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連載

小林由香「イノセンス」 vol.13

【連載小説】重い画集が落ちてきた。まるで、頭部を狙ったかのように――。 小林由香「イノセンス」#13

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 いくら顔が広いとはいえ、どうして光輝がそこまで知っているのか疑問が湧いた。
 彼女はまた楽しそうに声をあげて笑っている。外見はまったく同じなのに、駅のホームで会ったときと、あまりにも印象が違う。あのときは特殊な状況だったが、全体的に陰気な雰囲気を宿していた。
 星吾は動揺を悟られないように尋ねた。
「彼女も経済学部?」
「紗椰は……たしか教育学部」
 B棟は教育学部の講義棟だ。やっぱり、あのとき目にしたのは彼女だったのだ。講義の時間に遅れて急いでいたのかもしれない。
 光輝は探るような目で訊いた。
「紗椰みたいな子がタイプなんだ」
「違うよ」
「気になってるんじゃないの?」
「そうじゃなくて……」
 言葉が続かない。どう説明すればいいのかわからず、しばらくしゆんじゆんした。
「紗椰とは同じ高校で、高二からクラスも一緒だったんだ。この大学の近くにある高校だよ。顔はわいいけど、なんか難しくてね」
 光輝の口調は、どこか誇らしげだった。
「難しいって?」
「仲のいいクラスメイトたちと夏休みにキャンプに行く約束も、門限があるから行けないって断られたし。高校の頃はかなりノリが悪かったのに、大学に入った途端、武本と付き合いだしたみたいで、かなりびっくりしたよ」
「武本って人も同じ高校だったの?」
「あいつも同じ。紗椰と武本は幼馴染なんだよね」
 光輝は身を乗りだすと、声量を少し落とした。「武本のおやはすげぇ金持ちなんだ。まだ学生の身分なのに、パパに買ってもらった外車で優雅に通学。女子には人気があるみたいだけど、俺はそんな男、絶対信用しないね」
「黒川さんは、偽善的な性格なの?」
 光輝は「偽善的?」と少し首をかしげたので、別の言い方で尋ねた。
「正義感が強いタイプ?」
「よくわからないけど、けっこう気が強いっていうか、しっかりしてる感じかな……」
 白百合の花束を抱え、目に涙を浮かべていた彼女の姿──。
 あの日から、どうしても違和感を拭えないままでいた。
「どうしたんだよ。紗椰となにかあったの?」
「なにもないけど……どんな性格なのか気になったんだ」
「高校のときはちょっと異質だった。同調圧力に屈しないっていうのかな、いつもひとりで行動していて、できるだけ人と深く関わらないようにしているっていうか……だから紗椰を嫌っているクラスメイトもいたけどね」
 先ほど目にした明るい姿を思い返すと、ますます混乱が深くなる。
 その気持ちを察したのか、光輝は微笑を湛えながら言った。
「高校を卒業してから変わったのかも。まぁ、悩みがあったらいつでも相談してよね。頼りになる心の友に」
 学生たちの笑い声がまた響いてくる。
 改めて紗椰に目を向けると、彼女の笑顔はひどく強張っているように映った。

 大学の中庭を左右に切り裂くように、レンガ敷きの遊歩道が延びている。まっすぐ続く遊歩道の先には、赤茶色の古い洋館のような建物があった。
 そこは旧図書館。数年前、新図書館の建設計画が持ち上がり、去年の夏にしゆんこうしたばかりだ。
 書籍のほとんどが新図書館へ移動し、旧図書館には大型本や学術書、絶版になった本などが残された。
 旧図書館はとても古く、併設されているトイレには幽霊が出るという噂がささやかれている。閉館作業のとき、司書が個室トイレを確認すると、ドアが閉まっていることがあったらしい。誰かが使用しているのかと思い、声をかけてみるも返事はなく、しばらく待つと、ゆるりとドアが開くそうだ。恐る恐る中を確認してみても、誰もいないという。
 学生の間で噂になっている怪談話のひとつだった。
 旧図書館は講義棟から少し距離があるため、利用する学生が少なく、いつ訪れても閑散としていた。静寂に包まれた空間、木造建築物の落ち着いた雰囲気、明るすぎない照明、そのすべてが心を落ち着かせてくれる。
 アーチ状の扉を抜けて館内に入ると、すぐ右側に受付カウンターが設置されていて、そこに司書のまつばらが座っている。
 彼女はこちらをいちべつしたあと、また手もとの本に視線を落とした。
 銀縁メガネをかけた松原は二十代半ばくらいで、いつも無愛想で必要なこと以外は話さない人物だった。目鼻立ちの整ったれいな顔立ちが、彼女の冷たさを一層際立たせている。
 愛想がないので、学生たちからの評判はかなり悪かった。そのせいで、彼女は旧図書館に残されたのではないか、そう噂する者もいる。けれど星吾にとっては、この寡黙な司書の存在も居心地のいい理由のひとつだった。
 いちばん奥の四人掛けの机は、お気に入りの場所だ。利用者が少ないので大抵はそこに座れた。
 ふと、嫌な予感がして窓に視線を移すと、雨粒が張り付いている。透明な虫が並んでいるように見えて、ぞわっと鳥肌が立った。
 数分後には激しい雨が降りだしてきた。叩きつけるような雨音は、いつも威圧的なものに感じられて恐ろしくなってくる。
 空全体にせんこうが走り、遠くで雷鳴が響いた。
 椅子に鞄を置くと、星吾は陰鬱な気持ちを抱えながら絵画全集が並んでいる書架に向かった。利用者が少ないせいか、少しだけほこりっぽい臭いが漂ってくる。
 そっと手を伸ばし、フランスの画家の画集を取りだした。確認したいことがあったのだ。どんどんページをめくっていく。
 大きな画集だったので、片手で支えるのが辛くなり、近くにある脚立の上に腰を下ろした。
 画集には、バレリーナの絵がたくさん載っている。ほとんどが、ステージ上で脚光を浴びている踊り子の姿ではなかった。厳しい練習に疲れ果て、ぐったり地面に座り込んでいる少女たちが描かれている。酷使しているせいか、足の指先に血が滲んでいた。ステージ上で輝いている姿よりも、裏にある翳の部分を愛した画家だったのかもしれない。
 雷が近づいてきているのか、先ほどよりも大きな雷鳴が鼓膜を震わせる。
 星吾はページを捲っていた手を止め、少女の絵をしばらく眺めた。ぼんやり見つめていると、徐々に紗椰の姿と重なっていく。このモデルは、彼女なのではないかと思うほど酷似していたのだ。
 描かれている少女は後ろ姿だったが、長い黒髪や線の細いきやしやな肩、醸しだす雰囲気がそっくりだった。
 駅のホームで初めて会ったとき、どこか見覚えがあるような気がしたのは、この絵の記憶が残っていたからかもしれない──。
 強烈な稲妻がし込み、室内を明るく染める。その直後、地面を震わせるほどの大きな雷鳴がとどろいた。
 近くの電柱にでも落雷したのか、すべての照明が消え、館内が一気に暗くなる。
 停電した室内に再び閃光が走り、数秒後には激しい雷の音がさくれつした。
 星吾は身を強張らせた。
 頭上からなにかが落ちてきたと知覚したときには、辺りに大きな衝撃音が響いていた。
 一瞬にして顔から血の気が引き、思考が凍りつく。

▶#14へつづく
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