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連載

小林由香「イノセンス」 vol.12

【連載小説】学習性無力感に陥った子どもに、学習意欲を持たせる方法を答えなさい。 小林由香「イノセンス」#12

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 大学の構内にある学食は、半年前に有名な建築デザイナーによって改装されたばかりだった。以前は長机と椅子が並ぶ簡素なつくりで、学生たちからの評判はとても悪かった。少子化が深刻化しているのを考慮し、大学の維持発展のためにも改装に踏み切ったようだ。
 今は高級ホテルのラウンジのように、洗練された照明の下に絵画が飾られている。他の学生には評判がいいが、ひとりで食事をする星吾には、以前の庶民的な雰囲気のほうが利用しやすかった。
 学食の一面はガラス張りで、そこから広い中庭が見渡せる。初夏の陽光が、青々と茂った芝生に降り注いでいた。
 つかの間、星吾は穏やかな気分に満たされたが、それもすぐに耳障りな笑い声に搔き消された。反射的に目を向けると、隣のテーブルの学生たちが映画の話題で盛り上がっている。
 なにげなく周囲に目を配ると、ひとりで食事をしている者はいなかった。大学生になっても、友だちがいないのは恥ずかしいという空気は残っている。友人のいない学生は、食事の時間が苦痛で空いている教室やトイレで食べる者もいるらしいが、星吾はそこまでする気にはなれなかった。
 日替わり定食についているポテトサラダに箸を伸ばしたとき、室内が微かに暗くなった。心なしか、みんなの話し声も小さくなる。
 窓に視線を移すと、灰色の雲が太陽を覆い隠していた。
 雨雲はいつも心を暗く沈ませ、不吉な予感を連れてくる。まるで条件反射だ。雨が降りだせば、また嫌な出来事が起きるのではないかと身構えてしまう。
 星吾は早く食事を済ませようと懸命に箸を動かした。少し胃のむかつきを感じる。
 バイト中に見た悪夢のせいで、あれから心身の疲れがとれない。もう二日前の出来事なのに、まだ鮮明に記憶に残っていた。思い返すたび、夢ではなく、本当に境界線の向こうから亡者があらわれたのではないかと錯覚してしまいそうになる。
 痛み始めたこめかみを指で押さえた。
 すべて忘却したいのに、足首をつかまれたときの嫌な感触をいつまでも消し去れなかった。気を抜くと生ぬるい体温がよみがえり、恐怖が足もとから這いのぼってくる。
 どうして氷室の夢だけは、こんなにも鮮明なのだろう。
「この前はありがとう」
 明るい声に、星吾は弾かれたように顔を上げた。
 テーブルの向かいに、笑顔の光輝が立っている。手にあるトレイには、オムライスとサラダ、紙パックのアイスカフェオレがふたつ置いてある。まるで約束でもしていたかのように、彼は正面の席に座った。
 星吾は思わず周囲を確認してしまう。嫌われ者の自分と同じテーブルに座れば、彼も白い目で見られるのではないかと不安になったのだ。
「これは、お礼」
 光輝は柔らかい笑みを浮かべ、紙パックのカフェオレを差しだしながら言った。
 星吾は軽く頭を下げてから受け取ると、呆然とカフェオレを眺めた。
 ふいに、ある疑問がよぎった。
 何気ない会話の中で、ブラックコーヒーが苦手だと言ったのを覚えていてくれたのだろうか──。
 光輝に信頼を寄せ始めているのは、こんな優しさがあるからだ。もうひとつ自分の本心に気づいた。ひとりで食事をするのは慣れていると思い込んでいたが、それは強がりだったのかもしれない。光輝と一緒にいると張りつめた緊張感が和らぎ、学食にいる時間が急に苦痛ではなくなってくる。
 そう思った直後、胸に奇妙な恐怖心が生まれた。
 友人の多い光輝が、星吾の悪い噂を耳にするのは時間の問題だ。胸の中に「嫌われたくない」という切実な感情が芽生えた。だからこそ、こんなにも恐怖のようなせきりよう感に苛まれるのだ。
「ちょっと顔色が悪いみたいだけど大丈夫?」
 光輝は心配と不安が入り混じったような表情で訊いた。
「ただの寝不足だから大丈夫。そういえば、あれから彼女には会えた?」
 星吾が咄嗟に話をそらすと、光輝の表情が少し翳ったように見えた。
 申し訳ない気持ちになってくる。星吾はしつけな質問をしてしまった気がして、すぐに後悔に襲われた。
「あの夜、終電には間に合ったけど……結果は微妙だった」
 光輝はそれ以上話したくないのか、今度は彼が話題を変えた。
「最近ついてないんだ。二限目は『心理学基礎』の試験だったんだけど、ちゃんと講義内容を覚えていったのに問題が一問だけで焦ったよ」
 星吾も一年のときに選択科目で同じ講義を受講した。今は試験期間ではないが、心理学基礎の教授は、前期後期の試験を行わずに月一で小テストを実施する人だった。
「どんな問題?」
「学習性無力感に陥った子どもに、もう一度、学習意欲を持たせる方法を答えなさい」
「なんて解答したの?」
「それは……『そんなの無理』って書いた」
 どこまで正直者なのだろうと苦笑しながら、星吾はもらったカフェオレを飲んだ。
「でも、単位を落としたくないから、そいつが信頼できる親友に助けてもらえばいい、って追記しておいた。だってさ、自分ではもうどうにもならないと思い込んでいるなら、誰か他の人間が導いてやるしかないよね」
 光輝はオムライスを口いっぱいに詰め込んでから続けた。「たとえ、相手を救える方法を知っていたとしても、根気よく関わってくれるのは親友以外いないだろ」
 星吾はいつも気遣ってくれた祖父を思い浮かべ、思わず尋ねた。
「家族は?」
 光輝はオムライスを切り裂くようにスプーンを突き刺してから答えた。
「あの問題の前提が、親に否定され続けた子どもだったから、それは書けなかった」
 そう話す声は、どこか沈んでいるようだった。
 光輝の暗い表情が気になったが、甲高い笑い声に気を取られ、騒いでいる学生たちに目を向けた。窓際のテーブル席だ。
 男子学生がふざけて教授のモノマネをしている。それを見ている女子学生たちが手を叩いて笑っていた。
 よくある光景なのに目が離せなくなり、緊張で身体が強張ってくる。
 笑っているグループの中に、駅のホームで会った女の姿があったのだ。本当に同一人物なのだろうかと思うほど、朗らかな表情をつくっている。
 女と目が合いそうになり、慌てて顔を伏せた。
 B棟で見かけた人物は、やはり彼女だったのだろう。
「星吾、どうした?」
 その声に我に返り、すぐに尋ねた。
「あの窓際のテーブルの白いカットソーを着た女の人、知ってる?」
 光輝は振り返ってテーブルを確認してから、なにを勘違いしたのか意味深な笑みを浮かべた。
「あの子は難しいよ。名前はくろかわ。経済学部のたけもとしんと付き合っているみたいだよ」

▶#13へつづく
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