menu
menu

連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.3

凄い舞台を観て圧倒された富士は惰性の人生を変えられるか? 受け身系女子の再生物語! 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-3

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

>>前話を読む

 なにを見ているんだろう、今、自分は。
 目を見開いたまま、富士は息をするのも忘れていた。ほとんど気を失いかけているのかもしれない。どうもうな音とリズム、強烈なレーザーの光で自我などとっくに叩きつぶされ、目だけの生き物になっている。あとはなにもわからない。ただ見ている。女がしなやかに片足を上げて、そのまま回転し、ジャンプする。影が異様に長く黒く伸びて、風になぶられる枯れ木に見える。両手を顔の前で合わせ、前後に揺れながら両足を滑らせて開脚する。られたように伸び上がり、宙をキックして高く跳ぶ。
 こんな動きをする生命体は、これまでに見たことがなかった。こんなの、見たことがない。こんなの知らずに、二十二年も生きてきた。
 ダンスに合わせて眼球が脈打つ。目を逸らすことは、もうできない。テンポはさらに速まって、細身の男がやや遅れ出す。それをカバーするように女が前へ進み出てきて、さらに大きく踊る。手足を振り回すように回転するその胴を大柄な男が両手で摑み、頭の上まで持ち上げる。四肢を広げて女は宙を舞い、大きく弧を描いて下りながら、その指先で客席をあおる。
 ──見ろ!
 ──殺す!
 ──叫べ!
 誰かが叫んでいた。自分もだ。叫んでいる。気が付けば腹の底から全力で叫びながら、どれが自分の叫び声かなんてもうわからなくなってしまう。握った拳が誰のかもわからない。汗、レーザー、影、雷鳴、閃光、ドラム、心臓、躍動する三人、どれが誰かなんて関係ない、自分がなにかももう忘れた、このままどこか別の世界へくさっ。
(ん? ……ん!?)
 くさい。
 すごくくさい。
 くさいのだ。本当に。
 富士は突然夢からめたように、現実の世界に立ち返る。舞台ではまだダンスが続いている。でも辺りには、これまで嗅いだことのないような強烈なにおいが漂い始めている。富士の隣の人も気付いたのか、振り上げていた拳を急に下ろし、驚いたように周囲を見回した。前の席の人も同じだ。き込む人、身体を丸める人。どこかケミカルな刺激臭は、腐敗臭や排泄物系のにおいとも違う。ハンカチで鼻と口を覆いながら、富士の脳裏には毒とかテロ、その手の物騒な単語しか浮かばない。
 舞台にもようやくにおいが届いたのか、女がぴたりとダンスを止めた。驚いたように顔を覆う。細身の男は慌てたように舞台袖へ走っていく。大柄な男だけがまだ踊り続けているが、音楽も止み、幕が下りて、舞台はこちらからは見えなくなる。
 観客たちは取り残された。どうしていいのかわからず、富士もにおいに耐えながらアナウンスを待つ。しかし、異臭に満たされた劇場内はそのまま静まり返っている。状況を説明しに出てくるスタッフもいない。客席上部の照明が一瞬つくが、すぐに落ちてしまった。完全な暗闇になってしまう。客席にはざわめきが起こり始める。
 その只中で、富士はどこか冷静に考えていた。なにかやらかす気はしていたのだ。最初から、観客の安全をまともに考えているとは思えなかった。さっきの想像よりマシなのは、ここに双子たちがいないことぐらいか。
 囁き合う声が聞こえてくる。「なんなの?」「くっさ……!」「これって演出?」
 そして誰かが焦ったように言う。「席から出られない!」その甲高い声の響きに、場内の空気が一気に張り詰める。ざわめきが大きくなる。
 さっきの富士の想像をそっくりそのままなぞるように、パニックが起きる気配がした。まだ照明は戻らず、説明もない。下りた幕の向こうでなにが起きているか、客席側からわかるわけもない。このままでは危険だ。想像と同じ展開になれば、大変な修羅場になる。食い止めなくては。実際にパニックが起きる前に、どうにかしなければ。
(……とにかく、確認しなきゃ。さすがにこんなの演出とは思えないけど)
 富士は立ち上がり、「すいません!」声を上げた。やたらと大きく響いて、客席が静まり返る。
「これで、終わりですか!?」
 ステージの方へ問いかける富士の声に、しかし返事はない。もう一度、今度はもっと大きな声で。
「これで、終わり、ですか!?」
 数秒の沈黙の後、返事があった。
「……終わ、……放せ! 終わり! これで終わり……だっ!」
 なにか重い物がぶつかるような音。引きずるような音。数人の男が揉めているような低くて鋭い声も聞こえてくる。しかしもはや構ってはいられない。これで終わりならば、ここから脱出しなければ。
「だ、そうです! すいません、スマホをお持ちの方、ライトをつけていただけると助かります!」
 ややあって、暗闇の中に白い光がいくつも灯った。客たちは身体を捻ってこちらを見ている。振袖に袴、この恰好なら注目を集めやすい。ちょうどよかった。
「みなさん、まだ立ち上がらないでそのまま聞いて下さい! 鼻と口をできればハンカチなどで押さえて下さい! これから避難を開始するんですが、席も通路も狭いですよね? 協力し合って、一列ずつ順番に通路に出ましょう! 一番前の列から、静かにお立ち下さい! 落ち着いて、前の方を押したりせずに進んで下さい!」
 そう言いながら、手探りで背後の壁面のノブを摑む。ドアを開く。外から入ってくる光はわずかだった。背中で重いドアを押さえ、草履で踏ん張る。それぞれが手に持っているスマホの光だけが頼りだ。
 続いて次の列、次の列、と進んだところで、ようやく懐中電灯を手に持ったスタッフがドアの向こうに現れる。暗闇の中に大きな光の円が射し込んでくる。大きくその光を振りながら、「お出口はこちらでーす!」誘導する声が聞こえ始める。
 富士は最後の一人になるまで、背中でドアを押さえ続けた。

 建物の出入口からようやく地上に出ると、先に避難した観客たちが道路上に集まっていた。
 体調を崩した人はいなそうだったが、数名がスタッフらしき男女に詰め寄っている。「状況を説明してよ!」「あのにおいはなんだったの?」
 スタッフたちは「少々お待ちください」「確認しておりますので……」ウロウロと歩き回るか、スマホでどこかに連絡をとろうとするばかり。
 新鮮な空気をやっと胸いっぱいに吸いつつ、富士はすこし離れたところからそれを見ていた。が、
「あっ、袴の人だ!」
 急に指さされ、驚く。何人かがこちらに詰め寄ってくる。
「これって払い戻しされるんですよね!?」
「待ってたら中に戻れます? ハンカチ落としちゃって」
「ちゃんと答えて下さい! 払い戻しはあるんですか!?」
 この目立つ姿で誘導したため、スタッフと間違えられているらしい。富士は慌てて自分も観客であることを説明しようとしたが、
「とっとと上がれこのグズ! いっつもトロいんだよてめえはよ!」
「いや俺はただらんさんの安全を確保しようと、」
「うるっせえ!」
 もつれ合うように階段から上がってきたのは、毛皮の衣装を着た女と細身の男だった。「言い訳してんじゃねえ! つかてめえさっきも遅れただろうがよ!? 舐め腐りやがってぶっ殺すぞ!?」女の方が細身の男を片腕で突き飛ばす。男はあっけなく路上に倒れてしまい、両腕で頭をかばって喚く。「蘭さん! ほら! みんな見てますよ!」
 火を噴くような凄まじい目をして、蘭さん、と呼ばれた女は辺りを見回す。
「ぅあぁあああん!? なんだぁああんおらぁ!?」
 目元をドス黒く塗ったメイクが怖いし、ガラガラに潰れた声も怖い。毛皮の衣装も相まって、その姿はまるで野獣だ。しかも手負いで、狂ってる。富士を含め、みな一斉に視線を逸らす。
 さらにその背後、中坊こと猫背の男が、フラフラと階段を上がってくるのが見えた。
「……もう終わりだ、終わり、僕たちは終わり……」
 かすかに呟きながら、膝から崩れ落ちる。うつろな目は真っ赤になり、全身ガクガク震えている。
 さらに、
「もうやってらんねえ! 俺は辞める!」
 階段の方からは鋭い声が続いた。すごい勢いで駆け上がってきたのは、全身黒ずくめの長身の男。その背後から、
「この野郎ふざけんじゃねえ!」
 毛皮の衣装の大柄な男が追いかけてくる。黒ずくめの背中に跳びかかり、そのまま二人は路上に転がる。胸倉を摑み合い、殴り合いになってしまう。他のスタッフたちが二人を引き離そうとするが、でかいナリをした男同士の大暴れがそう簡単に止められるわけもなく、拳で顔を殴り合う痛そうな音が辺りに響く。振り払われた女子スタッフが「樋尾さんも南野さんももうやめて!」泣き声を上げる。そして蘭さんこと野獣が、「だぅおらああぁぁ!」なぜか植え込みの台に駆け上がり、高く夜空に舞う。くるっと宙で身を翻し、男二人の頭上に肘から突っ込んでいく。
 一方、猫背はといえば、
「……終わったんだ……ここで……僕たちは、死んだ……!」
 まだ座り込んだまま、両目からぼうの涙を流していた。その様子はまるで糸の切れた操り人形。頭も肩もふらふら揺れ、呟く声は途切れ途切れ、今にもかき消えてしまいそう。
 大きく回り込むように、富士は猫背に近づいていった。視界に突然フルサイズで侵入してはいけないと思ったのだ。刺激しないよう、ゆっくりと、そっと。
「あの。死んでいるところ申し訳ないんですが」
 濡れた両目の焦点が合う。涙が顎で合流して、アスファルトに垂れて大きな染みを作っている。ものすごく話しかけづらい状況ではあったが、でも確かめておかなければ。
「今回のチケット代って、払い戻しされますか?」
「……ち……け……?」
「みなさん、さっきからお待ちです。なにかしらアナウンスがあるまでは解散できない雰囲気です」
「……はら……も、ど……」
「するんですか?」
「……る……」
「する、と。この場で?」
「……ご……じ……」
「後日になるんですか?」
 頷く。
「でも、ここでした方が話が早くないですか?」
 震える。
「じゃあ後日ですね。振込ですか?」
「……こ、こう……れん……」
「口座番号を、連絡すればいいんですね。チラシに載ってるアドレス宛でいいですか?」
 こくっ、と頷いた拍子に、猫背は力尽きた。そのまま後ろに倒れて、開いた両目で空を見上げる。ドクドク噴き上がる涙はまるで間欠泉だった。そうやって泣きながら、また呟く。
「……今夜、僕たちは、死にました……!」
 それだけしやべれるなら受け答えももっと質を上げられたのでは、と思わなくもなかったが、憐れなのは確かだ。富士は傍らに膝をつき、思わず慰めの言葉を探す。
「あの、大丈夫ですよ」
 猫背は目を閉じ、嗚咽おえつし続けている。
「死んでるのはあなただけじゃありませんから」
 口に出してから結構微妙なことを言っている気がしたが、今さらだ。
「私だって、死んだようなものです。無職になるし、友達もいないし、彼氏もいません。だから卒業式の夜に一人でここにいるんです。一人ぼっちなんです。来月には墓穴に転がり落ちて、埋葬されるみたいな新生活が待ってます」
 薄く、猫背の目が開く。ぼんやりとだが、富士の目を見た気がする。すこしはフォローになったのだろうか。そうならいいが。
 富士は立ち上がり、「みなさん、すいません」まだ残っている客たちに声をかける。
「払い戻しは後日になるとのことです」
 えー、と不満げな声がいくつも上がった。富士は声のした方にいちいち頭を下げ、説明を続ける。
「チラシに載っているアドレス宛に、銀行名、支店名、通帳の種類、口座番号をお知らせ下さい。もしも個別に事情がおありの場合は、その旨ご連絡をお願いいたします。今日の公演につきましては、状況の詳細がまだわかっておりません。近隣の方のご迷惑になってはいけませんので、解散していただけますようお願いいたします」
 頭を下げる富士を見て、客たちはやっと駅の方角へ流れ始めた。それを見送り、では自分も、と歩き出そうとするが、その目の前にまた一人の男が地下からすごい勢いで飛び出してきて、そのまま駅とは逆方向に走っていく。ややあって、
「神田さんが金持って逃げたー!」
 声を上げながら何人かがその後を追い始めた。「え!?」死んでいた猫背もバネ仕掛けみたいに跳ね起き、団子状になってこうちやくしていた面々も顔を上げる。「あんの……クソ野郎がぁ!」男を追って一斉に走り出す。
 ──この劇団は、すごい。
 富士はほとんど呆然と、彼らの後ろ姿を見送ってしまった。廃墟みたいなボロ劇場。無理な席配置。衝撃の舞台。突然の異臭。観客放置。挙句ケンカ。シメに泥棒。なんなんだ。本当に、なんだったんだ。
 そして結局、どうして自分がバーバリアン・スキルを知っていたかもわからない。芝居自体をほとんど見られなかったのだ。三千円を支払った公演は、せいぜい十分程度で終わってしまった。
 こんなの見たことがない、と、さっき客席で感じたことを思い出す。そして改めてまた思う。
 こんなにめちゃくちゃな破局を、富士は今までに見たことがなかった。たとえるなら、これは、
(まるで難破船……)
 視線に気づいたのはそのときだった。
 通りの先から、こちらを見ている視線があった。毛皮の衣装に、大きな身体。
 さっきまで殴り合いをしていた大柄な男だ。他のスタッフと一緒に走っていったと思っていたが、いつからかそこにたたずんで、じっと富士を見つめていた。顔の上半分を黒く汚したメイクのせいで表情はわからない。
 その目はただ、強く光っている。

      2

 ゆううつな一週間が過ぎて、三月三十日。土曜日。朝十時。
 目はとっくに覚めていたが、ベッドから出る気力がなかなか湧かない。シーツの上にぼんやりと身を起こし、富士は一人暮らしの部屋を見回す。昨晩も遅くまで寝付けなかった。このところずっと眠りが浅くて、のうでも背負わされたみたいに身体が重い。
 富士は今日、この部屋で暮らした四年分の荷物の整理を終えなければいけなかった。明日の朝には業者が来て、実家に送るものを運び出し、不用品は処分される。そして自分は新幹線で一人、この東京を出て高崎へ帰る。そういう予定だった。
(明日か……)
 荷物の整理は今のところまったく進んでいない。というか、始めてもいない。業者が送ってきたダンボールの束はそのまま玄関に置いてある。寿駅から徒歩六分のこの部屋はタツオカフーズが所有していて、富士が明日退去した後はコーポレート部門の管理下に置かれるらしい。
 あの飲み会の直後、ゼミのメンバーからは何通かメッセージが届いていた。今どこにいるの、とか、なんで急にいなくなるの、とか。ごめん、気分が悪くて、とだけ返して、あとは放っておいた。それきり連絡は途絶えたままで、この先も途絶えたままだろう。
 友達はゼロになった。
 大学は卒業し、仕事もない。住む場所もなくなる。富士が東京にいる意味は、もはや一つもない。
 よろよろと立ち上がり、トイレを済ませて歯を磨き、水を飲んで、カーテンを開ける。南向きの窓からは、小さな若葉がえる街路樹と道路、向かいのマンションの外壁が見える。それほど見ごたえのある眺めではないが、春の陽射しは暖かくて眩しい。いい天気だった。
 しかし、この景色も見られるのも明日まで。そう思うなり、身体からたちまち力が抜けていく。心底げんなりへこんでいく。
(……ほんっとに、いやだ……)
 実家になんか帰りたくはなかった。帰ったところですることもない。
 親の会社には勤められないし、他の仕事を探すことも禁じられている。地元で龍岡家を知らない者はなく、富士はいまや札付きの身の上だった。なにしろ『出世の道をドブに捨ててでも結婚したくない女』だし、うわさは巡り巡るうちにさらに尾ひれもついている。親としては、そんな娘を世間には放流できない、と。今も本社を置く創業の地において、家名を汚すことは決して許されない。
 かつての同級生たちとも、すっかり疎遠になってしまった。何人かに連絡ぐらいはできるだろうが、数年ぶりに会ったところでなにを話せばいいのかわからない。やだー久しぶりー、もー懐かしいー、で初回は乗り切れるだろうが、その後はどうする。夢も希望も未来もない、汚名しかない自分と話をしたところで、相手だって楽しくないだろう。せいぜい噂話のネタになるぐらいか。
 シン、と静まり返る最近の実家の空気を思い出すと、富士はほとんどえずきそうになる。あの家の中で、これからどれだけの無為な時間を過ごすことになるのだろう。日がな一日ソファに座って、ネトフリ眺めてニヤニヤ、くすくす。お菓子。アイス。話し相手は両親のみ。たまにイオンモールに連れて行ってもらってキャッキャ。同年代がキラキラと、社会へ羽ばたいていくのを尻目に。
 そうやって実家にいるうちに、自分の存在などこの世から消えてしまう。龍岡富士という人間がいたことを、やがてみんな忘れてしまう。自分も自分を忘れてしまう。生まれてきた意味も理由もわからないまま、ただ忘れ去られて、消滅していく。
(せめて家でなにかの役に立てるならな……そのために帰るんだ、って思えればよかったけど)
 双子たちがいた頃が、今となっては懐かしかった。
 家に帰ればいつでも誰かがいて、笑ったり泣いたりくっついてきたりはしゃいだり、本当に毎日が大騒動だった。いつだって誰かが富士を呼んでいた。富士の存在を求めていた。それこそ一人の時間を作るためには、隠れ家に籠るしか方法がなかった。
 しかし今、実家にいるのは相変わらず多忙な両親のみ。健在な祖父母はそれぞれ両親の兄弟一家と暮らしている。六年前に入社した上の双子は、去年まで揃って東南アジア。この春からは姉が北米で、兄が中国。下の双子は全寮制の高校のハワイ校に通っている。
 実家に帰ったところで、富士には面倒を見るべき相手もいないのだ。家政婦さんがいるから家事すら手伝えることがない。つまり自分はただそこにいて、面積だけ取る物体になる。排泄物以外はなにも生まない厄介者としてとしだけとる。そのうち死ぬ。リアルな展望に視界がよどむ。
 親の意向に逆らって勝手にどこかへ引っ越すことも、実は考えなくはなかった。東京にはこだわらないし、地元以外ならどこでもいい。仕事とすみさえ見つけられれば、と。でも、自由に使える貯金は三十万円そこそこしか持っていない。アルバイトでこつこつと貯めた分だが、見知らぬ土地での新生活を始めるには心許ない額ではある。色々考えてはみたものの、踏み切ることはできなかった。
 富士にはもう逃げ場がない。
 よたよたしながら洗面所に向かう。顔を洗う。スキンケアもそこそこに、ローテーブルの前にべったり座り込む。ノートパソコンは昨夜から開いたままになっている。
 わかってはいるのだ。
 今日はネットなんかしてる暇はない。荷物の整理に本気で取り掛からなければいけない。それはちゃんとわかっている。わかっているけど、でも、どうしても、どうやっても、身体が言うことを聞かない。立ち上がってタスクをこなす気力が出ない。そのタスクが自分の墓穴堀りならなおさらだ。
 スリープからパソコンを立ち上げる。明るくなるモニターをぼんやりと眺める。
 このところ、富士は毎日同じサイトばかり見ていた。
 チケッピオ、という大手のチケット販売会社のサイトで、コンサート、ライブ、演劇など、あらゆる規模の催しのポータルサイトのような役割を担っている。先週「バーバリアン・スキル」「見上げてごらん」で検索して、辿り着いたのがここだった。
 このサイトは、観に行った人が公演の感想を書き込めるようになっている。ほとんどの人が匿名で書き込んでいるが、TwitterやFacebookと連携している人も中にはいて、ぼう中傷や荒らし行為、その手の陰湿さは見られなかった。
 ただ、しんらつではあって、
『バリスキ終わってた(知ってた)!』
 最初に見つけた書き込みがこれだった。
 あの夜、富士は袴姿で部屋まで帰り、着替えた後もまだほうけていた。なかなか正気に返れなかった。あれはなんだったのか。自分はなにを見てしまったのか。頭の中はまったく整理できなかった。寝付けないまま起き出した午前一時、パソコンを開いて検索し、富士はチケッピオに辿り着いた。そして最初の書き込みを見つけた。
 翌朝には二件、増えていた。
『今見たらチケット取扱い停止になってるけどなぜ? 今日のマチネ行く予定なんだけど? 主宰にDM送ってるんですが返信ありません。最初に書き込んだ方、もしまだ見てたらなにか教えてください!』
『最初の方じゃないんですが、劇団の方の知り合いが知り合いです。昨日なにかトラブルがあって、劇場使えなくなったらしいです。残念ながら公演中止だとか。詳しくは私もわからないです。』
 富士はそれを見て、え、と固まった。
 確か公演は六回予定されていたと思う。チラシを確認するとやはりそうだ。それが全部中止ということなのか。あの芝居はもうやらないし、つづきはもう二度と観られないということなのか。謎の異臭が原因なのか。結局あれはなんだったのか。
 答えを求めてさらに検索してみるが、劇団のサイトは相変わらずコヨーテ・ロードキルに飛ばされるし、見つけた劇団員のTwitterアカウントにも去年の十二月初旬以降ツイートはない。最後のツイートは「変な雲。さては俺様を討伐しに来た天界軍か?」……たいした意味はなさそうだった。あとは演劇関係者の相互扶助的なにおいのする公演宣伝ツイートに、個人のツイートが数件。これといってめぼしい情報はない。
 その翌日になって、また書き込みが増えた。
『最初に書き込んだ者です。言葉足らずですいません。開演後、少ししてから異臭が立ち込め、照明がすべて落ち、スタッフの誘導で劇場から避難しました。説明はなにもありません。しかもその間、役者さんと裏方さんはけんしている始末です。後日払い戻しするというので口座番号などメールしたけど、それに返信もありません。友人も同じ状況です。こうなるのが怖かったから袴の人に確認したのに。チケ代返してほしい。他の方は払い戻しされたんでしょうか?』
 読みながら、心臓がギクッと嫌な音を立てた。袴の人、というのは、確実に自分のことだろう。さらに別の人からの書き込みが続く。
『ここを見ていなくて、トラブったの知らずに劇場まで行ってしまいました。やっぱり中止で間違いないみたいです。スマホで撮ってきたので貼っておきます。前売り買ってたんですが、どうなるんでしょう……』
 その書き込みのすぐ下に、劇場の入り口の写真が貼ってあった。小さな画像でも禍々しさは十分に伝わってきて、ほとんど心霊写真のようだ。手前の道路には廃品回収のトラックがまっていて、作業をしている人が映り込んでしまっている。ドアのガラスには紙が一枚。「フリーシアター・レトロは老朽化による設備故障のため、三月二十四日をもって閉館いたしました。」大きなフォントで記されていて、その脇には不動産管理会社らしき電話番号。そして次の書き込み。
『自分も二十三日の現場にいた者です。とにかく残念の一言。これぞバリスキという感じの舞台で初っぱなからエンジン全開、客席も盛り上がってたんですが……。バリスキには個人的に思い入れがあり、つらつら拙ブログに駄文を書いております。』
 書き込みのリンクからブログへ飛んだ。その人は熱心な演劇ファンらしく、劇団四季や宝塚、歌舞伎からバーバリアン・スキルに至るまで、これまでアップした大小舞台の感想は千を軽く超えている。
 そのブログを読み、わかったのは、劇団は去年の十二月にも公演を直前に取りやめるというトラブルを起こしていたこと。その公演の中心になっていた複数のメンバーが、一斉に突然退団したことが原因らしい。
『──それでもモツなら大丈夫だと信じてました。守護神・樋尾さんもいる。最強の女王・蘭さんもいる。劇団の頭脳・蟹江くんもいる。若手たちも育ってきてる。冬メンの離脱があったにせよ、自分が愛したバリスキの根幹は守られていると信じていたんです。でも信じた結果がこれです。バリスキは空中分解してしまいました。念願のNGS賞出品作、それもラストチャンスだったのに……いくらモツでも、もう立ち直れないでしょう。ただ、なにが悔しいって、中断された舞台は本当に素晴らしかったんですよ。あれがまさにバリスキなんです。M大時代からモツと蘭さんを追いかけてきて、五年前のバリスキ旗揚げ公演にも立ち会いました。ずっと大好きでした。あんなの、他にないでしょう? 蟹江くんは舞台上にどんなストーリーを描き出そうとしていたんでしょうか。知るすべはもうありません。今はただただ、残念です──』
 ブログの長い文章を読みながら、富士はいつしか時間を忘れていた。

>>#1-4へつづく ※11/4(火)公開
◎第 1 回全文「カドブンノベル」2019年11月号でお楽しみいただけます。


「カドブンノベル」2019年11月号

「カドブンノベル」2019年11月号


※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。


カドブンノベル

最新号 2019年12月号

11月10日 配信

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP