僕も期待しています。 小林由香「イノセンス」#17

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
>>前話を読む

 弁当を温めている由紀恵を手伝うために、星吾はカウンターの商品を手早く袋に詰めた。彼女は小声で「自動ドアを使用するのは禁止よ」と、子どもを諭すような口調で注意してから、バックヤードのほうに歩いていく。続くようにバイトの男子校生も光輝に小声で挨拶してから店内をあとにした。ふたりとも退勤時間だったのだ。
 以前、由紀恵は大学受験を控えた息子がいると話していた。
 いつも歯に衣着せぬ物言いをする人なので、最初は気が強そうで苦手だった。けれど、あまり裏表のない人だとわかってからは、気兼ねなく自然体で接することができた。
 それから数時間ほど客足は途絶えなかったので、レジ業務をせわしなくこなし続けた。レジ業務と並行して、納品された商品を検品し、指定の場所に並べ、棚の整理を済ませる。次々に仕事を片付けていく。少しでも手を休めると落ち着かなくなるのだ。
 一連の業務をやり終えてからレジカウンターに戻ると、光輝が対応している客が最後のようだったので手伝うことにした。温めた弁当をレンジから取りだして袋に詰めていく。
 作業をしながら、窓の外にちらりと視線を走らせた。
 辺りは完全に夜闇に包まれている。それなのに、まだ近くに紗椰がいる気がして、どうしても心が落ち着かなかった。
 先ほど目にした泣きだしそうな表情が、いつまでも脳裏に焼きついていた。もうずいぶん時間が経っているのに、つかまれた腕に鈍い痛みを感じる。
 不安を押し隠しながら業務に集中してみるも、意に反して、ついつい窓の外に目がいってしまう。
「ありがとうございました!」
 光輝は客を送りだしたあと、すぐに声をかけてきた。
「裏店長がいるときに自動ドアから入るなんてマゾだよ。さっき注意されただろ」
 光輝は、由紀恵を『裏店長』と呼んでいた。
 この店は裏店長のおかげで成り立っているともよく言っていたが、星吾もそう思っている。由紀恵は近隣の学校の行事にも詳しく、運動会や遠足が近いときは、おにぎりや紙コップの発注を増やし、花粉症の時期にはマスクを多めに置くなど、季節に合わせた対応ができる貴重なパートだった。
「遅刻しそうだったから表から入ったんだ」
 星吾が適当な噓を口にすると、光輝は不満そうな声を上げた。
「遅刻ねぇ。前に冷たい口調で『クビになってもかまわない』と言っていたのは別人ですかね」
「きっと別人だよ」
 星吾は笑いながら返すと、レジカウンターの下にある丸椅子に座った。腰を下ろした途端、鉛のような疲労感が重くのしかかってくる。
 色白の男は、なぜ死にたいと思ったのだろう──。
 実際に自殺現場を目撃したわけではないのに、血まみれの男が線路に倒れている姿が鮮明な映像となり脳裏に浮かんでくる。
 自死を決断したのは、彼自身だ。自分は悪くない。それなのに、胸の中の不安がどんどん色濃くなる。
 大学の学食で顔を合わせたとき、光輝は紗椰と同じ高校だと話していた。尋ねたいことがたくさんある。けれど、彼女について知りたくて話の糸口を探したが、星吾はいつまでも切りだすことができなかった。
 紗椰との出会いは最悪だったからだ。光輝には、自分が残酷な言葉を吐いたことをどうしても知られたくない。
 そう認識した瞬間、彼女の怒りは不自然ではないと思い知らされた。
 あの朝の出来事の一部始終を話したら、いつも寛容な光輝でさえ、星吾を軽蔑するだろう。氷室を置いて逃げた少年時代から、少しも成長していない気がした。
「客もいないからさ、ボーイズトークしようよ」
 光輝は、もう一方のレジから丸椅子を引きずってくると、肩を寄せるようにして座った。
 氷室の事件後、星吾のパーソナルスペースは広くなり、人に近寄られるのも、相手に近づくのも嫌になった。それなのに、光輝に対してはなんの不安も抱かず、そばにいられるのはなぜだろう。
 彼は大学でも人気者で、いつも友人たちに囲まれて過ごしていた。コンビニに買い物に来る年配の客からも可愛がられ、「光輝ちゃんがいるからスーパーより高いけど、この店で買うのよ」と言われているのを幾度も耳にしたことがある。
「梅雨の時期ってさ、マジでテンション下がるよね。また雨が降ってきたし」
 光輝はぼんやりした口調で言うと、心配するようにこちらに目を向けてくる。
 その視線に気づかないふりをして、星吾は窓の外を眺めた。
 以前、光輝から「雨が嫌いなの?」と尋ねられたのを思いだしたのだ。視線を合わせれば、今度は「なぜ雨が嫌いなのか」、そう問われる気がして怖かった。
 自動ドアに張りつく雨粒を見ていると、あの悪夢がよみがえってくる。今にも氷室があらわれそうで、胸に気分の悪さを覚えた。
「星吾はさ、紗椰と知り合いなの? さっき、店の外で話しているのを見ちゃったんだ」
 気のせいか、光輝はなにか探るような目をしている。
 星吾は意識的に感情を抑えながら口を開いた。
「知り合いではないよ……たまに買い物に来る客だから軽く挨拶しただけ」
 この店で紗椰を見かけたことは一度もない。もしかしたら来店している可能性もあったが、まったく記憶に残っていなかった。客の顔を見るのが苦手だったため、レジに入力する性別と年齢も適当に打っていた。
 振り返れば、いつも光輝に噓をついてしまう。
 小さな噓を重ねるたび、後ろめたさで胸がいっぱいになる。罪悪感は思考を鈍らせ、相手に不信感を与える原因になる。けれど、どうしても自分を守るために噓が口からこぼれてしまうのだ。
「星吾は不思議だよね。『包丁男』に刃物を向けられても冷静だったのに、なんでもないときに挙動不審になるんだよな」
 光輝はそう言ったあと、ポケットからチョコレートを取りだしながら続けた。「あのときマジでかっこよかった」
 事件が起きたのは二ヵ月ほど前、夜の十一時半を過ぎた頃だった。
 突然、店に刃渡り二十センチほどの包丁を持った男があらわれたのだ。客は恐怖のあまり悲鳴すら上げられない様子だった。
 星吾は犯人が誰なのかすぐにわかった。
 防犯カメラが設置されているにもかかわらず、犯人は覆面をしていなかったのだ。瘦身の男は、バイトの面接に来た三十代くらいの人物。募集人数はひとり、採用されたのは光輝だった。
 不採用に腹を立てた男は、包丁を手に店に乗り込んできたのだ。
 どれだけ「店長は不在です」と丁寧に伝えても、瘦身の男は「隠しやがって」と疑いの目を向け、「この世の中はバカばっかりだ。こんなクソみたいな世界はそのうち消えてなくなる」と意味不明なことをぼやき続けていた。
 星吾は鋭い刃物を目の前に突きつけられ、最初は恐怖で足が震えた。けれど、男の話を聞いていると急に白けた気分になり、笑いが込み上げてきた。
 世界が消滅するならすればいい。すべて消えてなくなれば、どれだけ楽になれるだろう。
 光輝は銀紙を広げると、チョコレートを口に入れてから言った。
「どうして壮大な演説をこんなえないコンビニでやるんだろうなぁ。うちの店長に訴えても意味ないのに」
「たぶん、ストレスが溜まっていたんだよ」
「加害者にも優しいんだね」
 星吾は、身を隠している犯罪者のようにそっと息を潜めた。けれど、光輝は異変に気づく様子もなく、どこか遠くを見つめながら話しだした。
「あのとき、膝が震えるくらい怖かった。それなのに星吾は、『あぁ、そうですよね。早く世界が消滅すればいいですね。僕も期待しています』って、冷たい声で言うんだもん。恐怖をとおり越して感動したよ。でも、もしかして星吾は、ただのバイトじゃなくて裏社会で雇われている殺し屋なんじゃないかと思ったら、今度は違う意味で震えたけどね」
 もう逃げるという選択肢はなかっただけだ。
 客を残して逃げたら、また激しいバッシングを受けるだろう。そんな未来には、刃物で刺される痛みよりも強力な苦しみが待ち受けているかと思うと、恐怖は一気に消えせたのだ。
 氷室の事件現場で同じ感情を抱けたらどれだけよかっただろう。あの夜、瘦身の男に刃物を突きつけられながら、激しい後悔に苛まれていた。

▶#18へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年6月号

「カドブンノベル」2020年6月号


MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2024年5月号

4月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2024年6月号

5月7日 発売

怪と幽

最新号
Vol.016

4月23日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP