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連載

小林由香「イノセンス」 vol.14

【連載小説】あの人、死んだみたいよ。あなたの望み通り夜に電車に飛び込んで自殺したみたい。 小林由香「イノセンス」#14

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 ぎこちない動きで足もとに視線を落とすと、巨大な画集が転がっていた。三十センチ四方ほどの分厚くて重量のある画集──。
 星吾は咄嗟に立ち上がると、緩慢な動きで首をそらし、背の高い書架を見上げた。
 すべての書籍がきちんと並んでいる。もう一度、確認するように床の画集に目を向けると、鼓動が俄に速まるのを感じた。
 もし頭を直撃していたら強い衝撃を受け、脳震盪を起こしていた可能性もある。この画集は、どこに置いてあったのだろう。書架にしっかり収まっていなかったのか──。
 雨音はさらに強まり、雷もまだ近くを彷徨さまよっている様子だった。
 ゆっくり顔を上げたとき、妙な胸騒ぎを覚えた。
 薄暗い館内に人影が見えたのだ。
 確信に近い予感を覚え、衝動的に駆けだすと、ちょうど書庫から出たところで足を止めた。
 背筋がすっと寒くなる。
 そこには、ひとりの女が立っていた。彼女の目に警戒の色が宿る。
 ふたりは視線がぶつかったまま、なにも言葉にできず、互いの顔を見つめて立ち尽くしていた。重苦しい沈黙が立ち込める。
 目の前にいる紗椰は、不自然なほど身動きひとつしない。白いカットソーに細身のジーンズ姿。まるで閉店後のマネキンのようだ。とどろく雷鳴が恐怖心をいっそう募らせる。先ほどから心臓が早鐘を打っていた。
 紗椰は、唇の端をつりあげてから言葉を吐きだした。
「おめでとう。願いがかなってよかったね」
 星吾は意味がつかめず眉根を寄せると、彼女は薄い笑みをこぼした。
「あの人、死んだみたいよ」
「あの人って……」
「駅で死のうとしていた男性。あなたの望みどおり、夜に電車に飛び込んで自殺したみたい」
 室内が一層暗くなった気がした。現実感に乏しいため、悪夢を見ているような心境だった。
 死んだと聞かされた途端に、男の存在が色濃くなってくる。
 瘦せこけた頰、血の気のない顔、よれた灰色のスーツ、気味の悪い微笑。じりじりとホームの際にすり寄っていく男の姿が脳裏に浮かび上がり、背に冷たい汗が流れた。
 ──そんなに死にたいなら、夜にやってよ。朝やられると迷惑なんだ。
 聞き慣れた自分の声が、耳の奥で何度もこだましている。
 その声を振り払うように、星吾は強い口調で言った。
「だからなに?」
「そんな生き方しかできなくて後悔しないの」
「生き方? 僕のなにを知ってるっていうの?」
 学食で目にした朗らかな表情とは違い、紗椰の顔にはなんの感情も見受けられない。
 彼女は淡々とした口調で驚く言葉を口にした。
はくじようを持っていた女性が定期を落としたのに、なぜ拾ってあげなかったの? 横断歩道で子どもが転んだとき、どうして助けてあげなかったの?」
 星吾は不安と憤りで息がつまり、言葉がうまく発せられなかった。ひどく頭が混乱してくる。
 すべて身に覚えがある出来事だったのだ。
 数日前、目の悪い女性が定期券を落とした際、気づかないふりをして横を通り過ぎた。横断歩道で転倒し、泣いていた小学生を無視したこともあった。
「あの人たちと僕はなんの関係もない。だから助ける必要も義務もない」
 知らないうちに、誰かに自分の行動を観察されていたと思うと気味が悪くなる。
 紗椰は戸惑いを言葉に滲ませながら言った。
「義務はなくても、普通は心配になるはずよ」
「自分の価値観を押し付けないでほしい。知らない人には関わらない主義なんだ」
「立派な主義ね」
「なにが言いたいんだよ」
 彼女は唇に笑みを刻んでいる。まるで軽蔑しているような表情だった。
 その場違いな表情を目にした瞬間、ある疑念が湧き上がってきた。
 なぜ他人の死をわざわざ知らせに来るのだろう。純粋な正義感? それとも、なにか嫌がらせをしたいのか──。
 めまぐるしく頭を回転させ、浮かんだ考えを整理してみるも、彼女の意図がまったくつかめない。
 突然、室内がぱっと明るくなり、軽い目眩を覚えた。
 どうやら停電は解消されたようだが、窓の外はどんよりと薄暗く、まだ小雨が降り続いていた。遠雷の音が微かに聞こえてくる。
「あのとき『夜に死ね』って言ったのを後悔してる?」
 紗椰の追いつめるような口調に嫌悪感を覚えたが、星吾はなにか言い返そうにも言葉にならなかった。
「ねぇ、どんな気分?」
 その幼子のような無邪気な問いかけに、戸惑いと同時に強い苛立ちが込み上げてくる。
 星吾は一呼吸置いてから弁明した。
「死を選択したのは彼自身だ」
「でも、あなたの言葉に傷ついた可能性はある」
「僕に恨みでもあるの」
「恨みなんてない。ただ知りたいだけ」
「知りたい? こっちは、あんたと関わり合いたくない」
「安心した。あなたにも人並みの感情があるのね」
 とげのある言葉を投げつけられ、自分でも驚くほど頭に血がのぼっていることに気づいた。それを隠すように、星吾はできるだけ冷静を装いながら答えた。
「残念ながら感情はあるみたいだ」
 紗椰は憐れむような目を向けたあと、今度は内に秘めた想いを探るように問いかけてくる。
「哀しい? 苦しい? それとも辛い?」
 まるで愉快なゲームをしているかのように、彼女は少し頰を紅潮させて瞳を輝かせていた。
 不安が心に宿る。憤りだけでなく、薄気味悪さを感じた。
 学食にいたときは、いたって普通の学生に見えたが、マトモな人間ではないのかもしれない。本能的に深入りしないほうがいいと判断し、星吾は鞄が置いてある場所まで歩を進めた。
「後悔しているかどうかだけ教えて」
 彼女はそう言うと、うしろから強く腕をつかんできた。
 皮膚に指が食い込む感触が走り、反射的に振り返ると、紗椰はものじすることなく堂々と挑戦的な眼差しを投げてくる。答えなければ、永遠に追いかけてきそうな執念のようなものを感じてぞっとした。
 星吾は視線を正面から受け止め、重い口を動かした。
「自分の失言を悔やんでる。これで満足? 人を追いつめて、なにが楽しいんだよ」
「追いつめたいわけじゃない」
「矛盾だらけだ」
「ただ……あなたの気持ちを知りたいの」
 紗椰は今にも泣きだしそうだった。まるで心配していると言わんばかりの表情だ。
 他人の心を平気で傷つけてくるくせに、言葉とはちぐはぐな表情を覗かせるのが腹立たしい。支離滅裂でまともに会話が成立しない不気味さを感じた。
 なにが目的か訊けば、「気持ちが知りたい」と答える。もう限界だった。
「あんたがしているのは嫌がらせだ」
 星吾はそう吐き捨てると、鞄を乱暴につかんで足早に歩きだした。
 一刻も早くこの場から逃げだしたい。いつもとは違い、閑散としている館内が恐ろしく感じられる。
 扉に向かって歩いているとき、カウンターにいる松原と目が合った。
 一瞬、安堵を覚えたが、松原はどこかさげすむような表情ですぐに視線をそらした。司書にまで軽蔑されているような気がして、闇雲に不安は増大していく。
 また嫌な出来事が始まろうとしているような不穏な予感に駆られた。

▶#15へつづく
◎『イノセンス』全文は「カドブンノベル」2020年6月号でお楽しみいただけます!


全文は「カドブンノベル」2020年6月号

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