トイレで手にしたチラシが運命を変える――。受け身系女子の何度でもリボーン物語! 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-2
竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」
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「生きてるー!?」
(……っ!)
驚いて目を見開き、顔を跳ね上げる。
びっくりした。突然の音と声に、驚きのあまり息が止まった。脈も止まったかも。
知らない声だった。
時間が停止したみたいに硬直した富士の目の前に、ひらりとなにかが落ちてくる。ドアにびっしりと貼られたチラシの一枚が今の衝撃で剝がれたらしい。
思わず手を伸ばし、それを摑んでいた。
目に飛び込んで来たのは、斜めに大きく『バーバリアン・スキル』と白抜きにされた文字。
反射的に思った。──これ、知ってる。その次の瞬間だった。
(……あれ?)
突然、心臓の鼓動が大きく
なにかが、変わり始めている。
帯に締めつけられる胸が苦しい。膨らんで破裂しそうだった。爆発しそう。呼吸も速くなる。自分の身体は中身だけ、いきなり全力疾走を始めている。血管をドクドクと大量の血が流れていくのがわかる。通電したみたいに脳が
なんなんだ、と思った。いきなりなにが、どうなった。
(これ知ってる。でもなんだっけ。ええと……だめだ、思い出せない。私、どうしてこれを知ってるんだろう。どうしてこんなにドキドキするの)
富士はぎゅっと眉を寄せて、記憶の底を
バーバリアン・スキル。野蛮人の技術。
それって略奪とか、残忍な
胸を押さえて考え込む富士の耳に、カタン、とドアを開ける音が届いた。そして廊下に出て行く足音。さっきドアを叩いた人が、待ちきれずに他のトイレを探しに行ったのかもしれない。
我に返って、(いけない……)富士は首を振った。どこかへ突っ走っていこうとする自分の中身のその背中を、理性の腕で引っ摑む。この現実へと引き戻す。個室をずっと占拠して、さらにのんびり考え事なんかして、すっかり他のお客さんに迷惑をかけてしまった。腰かけていたトイレの蓋から立ち上がり、さっきまで涙を拭いていたトイレットペーパーを大急ぎで流す。
もう誰もいない洗面スペースに出て行き、一応手を洗おうと思った。その片手には、まださっきのチラシを持っている。つい、もう一度眺めてしまう。B5サイズのありがちな芝居のチラシだ。
キャンパスがあるこの街の沿線には、いわゆる小劇場の聖地がある。だから付近の飲み屋の多くには、演劇関係のチラシやポスターがいつも大量に置いてある。この店もそうだ。トイレにまでその手のものが壁からドアまで何枚も重ねて貼られていて、このチラシもそのうちの一枚に過ぎなかった。たまたま剝がれ落ちてこなければ、あえて眺めることもなかった。
バーバリアン・スキルという劇団の、芝居の公演があるという。
真っ赤な文字で書かれたタイトルは『見上げてごらん』。スモークの中に四人の人物のシルエットだけが黒く浮かび上がるデザインは、シンプルながらどことなく不穏さを感じさせた。今日が初日で、開演は二十時。劇場はここからほんの数駅先。
たまたま手に取ってしまったそのチラシから、富士はまだ目を離せない。知っていると感じるのに思い出せないこの気持ちの悪さ。それまで暗く落ち込んで泣いていたことも忘れ、再び考え込んでしまう。なんだっけ、本当に。
(お芝居ってことは、
須藤くん、という単語が懐かしい。
たった二年ほど前のことだが、自分もあれから色々あった。見合いしたり、結婚を決意したり、捨てられたり。そういえば最近は、あの頃の気持ちを──人間関係で傷ついたことを、思い出すこともほとんどなかった。
我慢できずにスマホを取り出し、「バーバリアン・スキル」で検索してみる。劇団のHPは検索結果の一番目にあった。さっそくアクセスしてみるが、ページを全然読み込まない。そのまま数秒後には自動的に別のページに飛ばされてしまう。飛ばされた先は、コヨーテ・ロードキルというやはり劇団のHPだった。富士は首を捻る。なんとなく語感は似ているが、これらは同じ団体なのだろうか。仲間同士、HPを共有しているとか? よくわからない。
検索し直そうとして、時間に目がいった。またもや我に返る。のんびりスマホをいじっている場合ではないんだった。チラシを畳んで懐の奥に押し込み、急いでゼミのみんながいる座敷の個室へ戻る。
「ちょっと富士、トイレ長くなーい?」
ごめん、と返しながら胸を押さえる。まだドキドキしている。一体どうしてなんだろう。悪い病気? そうじゃないなら、本当になんなんだ。
自分はどうして、バーバリアン・スキルを知っている。
(お芝居を観に行ったことがあるのかな。いや、違うな。だったらもっとはっきり覚えてるはずだし。じゃあなんだ……ああもう、思い出せない! 気持ち悪い!)
「ねえ富士ってば!」
後ろから肩を叩かれて、「え?」顔を上げた。
「なにぼーっとしてるの。もう時間だし、会計しないといけないんだけど」
言われて、「そうだよね」バッグから財布を取り出す。三千四百円をテーブルに置く。え、いくら? なんぼー? つか誰が会計まとめてんの。富士でしょー。富士ー? ふーじー! 酔っ払いたちの声が
「金額は、一人税込三千四百円だよ。会計は」
私が、といつもの癖で言おうとしたが、「俺ポイントほしいからカードで払いたい」と喚く
誰か万札崩してー、と一万円札をヒラヒラさせる奴。「はい、五千円札と千円札五枚」
あーん小銭ないー、とキョロキョロしている奴。「あるよ、五百円玉一枚と百円玉五枚」
富士はいつだって、飲み会の際には、できるだけ細かく崩したお金を用意してある。いつものようにてきぱきと何人分かの両替を済ませて、スマートになった財布をハンドバッグにしまう。二次会はどこなの? 誰かが訊いてくる。カラオケなんでしょー? カラオケー。いえーカラオケいこー! どこの店よ? 誰か調べてんでしょ? だよねー?
ふ───じ────!
「ちょっと待ってね。候補がいくつかあるから、今みんなにアドレス送る」
検索サイトから何軒かを素早く選び、アドレスを貼り付け、LINEで送信。「これでよし……」無意識に小さく
すぽっと抜けた。
そう思った。つんのめるように、富士は急に前へ一歩、大きく踏み出すようによろめいていた。
(……あれ?)
今の今まで、足は自分をここに
後ろを振り返って見た。大きなテーブルに、食べ終えて汚れた皿。半端な量の雑炊が残る鍋。たくさんのグラス。
そんな連中を背後に残し、富士は段差を
戸を開け、外に出て、夜の道をひたすら駅の方へ。自然と足が早まって、そのうちほとんど小走りになる。
バーバリアン・スキルの「見上げてごらん」、開演まであと三十分。大丈夫、間に合うはず。劇場はここから四駅、急行ならたった一駅。駅からは徒歩十三分と書いてある。ちょっと遠いがスマホがあるし、チラシに地図も載っている。
人混みの中を急ぎながら、もはや後ろを振り返ることもない。悩んでもいないし、悲しんでもいない。どうせこの春からはどん底人生、仕事もないし、彼氏もいないし、希望も未来もそもそもない。ついでに友達もいなくなったことぐらい、富士にはたいした違いじゃない。
それよりもとにかく時間がないのだ。今夜だけの話ではなくて、来週には部屋を引き払って、実家へ戻らなければいけない。東京を離れてしまったら、どうして自分がバーバリアン・スキルを知っているのか、気になったって簡単には確かめられない。だから今、行くしかない。『見上げてごらん』を観るしかない。この夜を逃したら、きっと一生もやもやと悩み続けてしまう。
芝居を観るのは二年ぶりだった。もっと正確には、二年と八か月ぶりだ。
須藤
終わってしまったことだから、と、富士は彼をあきらめていた。本当についさっきまで、彼のことは忘れていた。
駆け出した勢いで、もしも、などとつい考えてしまう。
あの頃、もしも彼を追いかけることができていたら、結果は違っていたのだろうか。自分はこんなふうにはなっていなかったのだろうか。もっと違うこの夜を、違う場所で違う人々と、違う自分は迎えることができていたのだろうか。
そっちの自分は、無傷でいられたのだろうか。
*