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連載

小林由香「イノセンス」 vol.16

【連載小説】彼女は探偵のように青年のことを監視していたのだ。なんのために? 小林由香「イノセンス」#16

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 おそらく、絵の中でも彼は生きている。
 氷室が振りかざしたのは正義ではなく、歪んだ独善だ。
 近くに置いてある鉛筆を手に取り、右目に向けて勢いよく突き刺した。激しく手が震えていたせいで、鉛筆の芯はラベンダーのつぼみを汚して砕け散った。
 さっきから耳鳴りがやまない。虫の羽音のような響きがまとわりついてくる。
 画板ごと床に叩きつけるとダブルクリップが飛び散り、画用紙がはずれた。
 憎しみに満ちた双眸が、今度はイーゼルの下から睨みつけてくる。幾度も絵を踏みつけた。足跡がつくほど何度も踏みつける。
 星吾はあざけりの笑みを浮かべながらつぶやいた。
「宝物は……まがい物……宝物はまがい物……」
 祖父は縁側で日向ぼっこをしている最中に死んだ、そう母から聞いた。亡くなったとき、やせ細った手には、四つに折りたたまれた紙が握りしめられていたそうだ。
 その紙には、筆ペンで『いつまでも宝物だ』と書いてあったという。
 通夜のとき、母が「あの紙に書かれていた言葉はなんだったのか」と、親族に尋ねているのを耳にした。弟は暗い雰囲気を搔き消すように、「じいちゃんは、どこかに財宝を隠しているのかも」、そう言ってたちと盛り上がっていた。
 星吾はそっと部屋をあとにし、もつれる足取りで二階の自室に駆け込んだ。
 心療内科からの帰り道、祖父は真剣な面持ちで言ってくれた。「これだけは忘れないでくれ。星吾はじいちゃんの大切な宝物だからな」、その言葉を思いだし、声を殺して泣いた。
 遺品整理のとき、祖父の部屋からあるものが発見された。丁寧に青いリボンをかけ、綺麗にラッピングされたプレゼント。包装紙を広げると油絵具のセットだった。
 数週間後は、星吾の誕生日。きっと、祖父はプレゼントにメッセージを添えて贈るつもりだったのだろう。あの言葉は、孫に向けて書いた最期のメッセージだったのだ。
 けれど、家族や親戚には伝えられなかった。忌み嫌われる存在だと罵られるなら理解できるが、宝物は自分のことだ、とは口が裂けても言えなかった。
 親戚も露骨に言葉にはしないが、事件のことを知っている。
 父が電話口で「お前らにも迷惑かけてしまって悪いな」と謝っている姿を何度か見かけた。電話の口調から、相手は父の兄妹だろうと思った。
 以前、従兄弟たちは「セイちゃん、ゲームしよう」と無邪気に寄ってきた。それなのに今は弟にしか寄りつかなくなった。は、祖父の死因について「心労がたたって急死したのではないか」と話していた。
 もしかしたら悪気はなかったのかもしれないが、星吾は激しい罪悪感から叔母と目を合わせられなくなり、唇が震えてうまく言葉が出なくなった。
 あの日、静寂に包まれた自室には泣き声と雨音だけが響いていた。

 休み時間のたびに研究室に寄ってみたが、宇佐美には会えず、午後の講義はまったく頭に入らなかった。少しでも気を抜くと、紗椰のことが頭に浮かんできて、謎だらけの暗闇に引きずり込まれてしまいそうになる。
 不可解なことばかりだったが、ひとつだけ明確なことがあった。
 彼女は、定期券を落とした白杖の女性や横断歩道で泣いていた少年を無視したことを知っていた。単なる偶然だとは思えない。どこかで探偵のように監視していたのだ。
 なんのために?
 考えを巡らすほど、疑問が増えていく。口から深い溜息がもれた。
 電車が最寄り駅に着いたのは、夜の六時半を回った頃だった。
 星吾はホームに降りると、人混みに流されるようにして、改札に続く階段に向かっていく。鞄から定期券を取りだす指が少し強張っていた。
 ふいに、誰かに名を呼ばれた気がして、足を止めた。急に立ち止まったせいで、肩にぶつかってきた人に舌打ちされ、気持ちが萎縮してしまう。
 通行人にぶつからないように脇にそれてから、ホームに目を走らせた。
 辺りがほのぐらくなっていく錯覚に襲われると、「死んだみたいよ」という紗椰の声が耳の奥で繰り返し再生された。
 不気味な声を振り払うように歩きだし、一気に階段を駆け上がった。うしろから誰かに追われているような奇妙な気分になる。
 すべては宿命なのだろうか。いや、生まれる前から決まっているあらがえない宿命ではなく、誰かに仕組まれているような気がする。悪意に満ちた誰かのてのひらの上で踊らされ、望みどおりに悪いほうへとちていくのが不甲斐なくて、情けない気持ちになる。
 まるで氷室に手招きされているようだった。
 ──こっちの世界へ来い。もっと苦しんでから、お前も同じようにこっちへ来い、こっちへ来い。
 急ぎ足で改札を抜け、駅を出ると、放置自転車が何台もドミノのように倒れていた。それを横目で見ながら大通り沿いの歩道を足早に進んでいく。
 夏の日暮れは遅いのに、辺りはすでに薄暗かった。仰ぎ見た空は、雨雲に覆われている。また雨が降りだすのかもしれない。
 無心になり、ひたすら歩を進めていく。いつも安らぎを与えてくれるコンビニの看板を一刻も早く目にしたかった。
 光輝の顔を見れば、少しは明るい気持ちになれる気がした。もしかしたら、安らぐ気持ちにさせてくれるのは看板ではなく、彼の存在なのかもしれない。
 初めは無邪気にまとわりついてくる子どものようで鬱陶しかったが、今では光輝とバイトが重なる日は心が高揚していた。
 けれど、湧き上がる高揚感は一瞬にして霧散した。
 コンビニの駐車場に入ったとき、建物の隅に人影が見えたのだ。
 バイト先に嫌な噂を広めるために来たのだろうか──。
 関わらないでほしいと伝えたのに、自動ドアの横に紗椰が佇んでいた。
 彼女の姿を目にした途端、じわじわと悔しさが湧いてくる。
 星吾は拳を固く握りしめた。またバイトを辞めなければならないのか。こんなことを何回繰り返すのだろう。もう彼女の姿も見たくない、声も聞きたくないという激しい不快感が押し寄せてくる。
 自動ドアだけを視界に入れて歩きだすと、気づいた紗椰がこちらに素早く駆け寄ってきた。
「少しだけ話す時間をもらえない?」
 無視して歩き続ける星吾の腕を、紗椰は強引に両手でつかんでくる。細い腕を振り払ったが、彼女はなおも強くつかみ、訴えるような眼差しを向けてきた。
 星吾は怒鳴りつけてやりたい衝動を抑えながら口を開いた。
「大学やバイト先に悪い噂を流して、嫌がらせをしたいならすればいい」
 紗椰は虚を衝かれたような顔をした。
「嫌がらせって……私は……」
 ストーカーのように目の前にあらわれるくせに、今にも泣きだしそうな表情で言葉をつまらせる姿が無性に腹立たしくてたまらなかった。
 彼女の手を乱暴に振り払うと、星吾は自動ドアから店内に駆け込んだ。
 従業員は裏口を使用する決まりだったが、建物の裏手まで遠回りしていたら、どこまでも追い駆けてくる気がして怖かったのだ。
 店に入れば、光輝やバイト仲間がいる。おかしなはできないだろう。
 普段よりも客は多く、店員はそれぞれ慌ただしく商品を袋に詰めていた。奥のレジカウンターには光輝と男子高生のバイトがいる。
 手前のレジカウンターにいる四十代のパートのが「いらっしゃいませ」と挨拶してから顔をしかめた。店内に入ってきたのが星吾だと気づくと、苦い顔でこちらに鋭い視線を投げてくる。
 不吉な予感が頭をかすめ、不安が膨らんでいく。
 自動ドアを利用したのが気に入らないのか、それとも悪い噂を耳にしたからなのか判然としないが、由紀恵は明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
 星吾が振り返って店の外を確認すると、紗椰の姿はどこにもなかった。
 ドリンクケースのうしろにあるバックヤードに駆け込む。タイムカードを押し、制服に着替えてから急いでレジカウンターに向かった。

▶#17へつづく
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