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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.4

バリスキの舞台が忘れられない富士に忘れたはずの男・須藤から連絡が。受け身系女子、リボーン開始! 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-4

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、2020年1月10日(金)までの期間限定公開です。

>>前話を読む

 書かれていることのすべてが理解できたわけではないが、確かにあんなの他にはないと思う。劇団のことはまったく知らず、芝居自体もせいぜい十分ほどしか観ていないが、それでも本当に残念だと思う。もっと観たかったと素直に思う。ちゃんと最後まで観たかった。
 中坊が嘆いて、突然雷鳴。教室の外は氷の世界。踊りまくる謎の三人組。あの熱狂のひと時。あれは一体なんだったのか。二つの世界にどういう繫がりがあったのか。公演がなくなってしまったら、もはやなにも知ることはできない。バーバリアン・スキルの名を見た瞬間にあれだけ胸が高鳴った理由も、先に駆け出した身体の中身を追いかけるように劇場まで行ってしまった理由も、もう知ることはできない。あのときの自分を見つけることは、もう二度とできない。
 このままでは見失ってしまう。そして忘れてしまう。そんなの耐えられないと富士は思う。
 どうしても、あのつづきが観たい。なにを表現しようとしていたのか、ちゃんと知りたい。追いかけたい。もっと笑って、もっと叫んで、あんな体験をまたしたい。だってあんなの他にはないから。バリスキにしかないと思うから。あそこには、自分が知らない別の自分が確かにいたのだ。
(絶対、つづきが観たい! どうしても諦められない……!)
 しかし、その後も劇団からの公式な声明はなかった。チケッピオにも既に書き込みをした人同士でぽつぽつとやりとりがあるぐらいで、「袴の人」がスタッフであるという間違いが訂正されることもなかった。
 そうして、今日まで来てしまった。
 荷物の整理には手を付けられないまま、富士はページを更新する。ここ数日、書き込みは止まっている。つまり、いまだに劇団からは返金も連絡もないのだろう。あれから一週間が経つというのに、なにも進展していないということだ。
 だらけた姿勢でローテーブルに肘をつき、片手で顎を支える。ため息が鼻から抜けていく。
 あの飲み会の夜、一人で飛び出した時には、なにかすごいことが起きている気がしていた。これからなにかが変わっていくような、なにか新しいことが起きるような、そんな予感にき立てられて富士は夢中で走り続けた。知らない世界に飛び込もうと、自分は前へ大きく踏み切ったのだと思っていた。
 でも、現実はこれ。あれからなにも変わらずに、時間だけが過ぎていく。このサイトの書き込みを見る以外には状況の推移を知る術もない。
 富士は、口座番号を劇団宛にメールしていなかった。返金を求めないことで、公演をちゃんと観たい、まだ諦めていない、という意思表示になるかと思ったのだ。しかしそれも無意味だったかもしれない。
 さらに何度か更新しても新たな情報はなにもなく、諦めてパソコンを閉じる。寝間着のままで立ち上がる。
 食欲はなかった。でも、作業するにはカロリーを取らないといけない。そう思って冷蔵庫の中を覗いてみても、買い物を控えているので水ぐらいしか入っていない。
(外に出てなにか調達しなきゃ……コンビニでも行くか……)
 しかしなかなか身体は動かない。着替える気力がまだ湧かない。胃の辺りにはうっすら痛みもある。ここ数日、体調はずっとこんな感じなのだ。チケッピオの書き込みで「袴の人」という言葉を見るたびに、じわっと胃袋にダメージを受けてしまう。
 あの時のことを、富士は今でははっきりと後悔していた。やってしまった、と苦く思う。
 こういうところが自分にはあるのだ。ごたごたしている状況に出会うと、妙に張り切ってしゃしゃり出てしまう。事態をまとめようとしてしまう。これは確実に両親のせいだろう。富士、みんなをお願い! 頼むよ富士! 富士がいれば大丈夫! 富士、なんとかして!──幼い頃から洗脳レベルでそう言われ続けて、双子たちをまとめる役を任されてきたせい。
 そんな自分がいることで、回る場面もあるにはある。たとえば飲み会なら幹事として、まさに本領発揮のオンステージだ。でも今回はやりすぎてしまった。完全にスタッフだと勘違いされたまま、トラブルはいまだ進行中だ。
 あの時のことを考え始めると、さらに気力はついえていく。ふらふらと、またベッドに座り込んでしまう。自分はスタッフでもないのに、資格もないのに、保証なんかできないのに、返金のことを約束してしまった。なんて無責任なことをしたんだろう。
 猫背の男は泣いていた。衣装のままで路上に寝そべり、涙の間欠泉を噴き上げていた。明らかにまともな精神状態ではなかった。そこに自分は意気揚々としゃしゃり出て、勝手なことをしてしまった。今頃は彼も正気に戻り、状況に困惑しているかもしれない。そもそもあの人、誰だった? と。なんで勝手に話をまとめられた? と。
(だって、あんまりにもひどかったから……! 破壊的な、破滅的な状況だったから! 難破船だよ! 私の目の前で、舟が死んでた……!)
 頭痛に苦しむ人のようにうなれて頭を抱える。後悔。責任。実家。荷物整理。なにもかもどうにもできなくて、いっそ「苦悩」と題する像になってしまいたい。
 そんな富士の傍らで、充電中のスマホが震える。もう許してー! とか叫びたくなる。きっと母親だ。荷物の整理の進捗を確かめたいのだろう。もしくは、元ゼミの仲間かも。なにかメッセージを送ってきたのかもしれない。
 どっちにせよ、今は向き合える気分ではなかった。その場しのぎ、LINEなら既読をつけずにスルーしよう。スマホを摑んで、ちらっと覗き込んだ。
 ぎょあ! と変な声が出た。
 ──須藤くんが。須藤淳之介が。SMSを、送ってきている!

 お久しぶりです。
 コミ概で一緒だった須藤です。覚えてますか?
 ずっと連絡していなかったのに、突然ごめんなさい。
 龍岡さんに伝えたいことがあります。
 もしよかったら、近々会ってお茶でもしませんか。

 *

 富士が須藤と知り合ったのは、大学二年生のゴールデンウィークが明けた頃だった。
 コミュニケーション概論の講義で、たまたま隣の席に座ったのが彼だった。あいた、と小さな声に目をやると、指先に血をにじませていた。ノートで切ってしまったようだった。
 富士はポーチからばんそうこうを取り出し、そっと彼の方に置いた。よく転ぶ下の双子のためにいつも救急セットを持ち歩いていて、上京してからもその習慣は抜けていなかった。
 彼は驚いたように富士を見た。びっくりするぐらい綺麗な顔をしていた。
 彼はノートになにかサラサラと書き、それを富士に見せてきた。「かわいいばんそうこう、ありがとう。もったいないから使わないでとっておきます」
 確かに、かわいい絆創膏ではあった。ポップな柄が入った、ピンクと水色のキャラクター物だ。嬉しそうにそれをポケットにしまう彼の姿を見て、富士は思わず笑ってしまった。「もっとあるから、それは使って下さい」とノートに書いて見せた。
 その講義の後から、富士は須藤と話すようになった。
 すらっとした細身に小さな顔。なめらかな肌。大きくて丸い黒目。シンプルなファッションはあかけていて、長い手足を引き立てていた。都内でもおしゃれな学生が多いとされているこのキャンパスでも、彼は一際目立っていた。
 でも、そんな須藤に淡い憧れを抱いたのは、彼の際立った外見のせいだけではなかった。
 ──龍岡さん、これ絆創膏のお礼。一緒に食べない? コンビニのだけどおいしいんだよ。
 ──今日のブラウス似合ってるね。襟のところ、すっごく細かくて凝ってる。
 ──この間教えてくれた小説、はまっちゃってもうここまで進んだんだ。おもしろいね。
 いつ会っても、いつ話しても、須藤は優しかった。
 穏やかな声で、爽やかにほほみ、富士に関心を向けてくれた。なんの下心もなく自分という人間をただ受け入れてくれたのだと、素直に信じることができた。
 入学してすぐに入ったテニスサークルでは嫌な思いをしていた。酔った先輩の男たちにしつこく絡まれ、ベタベタとすり寄って来られ、身を竦ませていたら笑われたのだ。せっかく絡んであげたのに。それじゃもてないよ。地味なんだからせめて愛想よくしろよ。そんなことが一度では終わらず、ろくにテニスもしないまま、富士はサークルを辞めてしまった。そこで切れた人間関係も多かった。それからは大抵いつも一人で、昼食も学食の隅で隠れるように食べていた。
 須藤と親しくなってからは、外のベンチでよく落ち合った。そこでランチを並んで食べた。春から初夏へ、新緑はだんだんと色を濃くし、過ぎゆく風が気持ち良かった。雨の日は学外のカフェにも行った。二人とも、カフェラテよりもロイヤルミルクティーが好きだった。
 須藤はいつも先に来て、ファイルした台本を開いて富士を待っていた。小さく口を動かして、セリフを練習している時もあった。高校時代から演劇を始め、今は大学の演劇部に所属しながら、外部の劇団にも参加しているのだと教えてくれた。
「『クリーマー』っていう劇団。うちの大学の演劇部出身者が三年前に創設した劇団で、春のオーディションで受かったんだ。ずっと入りたかったから、今、ほんと楽しくて」
「すごい、夢が叶ったんだね。有名な劇団なの?」
「小劇場だからそんなに規模は大きくないんだけど、演劇系の雑誌とかムックに取り上げられることもあるし、いつか絶対メジャーになると思ってる」
 演劇の話をする時、須藤はいつも目をキラキラと輝かせていた。
 富士はそんな話をずっと聞いていたかったが、須藤は富士の話を聞きたがった。「龍岡さんが好きなことも教えてよ。趣味とか、はまってることとか」
 趣味ならある。しかし人に話したところで、いい反応が返ってくることはこれまでなかった。似合わない。子供っぽい。危ないからやめた方がいい。そんなふうに言われてばかりで、いつしか富士は自分の趣味を人に話すのを避けるようになっていた。
 でも須藤になら、この人になら、話してみたいと思えた。
「私、隠れ家づくりが趣味なんだ」
 ある雨の日のランチタイム。カフェのスツールに座った須藤は、きょとんと目を丸くしていた。「隠れ家? つまり……秘密基地みたいな?」
 見せるのが早いかと思い、富士はスマホに残っている写真を見せた。実家を出る前に作った隠れ家を、記念に撮っておいたのだ。
 広大な自宅敷地の雑木林の中に、木材とベニヤのパネルで建てた簡素な小屋だった。資材はリサイクルしつつ、必要な物はホームセンターで買って自宅へ配送してもらい、台車で何度かに分けて現場まで運んだ。外観は落ちていた枝や葉でカモフラージュして、地表から数十センチの高さに床面を作り、断熱に使ったのは発泡スチロール。一畳ほどの内部にはクッションパネルを敷き詰め、その上にタイルカーペット。
 内部には、かわいいモロッコ風のランプを発電機に繫いでいくつも引き込み、愛用の座椅子の上に吊った。その色とりどりの光の下で、富士は何時間でも膝を抱えていた。恋愛小説を読んで泣いたり、芸人のラジオを聴いて笑ったり、無意味にスマホをいじったり、誰にも取られずお菓子を食べたり。イヤホンで音楽を聴きながら、下手な歌を歌うのも自由だった。空想も妄想も回想も自由。どんな考え事をするのも自由だった。
 双子たちに見つかってしまったら撤収。解体して、資材は保管し、また別の場所へ。そんなことを、少女の頃からずっと続けてきた。
 うそ! と須藤は声を上げ、スマホの写真をじっと見つめた。
「龍岡さんが作ったの? これを? 一人で?」
「うちはきょうだいが多いから、自分の部屋にいても全然落ち着けなくて。たまには一人で隠れていられる空間が欲しかったんだ」
「すごいよ! なんでこんなことできるの? ほんと、すごすぎる! 尊敬する!」
 弾けるような笑顔を向けられて、富士は照れてしまった。やっぱり須藤に話してよかったと思った。
「そうかな。ありがとう」
「かなり本格的な大工仕事だったんじゃない?」
「最初は納戸にスタンドライトを持ち込む程度だったんだ。客間の押入れとか。紐を張って布を垂らして、びようで留めて仕切ったり、その程度。でも段々ガレージとか、倉庫の屋根裏とかに進出していって、そのうち作業の拠点にできる古い農作業小屋を見つけたりもして。道具さえあればいろいろできるんだよ。中学生になる頃からお年玉で電動工具を買い集め始めて、一通りのことはできるようになったし」
「電動工具」
「うん。インパクトドライバーにジグソー、ドリルドライバー、タッカーもあるよ」
 実家に置いてきた工具箱の中身を思い浮かべる富士の前で、須藤は急に改まり、背筋を伸ばした。
「……龍岡さん。お願いが、あるんだけど」
 須藤の要請で、クリーマーの舞台で使う大道具作りを手伝うことになったのは、六月のことだった。
 公演を目前にして、使用するはずだった既存のセットにトラブルが発生し、作り直さなければいけなくなったのだという。時間の制約があって制作会社にも作業を依頼することができなかったらしい。
 実家から送ってもらった工具箱を携えて、富士は須藤とともに作業場まで出向いた。朝から夜まで一日がかりの突貫作業だった。
 舞台のことはなにもわからないが、工具の扱いに慣れている富士はそれなりに重宝された。教えてもらいながらの作業は楽しくもあった。元からこういうことは好きだし、これまで知らなかった舞台装置の仕組みを知ることは純粋に新鮮で、興味深かった。別の劇団からも応援に来ている人が大勢いて、みんなそれぞれに知識があり、あらゆることを手伝わせてくれた。
 地元を出て以来、富士は自分の居場所を見つけられずにいた。手のかかる双子たちと離れたことで、自分の存在価値がわからなくなってもいた。でもこうして服を汚し、好きなことをして、同じことで笑い合える人々の中にいると、なにか大事なことを見つけられそうな気がした。
 舞台づくりを、好きになるかもしれない。演劇に興味が出てきたかもしれない。須藤と二人の帰り道、湧き上がった予感は口にせずにはいられなかった。
 それを聞いて、「ほんとに!? うれしい!」須藤は妙にかわいいポーズで文字通り飛び上がった。
 須藤はそれから、富士を劇場へ連れて行ってくれるようになった。
 小劇場で観た芝居のうち、いくつかはおもしろく、いくつかはおもしろくなかった。また観に来たいと思うのも、素人くさい内輪ノリにへきえきさせられるのもあった。
 クリーマーの公演も観た。富士が制作を手伝った謎の立体群は、ある角度に置かれると椅子になり、別の角度からは見下ろす街並みとなり、また別の角度からは人物の不在を表現する物質的なメタファーとなった。繊細なビジュアルで語られる詩的なストーリーは、美しい夢物語のようだった。須藤の役は小さかったが、それでも彼がこの劇団の活動に入れ込む理由は納得できた。
 須藤と待ち合わせて出かけることは、いつだって本当に楽しかった。
 劇場に行き、芝居を観て、食事をして、大学で会い、次の約束をして、また待ち合わせ。いつまでもずっと、そうしていたかった。そんな日々が幸せだった。
 死んだ舟が自分をここまで連れて来てくれた──富士にはそう思えていた。
 あの夏休みに死んだ舟を見つけてから、隠れ家を作ることを思いついたのだ。一人で隠れられる空間がないなら、自分で作ればいいのだ、と。我ながら変な女子だった。でも、そんな自分だったから、須藤と出会うことができた。ともに過ごす毎日は本当に楽しくて、自分が自分でよかったと心から思えた。
 やがて夏休みに入り、富士は実家に戻った。須藤も演劇部の公演の準備で忙しくなり、しばらく顔を会わせることができなかった。
 頻繁に連絡を取ることはなかったが、須藤が忙しいことは知っていたし、バイトにも精を出すと言っていたから、特になにも思いはしなかった。
 だから後期が始まって、須藤がいなくなってしまったことを知った時には驚いた。
 コミュニケーション概論の講義に、須藤は現れなかった。気になって連絡をしようとした時に、話し声が耳に入った。「須藤って辞めちゃったんでしょ」「らしいね」知らない男子たちだったが、つい割り込み、確かめてしまった。
「それって須藤淳之介くんのことですか? 大学、辞めちゃったんですか?」
 男子たちは顔をちょっと見合わせてから、そうだよ、と教えてくれた。「演劇部の奴らが言ってたから確かだと思うけど。ていうか、いつも須藤とつるんでた子だよね? なにも聞いてないの?」
 なにも聞いていなかった。
 須藤は富士になにも言わずに、大学を辞めてしまっていた。クリーマーの活動に集中するため、と演劇部の友人たちには話していたそうだ。
 なにも知らなかったことがショックだった。
 なぜ、自分には言ってくれなかったのだろうか。
 そのとき、連絡をしようと思えばできた。いつもスマホでやりとりしていたし、須藤はTwitterもやっていた。「どうしてなにも教えてくれなかったの」と、訊くことは簡単だった。「大学を辞めても友達でいたい」と、伝えることも簡単だった。
 でも、富士はそうしなかった。
 夢に向かってまっすぐひた走る彼の視界に、おまえはもう入っていない。誰かにそう宣告された気がした。おまえは置き去り。そうはっきりと、知らしめられた気がした。
 そんな声を振り切って、彼を追いかけることもしなかった。そんな資格は自分にはないと思った。考えてみれば、出会ってたった数か月の仲にすぎないし、須藤がのめり込む演劇のことだってまだ全然知らない。こんな自分は彼にはふさわしくない。一緒にいて楽しかったのも、親しくしていたかったのも、自分だけだったのかもしれない。自分は置き去りにされて当然だ。そう思った。
 死んだ舟は、結局、死んだ舟でしかなかった。
 死んでいるのだから、誰かをどこかに運んだり、連れて行ったりする力なんてあるわけがなかった。その中に一人置き去りにされ、富士は須藤を諦めた。
 演劇や劇団、舞台、そういう文化からも努めて距離を取った。できるだけ、思い出すこともしたくなかった。淡いままで消えていった憧れは、心の奥底に深く沈め、忘れることで封印した。

 *

 今日なら会えます、と富士は返信した。
 直後、「……ええ!?」自分がそんな返信をしたことにきようがくする。首の後ろの筋肉が震える。会えます、って。そんな。なんで──自分で自分がもうわからない。
 ベッドに座り込んだまま、手の中のスマホを呆然と見つめる。須藤からの返信はすぐにきた。
 須藤は待ち合わせになかのカフェを指定してきて、時間は十一時半に決まった。
 スマホを置く。脇が、汗でびっしょり濡れている。もう一度スマホを手に取り、アプリで恵比寿から中野までの所要時間を調べる。また時間を見る。余裕はもうない。全然ない。おずおずと汗ばんだ脇のにおいをかいでみる。
「……だめだっ!」
 火がいたように、富士はベッドから飛び出した。
 猛然とシャワーを浴び、髪を乾かして着替え、最低限の身支度で部屋を出る。
(ていうか、なにしてるんだろう!? なにしてるの、私!? なんでこんなことになってるの!?)
 駅につき、改札に入り、ホームに上がると電車はすぐに来た。しん宿じゆくまではすぐだ。
 でもわからない。自分はなぜ、須藤に会おうとしているのだろうか。一体なにを考えて、あんな返信をしてしまったのか。今の気分を正直に表現するなら後悔の二文字しかない。でももう引き返せはしない。やっぱりやめます、とか、そんな複雑なやりとりはできない。約束をにしてしまえば、この先ずっと須藤からの連絡におびえることになる。
 自問自答しながら人の波をかきわけ、足早に乗り換えるホームを目指す。
 とにかく、あまりにも驚いたのだ。驚きのあまり、多分、判断力が鈍った。今さら須藤から連絡が来るなんて思ってもみなかった。理由はまったくわからない。そもそも連絡をくれたのが本当に本物の須藤淳之介なのか、その正体すらわからない。ただ驚いて、そして謎すぎて、気が付いたら勢いであんな返信をしてしまっていた。今にして思えば、現実逃避だったのかもしれない。現実の状況からとにかく逃げ出したくて、目の前で起きた新しい事件に飛びついてしまったのかもしれない。
 中野の駅について、電車を降りる。改札を出ると、たくさんの行き交う人で真昼の街は賑わっている。春休みのせいか、子供連れや若者のグループが多い。通りの手前で立ち止まり、富士はしばし呼吸を整える。なんだか息が苦しいのはダッシュでここまで来たせいだろうか。それとも正気をなくしかけているせいか。
 なんにせよ──本当にここまで来てしまった。
 改めて、スマホの地図を確認する。指定されたカフェは駅からそう遠くなく、商店街の中の店だから迷いもしないだろう。約束の時間には間に合いそうだった。
 ストラップ付きのバレエシューズで大きく踏み出す。
 歩くたびに一歩ずつ、須藤に近づいていく。
 本当に、なにもわからない。須藤にはどんな意図があるのだろうか。会ってなにがしたいのか。会ったらなにがどうなるのか。
 久しぶりに彼の顔を見たら、自分はどうなってしまうのか。
 かつては憧れた相手だ。一緒にいると本当に楽しかった。でも、あんなふうに会えなくなって、傷ついて、須藤への気持ちは封印した。でも、
(再会したら、またあの頃と同じ気持ちになるのかな……?)
 これまでにも同じことを考えたことがあった。見合いの話が舞い込んでから、そして見合いを実際にしてから。結婚すると決断する前もだ。富士は何度も、同じことを自分に問いかけてきた。
 もしも須藤と再会したら、自分の好意はまた彼に向いてしまうのだろうか?
 そんな気持ちでまだいるのなら、そもそも見合いなんてするべきじゃないと思った。当然、結婚なんてするべきじゃないとも思った。そうはならない、と富士は結論を出した。
 そして今もまた、同じ結論に至る。何度考えてみても同じだ。再会がもしもの仮定ではなく、現実のこととして迫ってきている今でも同じ。終わったことは終わったことなのだ。
 確かに、須藤がなにも言わずに自分の前から消えてしまった時にはショックを受けた。でもその気持ちにはとっくにケリがついている。だからこそ、結婚を決断できた。その決断も結局は虚空に消えていったのだが、とにかく須藤に対する気持ちはもはやはっきりと過去のものなのだ。
 そもそも当時から、付き合いたいとか恋人になりたいとか、具体的な恋愛対象として彼をおもっていたわけでもなかった。だから付き合っている相手がいるのか訊ねたことも、それを真剣に気にしたこともなかった。ただ気が合って、話していると楽しくて、元気が出た。それが一緒にいたかった理由だ。端正な面差しに見とれたり、ふとした時に見せてくれる優しさに胸を打たれたこともあったが、それは感情というよりは感動だった。そんな須藤と、ただ一緒にいたかった。でも叶わなかった。それだけのことだった。
 黒地にドット柄のワンピースの裾を翻し、富士は待ち合わせ場所へと歩き続ける。襟のボタンを一つ開け、しっかりと深く息をする。自分に噓はついていないと思う。
 須藤に対する当時の気持ちは、たとえば、元婚約者に向けたものとは全然違う。元婚約者とは、交際もしないまま、たった数回会っただけで、富士は結婚を決断した。そういう気持ちを元婚約者には向けていた。その頃はまだそれが間抜けな一人相撲、哀れな一方通行の想いだったとも知らず──
(はい、やめやめ!)
 足を左右、勢いよく振り出し、道路を踏みつけるようにして考えを打ち消す。それについては考えるのをやめる。あの正月からまだ三か月しか経っていないのだ。今はまだこの傷口をほじくり返したいとは思わない。
 それより須藤だ。今は須藤との再会に備えなくてはいけない。気合いを入れ直すために、歩きながらリップクリームを唇にぐりぐりと強く押し付ける。
(もうこうなったら、なんでもいいよ。宗教とかの勧誘でも、ねずみ講でもなんでもいい。絵でも宝石でも売りつけていい。見てもわからないぐらい別人に成り果てていたっていい。なんなら本当に別人でいい。だから、いいよ! カモン須藤くん! とっとと目の前に現れて! そして教えて! どうして今になって連絡をくれたのか、理由がわかればそれでいい! 私はとにかくこれ以上悩み事を増やしたくないの! なんでもこいだから! どんとこい!)
 思えば自分はもう大人だ。大学も出た、いい大人。たかが疎遠になっていた知り合いと久しぶりに会うというだけのことで、なにをこんなに動揺している。
 そうだ。これはただの現実逃避なのだ。
 こうしている間は荷物の整理もしなくていい。実家に戻った後の自分を想像して鬱にもならなくていい。ゼミの連中のことも思い出さなくていい。余計なをしてしゃしゃり出た痛い自分を責めなくてもいい。
 それ以上に、なにを望むことがあるだろうか。なにもない。あるわけない。視線の先にカフェの看板を見つけ、富士はさらに足を早める。なにも期待なんかしていない。今さらどうなるとも思っていない。どうなりたいとかもないし、そもそも須藤に会いたかったわけでもなくて、ただ現実逃避がしたかっただけ。だから、自分はここまで来たのだ。
 やだー久しぶりー! そう言って笑おうと思う。もー懐かしいー! どうしてたー? いきなり連絡くれるなんてびっくりー! それでよし。
 カフェの扉が近づいてくる。髪を片側だけ耳にかけて、スピードを落とさずに前進していく。一瞬でも立ち止まってしまったら総崩れになりそうな怖さがある。だから行くのみ。進むのみ。と、
「あっ」
 同じ店に入ろうとしていた人にぶつかってしまった。
 顔を上げて、「すいません!」その人を見た。「や、こっちこそ……」その人も富士を見た。目が合った。美しい形をしたその目。びっくりするぐらい、綺麗な顔。
「……た、」
 優しい声。
 息が止まる。
「……龍岡さん……!」
 須藤だった。
 十数センチ上空から、須藤が富士を見下ろしていた。お互いそれ以上、言葉が出なかった。見つめ合ったまま、数秒間。時も止まる。須藤は大きく瞳を見開いている。見開いたその両目が揺れて、みるみる透明に潤んでいく。ぶたが赤く染まっていく。やがてぽろっと涙が零れ落ちるのを見て、
「……やだ……」
 富士も声が詰まってしまった。続く息が震えてしまう。目の奥が熱い。須藤の泣き顔が、ゆらゆらと揺れる。
「もう、須藤くん……なに、泣いて……」
「って、そっちも……」
 二人してほぼ同時、照れ隠しみたいに笑ってしまった。目尻から涙がさらに零れてきて、富士は笑いながら指先でそれを拭った。
「……龍岡さん、ほんと……ほんとに……」
 須藤は伸ばした袖で目元を拭いている。妙にかわいいそういう仕草は前と全然変わらない。本当に少しも変わらない。
「ごめん……」
「いいから」
「……ごめん、龍岡さん……!」
「いいの、ほんと」
 以前のままの須藤がそこにいて、目も鼻も真っ赤にしていて富士を見ている。その頰をまた、涙がぽろぽろと伝い落ちてくる。「ああもうやだ」とか笑ってもいる。富士も同じぐらいに泣いてしまい、笑ってしまって、やがて目を見合わせて吹き出した。
「ていうか、そろそろ……入らない!?」
「そうだよね! 私たちこんなとこでなにやってるんだろ」
「変な二人組だと思われるよね」
「でもほんとに変な二人組だよね、今」
 涙を指先で拭いながら、そのまま二人して崩壊するみたいに大笑いしてしまう。須藤は富士よりすこし早く立ち直り、「いこ」と先に店に入り、まだ濡れた目をしたまま富士のためにドアを開けておいてくれる。
 須藤はなにも変わっていなかった。そんな須藤を見て富士の中に湧き上がる気持ちも、結局、なにも変わっていなかった。出会ったあの頃のままにみずみずしくて、そして覚えていたよりもずっと温かい。こんな気持ちを思い出すことを、どうしてあんなにも恐れ、否定していたのか不思議でさえあった。
 ふと思う。もしかしたら自分は、ここに立ち戻るのをただ恐れていたのではなくて、失った痛みを忘れようと必死でいただけなのかもしれない。

▶#1-5へつづく ※11/11(火)公開
◎第 1 回全文「カドブンノベル」2019年11月号でお楽しみいただけます。


「カドブンノベル」2019年11月号

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最新号 2019年12月号

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