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連載

小林由香「イノセンス」 vol.15

【連載小説】自分が死ねば、家族は胸を張れる気がした。 小林由香「イノセンス」#15

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 逃げるように館外に出ると、もう雨はやんでいた。外の空気に触れると、徐々に心が静まっていく。
 微かに聞こえる遠雷の音を耳にしながら、星吾は迷いない足取りでB棟に向かった。
 エントランスを抜け、エレベーターに乗り込み、四階で降りる。
 美術室に続く長い廊下を足早に歩きながら、紗椰に関する断片的な情報を整理しようと試みるも、やはり不審な言動の根源がどこにあるか判然としなかった。
 なぜあんなにも他人の感情を知りたいと思うのか──まったく真意がつかめない。
 冷静になり、考えられる可能性を絞っていく。
 色白の男と彼女には、強いつながりはないような気がした。もしも、ふたりが親密な関係ならば、男が自殺しようとしたあの朝、彼のあとをすぐに追いかけたはずだ。
 胸がどきりとして、足を止めた。
 もしかしたら氷室の関係者なのかもしれない。そう考えれば、しつように追いつめてくるのも納得がいく。バイト先に嫌がらせの電話をかけて、ネットに悪意に満ちた言葉を書き込んだのも紗椰だとしたら。窓に貼られた脅迫文、デッサン画の落書き──。
 画集が落ちてきたときの恐怖がよみがえってくる。
 偶然ではなく彼女の犯行ならば、憎悪の深さは計り知れない。けれど、妙な違和感が残った。
 匿名で嫌がらせをしている人間が、実際に姿をあらわして関わってくるだろうか。
 そこまで考えを巡らしたあと、ひどい徒労感に襲われた。
 答えのない自問を繰り返しても意味はない。真実を知りたいなら彼女と相対するしかないのだ。
 美術室のドアを目前にして、しばらく逡巡してから方向転換し、星吾は廊下を駆けだした。
 宇佐美の研究室のドアを祈るようにノックする。いつもよりもドアを叩く手に力がこもってしまう。何度も執拗にノックした。けれど、どれだけ待っても間の抜けた「ほぉーい」という返事は聞こえてこなかった。
 ドアの前にたたずんだまま、無意味な時間ばかりが過ぎていく。
 なぜか見捨てられた気分になった。迷子になった幼子のように急に心細くなり、どこに行けばいいのかわからなくなる。
 自らの意思でなにかを選択すれば、必ず失敗しそうで恐ろしかった。己の決断ほど信じられないものはない。だから誰かに相談し、冷静に身の振り方を考えたかったのだ。
 先生は講義中なのだろうか、いつ戻ってくるのだろう。
 星吾は驚くほどがっかりしていることに気づいた。心が乱れてどうしようもないとき、宇佐美に会いたくなる。
 ──あのときどうすべきだったのか、ゆっくり考え続けてほしい。
 唐突に、刑事の言葉がよみがえってくる。
「また、なにか失敗してしまったのだろうか」
 思わず声にだしてつぶやいていた。
 どうすれば正しい生き方ができるのか──。
 人を信じれば裏切られ、友だちがほしいと願えば壊され、未来に希望を見出せば潰される。そんな状況でも他人に優しく前向きに生きろというのなら、誰かやり方を教えてほしい。本当に学びたいのは、今ある苦しみから解放される方法だ。けれど、それを教えてくれるテキストも学べる場所もどこにもなかった。
 氷室の事件以来、いつも答えの存在しない間違い探しをしているようで、うんざりした気分になってくる。
 なにか気配を感じて廊下を確認してみたが、辺りに人影は見当たらなかった。
 首筋の汗を手の甲で拭う。全身が汗まみれになっていた。
 星吾は廊下を足早に進み、美術室に駆け込んだ。素早くうしろ手にドアを閉めてから、教室の中をゆっくり見回す。
 見慣れた光景に包まれると、胸の鼓動が少しずつ静まっていくのを感じた。
 色白の男は、本当に自殺したのだろうか?
 冷静になると、紗椰の言葉をみにしていたことに気づいた。
 ただの嫌がらせの可能性もある。鞄からスマホを取りだしてブラウザを立ち上げ、人身事故について検索した。指が強張り、スムーズに動いてくれない。
 目の周りが熱くなり、まばたきを繰り返した。
 たしかに、通学で利用している沿線で人身事故があったようだ。昨日は大学が休みだったため、電車の運行状況を気にかけていなかった。
 リアルタイム検索をして昨日のSNSを確認すると、遅延の不満を書き込んでいる乗客が多数いた。震える指で、もっと詳しい事故の情報を検索していく。
 鉄道人身事故について掲載しているサイトを発見した。
 昨日の午後七時二十分頃、四十代の男性が急行列車にはねられ死亡。電車が駅を通過する際、ホームから線路内に飛び込んだという内容が記されている。
 四十代の男性。年齢も性別も一致している。しかも、人身事故は家の最寄り駅で起きていた。
 もしも、あの日の朝の自分の暴言をネット上に公表されたら──。
 強い恐怖を感じた瞬間、痛々しい記憶が呼び覚まされた。
 あれは、たしか高校二年の秋だ──。
 警察に助けを求めても、しばらくはネットでの悪口は衰えなかった。匿名掲示板に個人情報を晒され、家のドアに『救えたはずの命。殺人と同等』とスプレーで落書きされ、掲示板にも同じ言葉がいくつも躍っていた。
 大手家電メーカーの総務課長だった父は、春の人事異動で工場勤務になった。悪意のある電話やメールが父の会社に届くようになったのだ。
 けれど、家族は誰ひとりとして星吾を責めなかった。
 近隣住民の間に悪い噂が流れているのに、祖父も母もいつも堂々としていた。弟の俊樹は極端に口数が減ったが、兄の前では明るく振る舞ってくれた。
 これが家族の絆というものならば、あまりにも残酷だと感じた。血のつながりという言葉に縛られ、なにもかも我慢しなければならないのなら、すぐに縁を切ってあげたい──。
 ドアに落書きされた夜、星吾は家族が寝静まるのを待って、こっそり家を抜けだした。公園の木の枝にロープをかけて首を吊って死のうと思ったのだ。
 助けてくれた人を置き去りにした卑怯者が、ネットで過去の罪を責め立てられ、悪行を償えと追いつめられたから死のうと決心したわけではない。
 そんなものでは簡単に死を決意できなかった。
 暗闇の世界へ背中を押したのは、家族の笑顔──。
 自分が死ねば、家族は胸を張れる気がした。「あの子は、亡くなった氷室さんのことを思い、自責の念に駆られ、自ら命を絶ったのです。どうぞ許してやってください」、そう伝えれば世間は攻撃の手を緩め、残された家族に同情してくれるのではないかと胸が高鳴った。
 死ぬのは怖い。けれど、そこに明確な意味を見いだせれば、恐怖心は驚くほど薄らいでいった。
 家族が微笑む姿を想像しながら首を吊っている途中、重みにたえられなかったのか、枝がぽきりと折れた。最後まで不運に見舞われ、どうしようもない惨めさが込み上げくる。
 地面に強く打ちつけられたとき、もやがかかっていた頭に誰かの泣き顔がぼんやり浮かんだ。
 それは祖父だった。祖父は顔の皺を深くしてむせび泣いていた。
 闇夜にひとり、激しいせきをしながら土下座をしてえつをもらした。
 それ以来、二度目には挑戦できなかった。
 星吾はイーゼルの前まで行くと、画板をゆっくり持ち上げた。画板にはダブルクリップで画用紙が留めてある。
 数日前に描いた絵を呆然と眺めた。誰かにラベンダーのデッサン画を汚されてから、どうしても描きたくなった絵があったのだ。
 それは、氷室の双眸だ。ラベンダーの隙間から、血走ったふたつの目がこちらを見ている。どうして彼を描きたくなったのかわからない。けれど、なにかにき立てられ、描かずにいられなかった。
 あの恐ろしい目を絵の中に閉じ込めたかったのかもしれない。もう二度と現実の世界にあらわれないようにと願いながら──。
 画用紙に描かれた双眸を眺めていると、左目がすっと細くなった気がして身体の芯が凍った。

▶#16へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


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