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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.1

【新連載 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」】卒業式後の飲み会でトイレにこもった女の運命は? 受け身系女子のリボーン物語! #1-1

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」


 両腕が長くなってきた気がする。
 下ろしたら、だらん……と力なく地面についてしまう手を、引きずりながら生きていくことになるのかもしれない。どんな長袖も半袖になるから袖を追加し続ける人生になるのかもしれない。
 そんなことまで想像するほど長い時間を、ここでこうして耐えていた。
 十五分、いや、二十分? もっと? とにかく小五の体感では永遠にも等しい。あとどれだけここでこうしていなきゃいけないのだろう。せっかく海まで来たのに。せっかくの夏休みなのに。せっかくの家族旅行なのに。時間はどんどん過ぎていく。
 真っ白な波にすねそそがれながら、は思った。
 もしかして、『これ』が十一歳の夏のピークなのか。この夏の一番楽しいところは『ここ』なのか。
 火炎放射みたいな太陽光線が脳天からようしやなく降り注ぐ。足下の砂がごっそり波にさらわれていく。うねるような波が沖から次々来襲しては、色とりどりの浮き輪で遊ぶ人々を巻き込み、飛沫しぶきを上げて激しく砕け、平たくなって砂浜へ打ち寄せる。そのたび沸き上がる楽しげな歓声。知らない曲がスピーカーからかんだかく流れていて、でも波の音はそれより大きい。こめかみを汗が伝う。ねこで声と怒るよ声の繰り返しで喉はもうれそう。以上。夏休みの思い出、おわり。
 そうなのか。
 そうなんだろう。
 吸い込んだ頰の内側の肉を奥歯でむと、口の中になにかがまった。知ってる。これはあきらめの味だ。富士にとってはおみの、いつもの味。「諦」という漢字も習わずして、富士はその風味をすでに味わい尽している。
 おそらく、あきらめの境地のど真ん中を狙って自分は生まれ落ちてしまったのだ。神様による運命のストラックアウト、ピッチャーマウンドから投げられた富士の魂がブチ抜いた的は、五枚並んだパネルのまさにど真ん中だった。たつおか家の子の、三番目。
 四番目は右手で捕えている。「うーみっ! うーみっ! うーみっ!」
 幼児用のライフジャケットには股下に通せるしっかりとしたハーネスがついていて、これを選んでよかったと思う。富士がつかんだリードを引きちぎりそうな勢いで、弟は波が連なる海の中へ突進しようと跳ねている。その様はまるで全身が筋肉と言われるエビ、もしくは興奮しすぎて二足歩行になってしまった散歩中の小型犬。後ろ足で波を蹴り上げ、叫びすぎてゼエゼエ言いつつ、ビンビン激しく跳んでいる。そのテンションのすさまじさよ。
 五番目は左手で捕えている。「かーきっ! ごーおっ! りーいっ!」
 こっちも同じライフジャケットの色違い、同じようにハーネスがついていて、やっぱりこれを選んでよかった。富士が摑んだリードを引きちぎりそうな勢いで、妹は浜辺ににぎやかに立ち並ぶ海の家へ突進しようと跳ねている。その様はエビで小型犬でゼエゼエでビンビンで詳細は略。
 要するに富士は、波打ち際で、逆方向に突進しようとしている同じ顔した双子の弟妹に、はりつけのポーズよろしく両腕を引きちぎられそうになっていた。あまりに二人が激しく暴れ、引っ張り合いながら跳ねるから、そろそろ肩関節ごとゴトゴト外れて落ちそうだった。腕が伸びるよりもありえる気がする。
 疲れ果てて泣きたくなりつつ、でもこの状態から脱するすべは思いつかない。何度も何度も何度も繰り返した言葉を、無駄だとあきらめながら、また繰り返すことしかできない。
「順番でしようよ、ね!? お願い! いっぺんにはできないんだから! 泳ぐかお店か、まずどっちか決めて、それをみんなで一緒にやって、そしたらその次に、」
 いぃぃやぁぁだぁぁぁ! びょんびょんびょんびょんびょん!
 波にも負けないボリュームで、嫌がる声だけはれいにユニゾン。双子は富士の肩をいよいよ本気で外しにかかる。「いたいいたいいたい!」思わず悲鳴を上げるが、双子は多分、恐ろしいことに、すぐ上の姉である富士が自分たちと同じく感情があったり痛みを感じたりする人間であることを理解していない。来年には小学生になるというのに、どうしてこんなに聞き分けがないのか。ひょっとしてものすごくアホなのか。それか自分を完全にめ切っているのか。
「もう! いい加減にしてってば! そろそろ本っ気で怒るよ!?」
 すでに十分怒りながら富士もわめいてしまう。自分も双子だったらよかった。それなら弟妹の面倒をそれぞれで見られる。いや、親に弟妹の面倒を見させられることもなく、みんなみたいにやりたいことを勝手にできる。それが叶わなかったのだから、せめて三つめの手がほしい。第三の手が自分にあれば、聞き分けのない双子の頭をバンバン引っぱたいてやれる。いまだかつてそんなことをしたことはないが、想像ぐらいはする。したくもなる。この、悪魔みたいなワンセットめ。喉元辺りからにゅっと伸びる第三の手を高々振り上げ、それ! とばかりにまずはどっちを狙っ──
「ぶへっ!?」
 後頭部にテーン! と衝撃を食らったのは自分だった、という現実を受け入れるのに一秒かかり、受け入れた時には、
「ごばぁっ!」
 鼻と口から激しく水を吸い込んで、せて磔のまま溺れかける。顔面を水鉄砲の的にされたのだ。目の前でやたらとゴツい作りの水鉄砲を抱えて笑っているのは、上の双子の、
「富士を盾にするなんてきようすぎ!」
 一番目。
 極端に派手な造りの美形顔にハート型のサングラスをかけ、高い位置で結んだロングヘアを振り上げてみせる。日本人離れした長い手足にくびれた身体、高校生にして堂々と原色のビキニを着こなして、不敵に笑うくちもとには白い歯がキラーン。そういう水着だとなんか愛人って感じ……とは、思うだけで口にはしない。
「まったく同じ言葉をおまえに返すね!」
 振り返ると、富士の頭に当たって跳ね返ったとおぼしきビーチボールを片手で摑み、二番目も白い歯でキラーン。極端に派手な造りの美形顔にミラー加工のサングラスをかけ、ふんわりとボリューミーにセットされた髪をかきあげる。日本人離れした長い手足に鍛えた身体からだ、高校生にして堂々と原色のボクサーパンツを穿きこなして、兄はどこか変態くさかった……が、思うだけで口にはしない。
 単品でもなんとなく情報が多すぎる姉と兄だった。二人そろえばさらに濃い。顔とか色とか声とかオーラ、とにかくすべてがいちいち過剰で、そして二人はいつもこうだ。競争、張り合い、なんでも勝負。対戦せずにはいられない。今だって富士以下三人のことなど忘れ果て、水鉄砲とビーチボールでひたすらバトルを続けていたのだろう。双子はやっぱりやりたい放題。いつでもどこでも自分勝手。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんもちょっとはこの子たちの面倒みてよ!? さっきからひどいんだよ! 全然言うこと聞かなくて私ずっとここでこうやって、ちょ、やめ……ぶは!」
 水鉄砲をさらに浴びて必死に顔をらす。「あはははは! 逃げるな!」その横顔にバイーン! ビーチボール。「いったい!」バイーン! さらに尻に。富士を狙っているのではないのはわかるが、「ほんと、も、やめ……っ」びょんびょんびょんびょん! うーみっ! うーみっ! かーきっ! ごーおっ! 「食らえ!」「なんで私、ぶはっ!」「あははははは!」バイーン! びょんびょんびょんびょん! 「や、おねが……げほ!」バイーン!
 顔面に水鉄砲、後頭部にビーチボール、そして両腕は引きちぎられる、という状況で、富士はお馴染みの味がまた口の中いっぱいに広がるのを感じていた。いつものように上と下、二組の双子の餌食。これがこの夏の思い出だ。これが自分の人生なんだ。そう諦めかけた時、下の双子が二人同時にチラッと上の双子を見たのに気づく。
 ──チャンス!
 ピンと引っ張り合う力が緩んだ一瞬の隙をつき、富士は身体をひねりながら左右のリードから手を離した。弟妹はそのまま弾丸みたいに飛び出して、それぞれ姉兄にぶち当たる。弟は姉に、妹は兄に。
「盾だよ! 装備して!」
 富士の声に、「おっしゃ使える!」「盾ゲット!」姉と兄は大きくうなずく。同じ動作で新アイテム・盾を抱え上げ、波を蹴散らして駆け出していく。盾にされた弟と妹もはしゃいで笑っているのが聞こえて、富士は安心した。思い付きはうまく運んだ。
 姉兄が一緒なら、弟妹は溺れたり誘拐されたりしない。弟妹が一緒なら、姉兄も本気のケンカになるほどエスカレートしない。そう長くはもたないだろうが、しばらくはああやって四人で平和に遊んでいてくれるはず。みんな安全。そして自分は一時の自由を得る。最高。
 富士はやっと息を整え、散々に引っ張られ続けた肩を回した。頰に貼りつく髪をかきあげ、水着で遊ぶ人々を避けて、一人ビーチを北へ歩き出す。これでやっとしたかったことができる。自由研究のために、きれいな貝殻を拾い集めたかったのだ。
 時々振り返っては双子たちの位置を確かめつつ、人があまりいない岩場の方を目指していく。
 いつも多忙な両親は今頃、涼しいホテルで気絶したように寝ているか、ノートパソコンを開いて仕事をしているはずだった。両親抜きでビーチに向かう時、かけられたセリフはいつもと同じだ。「富士、お願いね」「みんなを頼むぞ」──わかってるって! 思いっきり頷いて、先を駆けていく双子たちを追いかけ、太陽の下に飛び出した。
 六つ上の双子の姉兄と、六つ下の双子の弟妹に挟まれて、富士は龍岡家の三番目の子として生まれ育った。
 双子は大変だ。育てる手間が二倍になるだけではなくて、いうなればお互いが運命のライバル同士。事あるごとにいちいち争い、必死に愛情を奪い合う。どんなことでも無事には終わらず、なんでもないことが大騒動になる。
 だから、下が生まれるまでは上の双子が大変で。下が生まれてからは下の双子が大変で。
 両親はいつしか、富士をきょうだい関係の調整役として扱うようになっていた。面倒な手伝いや頼みごとも、言いつけられるのは富士ばかり。理由は簡単で、富士なら「なんでこっちが!?」「なんであっちが!?」と、双子たちのようにいちいち騒がない。
 上が血で血を洗う取っ組み合いになれば「富士、止めて!」止めに入った富士が一番痛い目を見る。下が揃って泣き叫んでいれば「富士、見てあげて!」まとめて二人を抱え上げ、何時間も背中をさする。上と下がめることもあるし、バトルロイヤルにもつれ込むこともあるし、結託して悪さをすることだってある。二組の双子が絡めば、とにかくあらゆる事件が起きる。でもいつだって最後には、「富士、なんとかして!」だ。富士が、事態の収拾を押し付けられることになる。
 割を食っている自覚はあった。でも、理解できないわけではない。両親は両親で大変で、祖父の思わぬ体調不良から突然事業を引き継ぐことになり、ここ数年は嵐のような忙しさの真っただなかにいるのだ。自分が割を食うことで両親がすこしでも楽になるなら、それでよかった。それに、こどもたちへの愛情がなければ、こんな多忙な状況で家族旅行をしようなんて思いつきはしないだろう。
 一人歩いていく砂浜の足元には、たくさんの石がゴロゴロとしている。
 さっきの騒ぎでビーチサンダルを流されなくてよかった。姉にらされてしまった二本の三つ編みを軽く絞り、ショートパンツのポケットをたたいて確かめる。大丈夫、ジップロックはちゃんとある。集めた貝殻を入れるために家から持って来たのだ。
 遊泳エリアを示す旗を過ぎると、途端に人の姿は少なくなった。うつむいて、いくつか貝殻を拾ってみる。しかしどれも割れていたり、ありがちな地味なものばかりで、自由研究の材料になりそうなのは見つからない。
 サンダルで滑らないように気をつけて、一人、磯の岩場へ入っていく。
 大きな岩を沖の方まで並べて積み上げた堤防を越えると、さらに辺りは静かになった。人影はもはや全くなく、歓声もスピーカーの曲もここまでは届かない。波の音と自分の足音だけが、富士の耳には聞こえている。海の方から陸の方へ、岩を辿たどって視線を動かしていく。

 そこに、その舟はあった。

 大きな岩に立て掛けられた、木でできた小さなぎ舟。
 波飛沫も届かない乾いた砂浜に船尾を埋め、船底を外側に向けてさらし、傾きながらさきで岩にもたれている。
 放置されて長いのか、船体には鳥の糞や磯の生物の殻みたいなものが分厚くへばりつき、塗料は完全に剝げ落ちて、白っぽく乾燥し切っていた。きっとこのままボロボロと崩れ、朽ち果てて、時間とともに自然に還っていくのだろう。
 立て掛けられた内側の空間には光が届かず、真っ暗な洞穴のように富士には見えた。
 もちろん、みだりに近づいてはいけない。まともな分別があれば誰だってそう思うはずだ。倒れたりするかもしれないし、持ち主もわからない。きっとすごく危ない。そのままきびすを返そうとする。
 しかし、ふと、思ってしまった。
(あの舟の下に、綺麗な貝殻があったりして)
 振り返り、舟を見る。
 誰も近づかないからこそ、誰にも見つからずに残されたものがあるかもしれない。誰も見たことがないような、信じられないほど美しいもの。人魚姫の宝のような、この世界の秘密をぜんぶ封じ込めたもの。
 そういうものがあるのかもしれない。見つけられるかもしれない。もしかしたら……。
 いきなり気持ちが膨れ上がり、鼓動が速く、強くなる。考えがまとまるのを待つこともできず、足は自然と舟へと近づいていってしまう。
 これはいけないことだった。してはいけないとわかっていることを、したいと思ったことはない。でも、今はしたくてたまらない。今なら誰もいない。今を逃したら、二度と叶うことはない。
 自分でも自分を抑えられないことに驚きながら、吸い込まれるように身をかがめ、富士はそろそろと朽ちた舟の下に潜り込んでいった。岩と船の隙間にできた影の中は、すっぽりと全身が納まるほどの空洞になっている。
 膝をついた黒い砂地には、いくつもの白い点のようなものが見えた。つい手を伸ばすと、その手の甲に白い点が移る。それは光の点だった。見上げると、斜めになった屋根のように頭上を覆う船体にいくつもの穴が開いていて、そこから光が筋になって、影の中に白く落ちてきているのだ。
 光線は、まるで雨のよう。
 腕を伸ばせばその腕に、足を伸ばせば膝に脛に、手を出せば手の中に、光の点が白くともる。自分の肌に水玉模様ができるのがおもしろくて、富士はしばらく夢中になって手足を動かし続けた。
 そのうちに、気が付いた。
(……ここ、すっごく静か)
 この暗がりの中にいると、さっきまでいた真夏の浜辺の騒々しさがまったく感じられない。しゃがみこんだ富士だけを内側に隠して、現実のけんそうから完全に遮断されている。波のさざめきすらどこか遠く、耳に聞こえるのは自分の息の音ばかり。
 尻を砂にぺったりと落とし、立てた両膝を強く抱えた。降り注ぐ斜めの光線の中で、富士は動きを止める。なんとなく息もひそめる。
 ここにいれば、誰にも自分は見つけられない。
(私だけの秘密の隠れ家だ)
 抱えた膝に頰を埋め、目も閉じる。
 なんて落ち着くんだろう。ここは安全。泣いて喚いて追いかけてくる、下の双子のわがままもここには届かない。破壊的な上の双子の無慈悲な攻撃に巻き込まれることも心配しなくていい。
 一人でいられる時間と空間が、富士にはあまりにも足りていなかった。
(こんなに静かなら、『あの子』の声も聴こえてくるかも……)
 いつしか自然とまどろみ始める。
 こんなふうに一人で静かにしていられるのは、それこそ母親のおなかの中にいた時以来かもしれない。あの十か月、富士は確かに一人でいた。でも上と下の双子たちは、生命として発生したその瞬間から一人になったことがない。姉や兄、弟と妹は、こんな静けさを知らないまま、二人で生まれてきて、二人で生きてゆく。それが当たり前のこととして。
 なんで私だけ双子じゃないの、と、富士は何度も大人にいた。きょうだいの中で自分だけが違うことが純粋に不思議だった。自分だけなにかが足りなくて、欠けてしまったようにも思えた。
 でも、誰に聞いても答えはいつも同じ。それが普通なんだよ。双子の方が珍しいんだよ。
 納得はできなかった。
 世の中的にはそうだとしても、龍岡家では双子が普通だ。自分はなぜ一人で生まれてきたのか、そんな疑問が解けることはなかったし、本当はどこかにいるんじゃないのか、そんなふうに想像することもやめられなかった。
 富士は、『あの子』を探している。
 誰にも気付かれず、誰にも見えず、家族すら存在を知らない、透明なもう一人の自分自身。
 どんな子なのか、富士にもわからない。どこにいるかもわからない。『あの子』は見つけてもらえる瞬間を、どこかでずっと待っているのかもしれない。ずっと呼んでいるのかもしれない。静かなところで耳を澄ませば、いつかその声が聴こえるのかもしれない。
 見つけたかった。知りたかった。その子の存在を、感じたかった。一緒にいられればなにも足りなくない。強くなれるし、すごく楽しいに違いない。
 しかしそんな想像を膨らませることすら、普段の日々では難しい。一人になんて、なかなかなれない。一人にならなければ、一人じゃないことは感じられない。一人になって、一人じゃなくなりたい。こんな複雑な心境を分かってくれる人はいるだろうか。
(あーあ……ここにずっと、隠れていられたらいいのに。ずーっと、こうしていたい。弟も妹もうるさいし、言うこと全然きかないし。お姉ちゃんとお兄ちゃんは自分勝手で乱暴だし。もうやだ。ほんっと、もう、疲れちゃったよ……)
 長い長いため息をついて、そのまましばし目を閉じたままでいる。でも、いつまでもこうしてはいられないこともわかっている。
 やがて富士は目を開け、またため息をつき、顔を上げる。
 隠れていられるひとときはこれで終わり。もうみんなのところに戻らなくちゃいけない。
 膝をついて、舟の影からい出す。途端に太陽のまぶしさに目を射られ、手で陽射しをさえぎる。
 そろそろ下の双子が泣きだす頃だ。あの子たちは姉と兄が大好きだけど、年上二人の乱暴な遊びにそれほど長くは耐えれらない。
 磯の岩場を歩き出し、来た方向へ戻りながら、そういえばまだ貝殻を見つけられていないことを思い出す。足元を見やる。貝殻、貝殻、貝殻──
(かい、がら)
 立ち止まり、振り返る。
 舟はまだそこにある。
 今までも、これからも、ずっとだ。
 音も立てず、そこに停止したままで、いつか朽ち果てる日をただ待っている。
 富士は、なぜだか「なきがら」という言葉を頭の中に思い浮かべていた。漢字はわからないが、死んだ人の身体をそう言うということは知っている。
 じゃああれは、舟のなきがらなんだろうか。死んだ舟だから、そう呼んでいいのだろうか。
 乾いて傷んだ船体は穴だらけで、すこし離れたここから見ても、死んでいることは明らかだった。あれはもう水に浮かばない。それはつまり、舟にとっては死を意味するはず。
 昔は誰かがあれに乗り、打ち寄せる波を割って漕ぎ進み、この海を自由に駆け巡っていた。どこまでも遠くへ疾走していた。でも壊れて、使えなくなった。だからああやって置き去りにしていった。捨ててそのまま忘れてしまった。もう誰も捜してもいない。
 舟は死んでいる。
 たまに誰かが偶然に見つけて、すこし触れては、またこうやって置き去りにしていく。
(……かわいそうだね)
 富士もこの死んだ舟を、背後に残して去っていく。
 ここにずっと隠れていられたら、と思ったのはついさっきのことだ。でも、撤回する。一人でいるのは落ち着くし、好きだけど、騒がしい家族みんながいつもそばにいるからこそそう思えたのだ。本当にずっと、これから先も永遠に一人でいたいわけじゃない。そんなの想像することもできない。耐えられないほど寂しい。
 その耐えられないほどの寂しさの中に、死んだ舟はこれからもずっと置いて行かれる。
 波は、舟のある場所までは届かない。舟は、海を懐かしんでいるだろうか。海を走るために作られた、そのための存在だったんだから、きっと懐かしいだろう。でもその懐かしさもやがて消えていく。時とともに乾いて崩れ、風に舞ってちりとなり、砂に混じって吹き飛ばされて、この世界から消えていく。存在していた痕跡も残さずに、なくなっていく。自分がなんのために生まれてきて、なんのために生きたのかも、大事なことはすべて忘れて、ただ、なにもかも失われていく。
 富士にはなにもできない。
 置き去りにされてこのまま朽ち果て、消えていくだけの死んだ舟に、自分ができることはなにもない。
 来た方へまた歩き出しながら、しかし何度も振り返る。何度も何度も、ここに残していくものを見る。でももう行かなくちゃ。みんなのいるところへ戻らなくちゃ。富士は一歩ずつ、死んだ舟から離れていく。進むたび遠ざかり、舟はいつしか岩の陰に隠れて見えなくなる。
 自分もいつか忘れてしまうのだろうか。
(生き返れたら、いいのにね……)

 そうしたら、いつかまた、そのときに──


カドブンノベル

最新号 2019年12月号

11月10日 配信

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