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連載

小林由香「イノセンス」 vol.11

【連載小説】「救えたはずの命」。逃げたお前も、同罪だ――。 小林由香「イノセンス」#11

小林由香「イノセンス」

※本記事は連載小説です。
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 星吾は雨から気をそらしたくて、大して気にもとめていないことを口にした。
「喧嘩した彼女とは、もう仲直りしたの?」
「まだ彼女ではないんだ。強力なライバルがいて、どう考えても俺に勝ち目はない。それなのに、どうしても諦めきれない。つまり片思いだね。会って仲直りしたかったけど、今日はバイトだから終電に間に合わなくて会いに行けないし」
 星吾の勤務時間は早朝までだったが、光輝のバイト終わりは二十三時だ。バイトの終了時間が、ちょうど終電の時刻というのはタイミングが悪い。
「さっきのお返しに、タイムカードの虚偽申告に加担するよ」
 星吾がそう言うと、光輝は急に瞳を輝かせた。
「マジで? 不正とか死ぬほど嫌いなタイプかと思ってた」
 正確に言うなら、借りが苦手なだけだ。
 光輝は近寄ってくると、選挙運動中の候補者のように「吉田光輝、仲直りできるように全力でがんばります!」と、星吾の両手を強く握りしめてくる。
 人の善意を疑わず素直に受け取り、心の底から嬉しそうに微笑んでいる姿が羨ましかった。
「今夜、どうしても彼女と会って話したいことがあったんだ。やっぱり、星吾は優しいよ」
 その言葉に少しだけ気が引けた。優しさから出たものではないからだ。
 ──生きていてもなんの役にも立たない卑怯者なのに。
 ネットに書き込まれた言葉がいまだに瞼の裏に焼きついている。
 いつか愚かな過去を知られる日が来るかと思うと、不安ではなく恐怖が胸に兆した。
 かつてのバイト仲間たちは、過去の出来事を聞き知ると、親しみのこもった態度を一変させた。露骨に嫌悪感をあらわす者、あわれみながら離れていく者もいた。
 不幸な結末ばかり経験したせいで、人生がうまくまわり始めると心は強い不安に駆られる。今ある幸せを失う日が必ずやってくるからだ。なんの確証もない未来に明るい希望を見いだせるのは、美しい過去を持つ人間の特権なのだ。
 答えはわかりきっているのに、なぜか同じ質問ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
 薄汚い過去を聞き知ったとき、光輝もかつてのバイト仲間と同じように離れていくだろうか──。
 ひとりで過ごす時間が多くなった星吾は、いつしか冷静に周りを観察するようになった。そのせいか、人が覆い隠そうとしている本質が嫌というほど透けて見えてしまうときがある。人間関係なんて欲望のぶつけ合いだ。親しくなればなるほど、それは増していく。
 それなのに、光輝には利己的な面がほとんど見当たらない。どれだけ批判的な目で観察しても、悪い部分を見つけるのが難しかった。
 制服を脱いで倉庫から鞄を持ってくると、光輝は「ごめん」と手刀を切った。
「いいよ。台風で客もほとんど来ないと思うから」
「本当にありがとう」
 光輝は礼を言ってから歩を進めると、自動ドアが開く手前でおもむろに足を止めた。振り返った彼の顔は、いつもと変わらず笑顔だった。
「星吾ってさ、雨が嫌いなの? 雨の日はいつも怯えたような顔しているから気になったんだ」
 その鋭い指摘に言葉を失った。
 鋭敏な洞察力に驚かされたが、振り返れば、彼はこれまでも人の心の奥底を見抜いていることがあった。以前、具合の悪くなった客にいち早く気づき、声をかけていた。一見、なんの問題もなさそうに見えたが、客は数時間前からひどい頭痛に苦しめられていたようだ。
 まさか、本当に人が色に見えるのだろうか──。
 光輝は神妙な面持ちで口を開いた。
「なにもないわけじゃない。きっと星吾にも色々あるんだよ。だからなにかあったら遠慮しないで相談してよね」
 そう言い残すと、いつもの無邪気な笑顔を見せてから、傘も差さずに店の外に駆けだした。土砂降りの雨の中を走っていく。まるで少年のような後ろ姿だった。なぜか、いつまでもその姿を目にしていたいという奇妙な感覚に包まれた。
 昔は雨が降り続く夜は一睡もできなかった。
 そんな日は決まってベッドの中に潜り込み、頭の血管が浮き出るほど奥歯を嚙みしめて泣き続けた。涙が流れていた頃は、まだマトモな人間だったのかもしれない。あの頃に比べれば、今は哀しみの感情が極端に乏しくなっている。
 静寂に包まれた店内に入店音が響き、客がひとり入ってきた。
 深夜番のときは、ときどき酔っ払いに絡まれて鬱陶しい思いもする。けれど、雨の夜は眠れないベッドで朝を待つより、バイト先にいたほうが精神的にも経済的にもプラスになった。
 店内を物色していた客は、素早く缶ビールと弁当を買って出ていった。
 時計の針が零時を過ぎると、台風のせいか客が来店する様子はなく、静かな時間が過ぎていく。みんな普段よりも仕事を早く切り上げたのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていると、店の外になにか気配を感じた。すぐに視線を向けたが、目につくものは激しい雨だけで誰もいなかった。
 気のせいだと思い直し、店内に視線を戻すとまた人の気配がする。
 もう一度、外に目を転じた瞬間、背中に怖気が走った。
 血だらけの男が真っ赤な両手を自動ドアにペタリと貼りつけ、店内を覗いていたのだ。
 赤黒い顔の男は左目を細め、血走った右目をきょろきょろと動かしてなにかを探している。開いた口から血の糸が滴っていた。
 氷室は憎しみに顔を歪め、ドアに多量の血を吐きだした。
「助けてほしいなんて頼んでない……勝手なことをしたのはあんたじゃないか」
 星吾は思わず声を張り上げた。
 足首に生暖かい感触が走る。視線を落とすと、血まみれの手が足首をつかんでいた。右手、左手とのぼってくる。濃厚な腐敗臭が立ち込め、おうを覚え慌てて手で口を覆った。
 星吾は叫び声と共に上半身を起こした。
 全身に鳥肌が立っている。レジカウンターで荒い呼吸を繰り返す。額から流れ落ちてくる汗をそのままに、しばらく凍りついたように固まっていた。
 現実に起きたことなのか、夢なのか判然としない。それほどリアルだった。
 ゆっくり首を巡らして店内を確認したあと、思いきって自動ドアに目を向けた。
 どこにも氷室の姿はない。それでもまだ安堵できず、足もとを確認する。血まみれの手も血痕もなかった。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 きっと、うたた寝をしてしまったのだろう。これは間違いなく夢だ、そう自身に言い聞かせて気持ちを落ち着かせようとするも、鼓動は少しも静まってくれない。
 あの日、犯人から投げられた言葉が、なぜか氷室の声音で耳に迫ってくる。
 ──逃げたお前も同罪だ。
 頭の中に『救えたはずの命』という言葉が繰り返し流れてきて息苦しくなる。
 気づけば、そうぼうからしずくがこぼれ落ちていた。
 もう涙なんて出ないと思っていたのに、雨粒のように頰を伝っていく。
 星吾は放心状態のまま、しばらく動けずにいた。震える手で顔を拭いながら幾度もガラス窓や自動ドアに目を向けた。恐怖に支配されているせいで、完全に落ち着きを取り戻すことはできなかった。

▶#12へつづく
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