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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.5

受け身系女子が小劇団の団長と邂逅! ここから人生が変わる⁉ 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-5

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、2020年1月10日(金)までの期間限定公開です。

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 店の中央付近のテーブルに座り、ロイヤルミルクティーとサンドイッチのランチセットをそれぞれ注文した。
 おしぼりで手を拭きつつ、富士はちょっと言葉を探す。目の前にある水のグラスを手に取り、とりあえず沈黙をごまかそうとする。テーブルの真向かいには須藤。目の縁をまだ赤くしたまま、視線が合うとはにかむように微笑んでくれる。相変わらずおしゃれだし、髪も肌も本当に綺麗だ。その笑顔につい、吸い込まれるように見とれてしまう。その唇がふとゆるみ、「で、」と声を発する。
 続く言葉を待って、富士は背を伸ばした。すこしだけ水を飲んで心をしずめる。やっぱりどうしても緊張してしまうが、もういい大人なのだ。どんな話が始まろうと、ここは落ち着いて受け止めよう。
「バーバリアン・スキル、どうだった?」
「ぶはっ!?」
 口に含んだ水を勢いよく鼻から噴いた。「……えほっ! げほ……っ!」
「やだ、大丈夫?」
 須藤におしぼりを手渡してもらいながら、富士はみじめにもんぜつする。テーブルに顔を伏せてもまだ咳き込むのが止まらない。一体なんなんだ。突然、どうしてそんな話になる。
「お水、そんなに意表をつく味だった?」
「……そ、……そうじゃ……」
「炭酸水だったとか? それともレモン水? まさかのレモン炭酸水?」
「そうじゃ、なくて……! なんで!? なんで急に、そんな話を!?」
「え? だって観に行ったんでしょ、バリスキの『見上げてごらん』。幻の初日になっちゃったみたいだけど」
 須藤の口からこの話題が出てくるなんてあまりにも予想外だった。というか、
「……こわっ……」
 思わず口に出してしまう。だって、須藤とはこれまで数年にわたって没交渉だったのだ。先週の自分の行動を、その須藤が知っているなんて絶対におかしい。
「怖いって、なにが?」
「……須藤くんが……」
「うそ、どうして? 変なの、なにをいきなりそんなに怯えているの?」
 きょとん、と不思議そうに小首をかしげ、須藤はけがれなき瞳をキラキラと輝かせている。再会の感動などとっくに消え失せ、その瞬きすらもはや怖い。サイコなストーカーにしかもう見えない。いたのか? あそこに。見てたのか? 自分を。まさか、後をつけていたとか? いつも行動を探っていたのか? でもいつから? もしかしてずっと? 考えれば考えるほど怖さは増していく。
「ちょっと龍岡さん、なにか勘違いしてない? 蟹江さんが教えてくれたんだよ。知ってるでしょ?」
「そんな人知らないけど……」
 脳内に流れ出すのはクリミナル・マインドのテーマ曲。馬鹿だった。なんで一通メッセージが来たぐらいで、自分はのこのここんなところまで来てしまったんだろう。勢いだけで行動なんてするべきじゃなかった。でも、ここでくよくよ後悔してももう遅い。とにかく隙を見て店から出なくては。ストーカーを刺激しないよう、テーブルの下でそっとバッグを摑む。椅子から立ち上がりかける。
「知ってるってば。ほら、バリスキの蟹江りようさん。演出と脚本の。龍岡さんが飛び込みで来て、チケットを買ってくれたって言ってたよ?」
 そのとき、
「あ……?」
 急に閃く記憶があった。
 チケット。蟹江さん。バーバリアン・スキル──そういえば、受付で話していた女性二人組は、あの中坊を演じた猫背パーカー男を、蟹江さん、と呼んでいた気がする。
「蟹江さん、龍岡さんのことすぐわかったみたい。もう二年ぶり? それどころじゃないか、三年ぶり? ほら、前にクリーマーのセット改修を手伝ってもらった時以来だから」
「あぁ!?」
 鋭く声を上げてしまった。須藤がいぶかしげに富士の顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「……いや、なんか……今、脳の配線が……やっと、つながったかもしれない……!」
「それって切ったらだめなやつじゃない?」
「だよね……」
 クリーマーの、大道具の作業を手伝ったあの日だ。あれからあまりにも色々なことが起きたせいか、すっかり忘れ果てていた。
 声をかけてくれたたくさんの男女の中に、『えっと、初めまして』ンフ、と笑う、あの顔があった。
 そうだった。あったのだ。工具に貼ってあった富士山のシールを指差して、『登ったんですか』と話しかけてきた。そのシールは、毎年の富士の誕生日に、上下の双子が色々なところで買い集めて来てはプレゼントしてくれるお約束の「富士マーク」だった。
『そうじゃないんです。私、たまたま名前が富士なので』
『あ、テニプリの』
『いえ、下の名前が。富士山の富士です。初めまして、龍岡富士といいます』
 改めて頭を下げ合って、
『あ、えと、蟹江です。蟹江亮』
 あの男は言った。そう名乗った。思い出した。
『今日は僕も手伝いで来てて、その、クリーマーって結構友達っていうか知り合いっていうか先輩とか、へへ、まあいろいろ、多くて、ええと……僕はバーバリアン・スキルっていう劇団をやってます』
 人のさそうな垂れ目に細い顎、色白で猫背のひょろりとした見た目には、あまりにもバーバリアン感がなかった。野蛮人の技術……つまりそれって略奪とか、残忍な殺戮とか? 似合わないなあ、と富士は思った。
『あの、龍岡さん。もしよかったら、今度うちの劇団の大道具も手伝ってもらえませんか?』
 どう答えたのだろう。今はっきりとは思い出せない。ただあの時は本当に楽しかったから、いいですよ、とか、軽く引き受けた気がする。
 とにかく、これで謎が一つ解けた。
 やっぱり自分は、バーバリアン・スキルを知っていたのだ。かつて蟹江と出会っていた。たったそれだけのことだった。受付にいた蟹江のあの態度も、知った顔が突然現れて驚いたせいなのだろう。覚えていなかったことを悟られただろうか。自分は失礼だっただろうか。考え込んでしまいかけて、
「龍岡さん? 大丈夫?」
 はっ、と我に返る。須藤が目の前で手を振っている。「あ……ごめん」いや、本当にごめん、だ。須藤のことをサイコだのストーカーだのクリミナル・マインドだのと思ったことを、富士は心の中で力いっぱい謝る。須藤はなにも悪くない。自分の脳の配線が間抜けに切れていたのが悪い。
「……ちょっと、前からずっと思い出せなくて、モヤモヤしてたことがあって。今、それがスッと晴れたからひそかにびっくりしてた……」
「そうなんだ? よかったね」
 うん、と頷き返しつつ、しかしまだ不思議なことがある。「たったそれだけのこと」だったにしては、あの夜の自分の盛り上がりは尋常ではなかった。あんなにも夢中になって、不整脈を疑うほど胸を激しく高鳴らせ、一人走り出した理由はなんだったんだろう。あの時はショックなことがあったから、過剰反応してしまったのだろうか。あるいは本当にどこか悪いとか。
「もしかして蟹江さんのこと、忘れてた?」
 須藤の言葉に、もう一度頷く。「きれいに忘れてた」
「あはは、ひどーい」
「だからさっき須藤くんがバリスキのことを聞いてきたとき、ストーキングでもされてたのかと思っちゃって。なんで知ってるの? まさかつけてた? みたいな」
「それであの怯えようだったんだ。でも、だったらどうして『見上げてごらん』を観に行ったの? 蟹江さんのことは忘れてたのに」
「バーバリアン・スキル、っていう言葉の印象だけはうっすら記憶に残ってたんだよね。先週の卒業式の後、居酒屋で偶然あの公演のチラシを見て、なんだっけ、知ってる気がする、ってどうしても気になっちゃって、気が付いたら劇場まで行ってた」
「ああ、チラシか。確かにあれ、結構いろんなところにいてあったもんね」
 テーブルに注文していたランチのセットが置かれる。「食べよっか」と須藤に促され、紙に包まれたサンドイッチを手に取る。剝いてみれば予想と反してバゲットサンドで、一口かじろうとしてびっくりした。前歯が、まったく通用しない。ものすごく硬い。どうしようもなく、富士はとりあえずバゲットサンドをそのまま紙に包み直して皿に戻す。須藤は「あっ、硬、え、すご……っ」無理矢理かじろうとした結果、生ハムとレタスの中身だけがずるずると出て来てしまって、それも嚙み切れず、とりあえず口の中一杯に指を使って押し込み、もぐもぐとしばし苦しむ。
「……一口で、具を全部食べちゃったんだけど。この先、この具のない硬いバゲットを一体どうしたらいいの……」
「須藤くんはいつもこのお店来てるんでしょ? いつもはどうやって食べてるの?」
「いや、ここ入るのは初めてで」
 具のなくなったバゲットを皿に置き、口を拭き、須藤は改めて視線を富士に向けてくる。ロイヤルミルクティーを一口飲んで、おもむろに、「話していい?」などと聞いてくる。だめなわけがない。そもそも富士は須藤の話が聞きたくて、ここまで電車を乗り継いで来たのだ。「もちろん」頷いてもう一度背を伸ばし、話を聞く体勢を作る。そうして須藤の目を見返すが、
「すごい、嬉しかったんだ」
 須藤は、その目を伏せた。
「蟹江さんから、龍岡さんが来てたって聞いて。……ほんと、すっごく、嬉しかった」
 口許は穏やかに微笑んでいるが、その表情はどこか苦しげにも見える。彼はなにか、話すのにエネルギーがいることを、富士に話そうとしてくれているのかもしれない。
「龍岡さんは、演劇、嫌いじゃなかったんだね」
「……え?」
「そのことが、やっとわかった。一人で卒業式の後に着物のままでバリスキ観に来るぐらいなんだから、絶対に嫌いなわけがない、って」
 急な展開についていけず、富士は首を傾げてしまった。わけがわからない。演劇が嫌いとか嫌いじゃないとか、一体どこからそんな話が出てきたのだろうか。
「ほら、大学にいた頃。龍岡さんを、いろんな劇場に連れ回したじゃない? あれ、実はもしかしてすごく迷惑なことをしてるんじゃないかって結構不安に思ってたんだ。小さい劇場とか、古くて狭くて、えーって感じのところもあったし。チケット代だってかかるし。龍岡さんを、強引にこっちの趣味に付き合わせてるんだとしたら悪いなって。それでね、」
「ちょ、ちょっと待って」
 口を挟まずにはいられなかった。
「須藤くんは、私が演劇を嫌ってる、楽しんでない、って思ってたの?」
「……うん。かも、って。前は……」
「そんな……どうして? 私、本当に楽しかったよ? いつもすごく楽しかった。須藤くんがお芝居に誘ってくれて嬉しかった。嫌だったことなんて一度もない」
「そっか」
 須藤はまたすこし目を潤ませ、それを隠すみたいに俯いてしまう。
「……でもあの頃は、わからなかったから」
 どうして、とまた訊ねてしまいそうになって、富士はそれを飲みこんだ。
 そう思わせたのは、自分なのかもしれない。
 考えてみれば、さっき言ったようなことを、これまで須藤にちゃんと伝えたことはなかった。もちろん態度では楽しい、嬉しいと示していたつもりだ。でも、はっきり言葉にはしなかった。当然わかるだろうと思っていたのだ。自分の気持ちは人に伝わるのが当然のことだと思い込んでいた。それに須藤は優しいし、繊細だし、いつも自分に気を使ってくれる。そういう人なのだから、楽しんでいることぐらい当たり前にわかってくれるはず。察してくれるはず。そういう甘えが、富士の中には確かにあった。
「……わからないでいた頃は、とにかく、自分の中で勝手にいろいろ想像するしかなくて。考えれば考えるほど、よくないループにはまるような感じで」
 そして富士の方は、そんな須藤の気持ちなど、まったくわかってはいなかった。自分に向けてくれている表情しか見ず、より深い部分、須藤が見せない部分のことを、わかろうとしてはいなかった。
「夏、龍岡さんとずっと会わないでいたじゃない? こっちの勝手な想像の中で、地元にはもっと本当に仲いい子とかいるんだろうな、大学用の友達に用はないんだろうな、とか……あーやっぱな、みたいな感じに、思ってたんだ。もうこれ以上無理してこっちに合わせてくれなくていいよ、みたいな。一人で勝手に妄想して、馬鹿みたいにねてた」
 富士はその頃、忙しい須藤に不要な連絡などしたら迷惑だろうと思っていた。そう思い込んでいた。
「ちょうど親と色々、大学を辞める辞めないとか……他のことでも揉めたりしてたのもあって、自分のことなんか誰も受け入れてくれない、否定されるだけ、どうせわかってくれない、とか、暗く考えてたんだ。だから……いつか拒絶されるなら、先にこっちから拒絶しよう、って。こっちから切れば切られたことにはならない、とか、思った」
 切られた時の痛みが、胸によみがえる。驚いたし、自分の無価値さを宣告されたようだった。それまでのことすべてが噓で、消え失せてしまったようだった。
「……だから、龍岡さんには、大学を辞めることを話さなかった。わざとそうした。仕返しみたいに」
 そして自分は、そうした須藤に連絡を取ろうとはしなかった。
「急に関係を断つようなことをして、本当にごめん」
「……須藤くん」
 深く俯いた須藤の顔が、喘ぐみたいに苦しげにゆがむ。鼻も目元も、また赤くなっていく。
「あれからずっと後悔してた。本当にずっと……。ごめんね、龍岡さん……」
 目蓋を押さえた手の甲に、透明な涙が伝うのを見てしまう。
「もう、謝らないで」
 須藤だけが悪いのではないのだ。今、はっきりとそう思う。
 須藤と出会う前、自分はすごく寂しかった。地元を離れ、実家を離れ、いつも一緒だった双子たちとも離れて、友人もおらず、孤独だった。一人暮らしは一人で隠れ家にいるのとはまったく違う。目を覚まし、家を出て、帰って来て、目をつぶる。なにをしてもずっと一人で、そんな自分を誰も知らない。自分を捜す人もいない。いるもいないも関係なくて、隠れるも見つかるも関係なくて、自分はただの無でしかなかった。
 そんな時に、やっと出会えたのが須藤だった。せっかくできた友達を失うことがとにかく怖かった。
 須藤にだったら、なんでも合わせたと思う。一緒にいたいあまりに、誘われればなんだってしただろう。演劇じゃなくてもよかった。たとえばスポーツをしたり観戦するのでも、車とか旅行、ゲームでも、ただ飲むのでも、買い物するでも、なんでもよかった。そして須藤も、そんな富士の主体性のなさをどこかで感じ取っていたのだろう。だからこそ、あんな不安にとりつかれたりしたのだろう。
 でも、富士が魅力を感じた須藤という人間の人格は、演劇の世界で育まれたものだった。
 そして須藤に誘われたことで偶然に出会った演劇の世界には、本当に強く心を惹かれた。
 触れてみれば、楽しかった。そのまま好きになりそうだった。なにかを見つけられそうだった。この世界に加わることができたら、そんなふうに夢を見た。
 しかし、その気持ちを伝えるのを怠ってしまった。伝えなきゃ、とも思わなかった。須藤ならわかってくれるはずだと甘えてしまった。その結果、須藤に背を向けられた。そして、自分はそこから動かなかった。自分にそんな資格はないと、自分自身で決めつけた自分自身の枠の中から、一歩も踏み出そうとはしなかった。
 伝えたいことを伝えるために表現する。そんな当たり前のことを、自分はちゃんとやってこなかったのだ。人間という生き物に生まれて来て、言葉というコミュニケーションの術だって持っていたのに。恐らくそんな自分だったから、人の中では孤立した。須藤にも去られ、一人ぼっちだった。
 今からでも伝えられることはあるだろうか。まだ間に合うだろうか。もう遅いのかも。そう思いかけてやっと気が付く。
 須藤がここに来た理由。それはきっと、
「……私、あの頃、本当に楽しかったよ」
 もう一度、やり直すチャンスをくれるため。
「須藤くんと一緒にいて、演劇の世界を垣間見て、毎日が楽しくてたまらなかった」
 おしぼりで目元を拭き、須藤は視線を上げる。その目をまっすぐに見て、富士は言葉を継ぐ。やり直させてもらえるなら、それが嬉しいと思うなら、今度こそそう伝えなくちゃいけない。店内の雑音に負けないよう、富士は必死に声を張る。
「お芝居を観るのもそうだし、大道具の手伝いさせてもらったのも。私、すっごく楽しかった。ちゃんと言えなくてごめん。不安に思ってるなんて知らなかった、本当にごめん。気が付けなくてごめん。こうやってまた会いに来てくれてよかった。ありがとう。私、須藤くんに、また会えて嬉しい」
 そう言いながら、だめだ。声の最後が震えてしまう。強く唇を嚙んでこらえる。
 須藤の声も、同じぐらい震えていた。「……急にいなくなったこと、もう、怒ってない?」
「最初から怒ってなんかないよ。ただ、寂しかっただけ。ずっと、すごく、寂しかった。でももういいんだ。……バリスキ観に行って、本当によかった!」
 思いっきり笑顔を作り、富士は精一杯の明るい声を腹から出す。
「須藤くんは、バリスキの話をするためにメッセージ送ってくれたんだもんね!?」
 須藤は振りかぶるように大きく頷いて、「そう、バリスキ……!」弾けるように笑って、また目元を拭った。その指が震えている。もちろん、本当はそうじゃないとわかってる。ただ会いたいと思ってくれたのだと、ちゃんとわかっている。富士の目にもまた涙が滲んできてしまう。笑ったり泣いたり、顔が忙しい。
「なんか『見上げてごらん』、大変だったんでしょ?」
「そう、すっごく大変だったんだよ。観られたのって多分、十分とかそれぐらい」
「くさかったって聞いたけど、ほんと?」
「ほんとほんと、いきなりめちゃくちゃくさくなったの。急にだよ、なんの前触れもなく気づいたらすっごいくさくて、くささの向こうでステージがしんろうみたいに揺れてた」
 須藤はくしゃっと目元を崩し、仰け反って笑い出す。「なにそれ!」本当にそうだ。なにそれ、だ。
「でもそれまでは最高だった! なんだったんだろうあれ!?」
「なんだったって、バリスキだったんだよ! ダンスとかもう色々すごくない? すごかったでしょ!?」
「すごいなんてもんじゃなかったよ! 登場する時、スモークの中からレーザーの光が何本も伸びて、いきなり三人の影がぶわって……ああ! 今思い出しても鳥肌立つ……!」
「だよね!? 鳥肌だよね!? いきなり別世界だよね!?」
「別世界! それ! 連れて行かれたの!」
「ああもうやっぱバリスキはそうなんだよ! 一気にどこかへ連れて行かれるんだよ!」
「須藤くんも観たことあるんだ!?」
「あるあるある! そりゃあるってば! もう四本、や、五本は観てる! どれも最っ高、畳みかける展開で呆然、気が付いたらまったく予想外の地点に突き落とされるの! あの感覚って空前絶後!」
「私は十分しか観てないよ! うわ、どうしよう、そんなの聞いたら余計つづき観たくなっちゃう!」
「途中でブチ切りなんてありえない、絶対だめ! 観なきゃだめ! バリスキは最後まで観なきゃだめ!」
「やだもう苦しい! つらい! どうしたらいいの!? 耐えられない!」
 足をばたつかせてもだえる富士を見て、須藤は「はいきた!」勢いよく片手でテーブルを叩く。その指をまっすぐ突き付ける。
「龍岡さん、完全に嵌ったね? バリスキに!」
「嵌っちゃった……! しかも、たった十分で」
 真正面で「コスパよすぎじゃない!?」大笑いする須藤の声を聞きながら、富士は仰け反って天井を仰いだ。降参のポーズで、感慨に浸る。
 あの夜、バーバリアン・スキルは難破船だった。
 死んだ舟にしか見えなかった。
 しかし今、こうして確かに須藤と自分を結び付けている。二人を同じ場所へ連れて来てくれている。同じ場所まで、運んでくれている。
 死んだ舟にはもう力はないのだと、かつて考えたことを思い出す。死んだ舟は結局死んだ舟でしかない、と。
 でもまだこうして、運べるものがあった。
 二人の人間を運んできて、同じところに結び付ける力を、バーバリアン・スキルはまだ持っていた。
 富士の脳裏には、ボロボロに傷つき朽ち果てた舟が、虚ろに海を漂う光景が浮かぶ。でもその内部にはなにかがあるのだ。まだちゃんと、それはある。それを感じる。富士にはわかる。
(誰も見たことがないような、信じられないほど美しいもの。人魚姫の宝のような、この世界の秘密をぜんぶ封じ込めたもの……)
 それがあることを忘れちゃいけない。
 絶対に、忘れちゃいけない。
 なぜならそれがある限り、それがあることを忘れずにいる限り、舟は何度でも──
「つづきを、」
 なにかに導かれるように、富士は思いを言葉にして口に出していた。
「公演のつづきを観るには、どうすればいいのかな? どうすればいいと思う?」
 そうだな、と須藤は指先で顎にちょっと触れ、
「バリスキの人に直談判すればいいんじゃない? 再演して下さい、って」
 軽い感じでそう言うが。
「いきなり私が直談判したって、こんな素人の話なんか聞いてくれないでしょ。ニワカってレベルにすら達してないし」
「蟹江さんは聞きたがってると思うけど」
「そんなわけないって」
「あるってば。龍岡さんに連絡とりたいからそう伝えて、って頼まれてるし」
「えっ!?」
 声が妙に甲高く響く。突然の展開すぎて、一瞬気が遠くなる。な、なんだって? おばあさんっぽく耳に手を当てて訊き返したい。連絡? 自分に? なんで? 考えてすぐ、
「……ああ……っ」
 その理由がわかった気がした。思い当たることは一つだ。やばい、と声が漏れる口を両手で押さえ、富士はしばし息を飲む。これはやばい。
「もちろん、いやなら蟹江さんにはうまく伝えておくけど」
「待って、違う、ダメ、じゃ、ない……の」
 あの夜に、しゃしゃり出た件だ。絶対にそうだ。蟹江が自分に連絡を取りたがっているとしたら、理由はそれしかない。スタッフでもないのに勝手なことをやらかしたあの件。
 富士は焦った。とにかく謝罪をしなければ。それも早急に。できれば向こうから怒られるより先に。
「私、蟹江さん……ていうか劇団の人に、会って、ちゃんと話をしないと……」
「あ、ほんとに?」
「とにかくまずはメールしなきゃ……」
「そんなのしなくて大丈夫でしょ」
「いやいやだめでしょ! こういうのは初動が肝心なんだよ、ちゃんとアポを取って、それで改めて、」
「でも蟹江さんと南野さん、あそこにいるから」
「ええ!?」
 頭がもう、全然ついていけていない。須藤が指さす背後を勢いよく振り返りながら、胴体がじ切れそうになる。
 二人の男が、なぜか仲良く横並びに座って、こちらを見ていた。
 おどおどとした笑顔で片手を上げたのは、蟹江。
 そしてその隣、サングラスをかけたまま腕を組んでいる大柄な男。
「いや、待って……待って。……須藤くん、あの人たちを、ここに呼んでたの……?」
「呼んでないよ。だから今、結構びっくりしてる」
 須藤はスマホをちらっと見て、ふんわりと穏やかな笑みを浮かべた。桃色の花びらがひらひら舞い散るエフェクトが似合いそうな、完璧な美男子スマイルだった。
「……それが、須藤くん的には、びっくりした顔なの……?」
「龍岡さん、今日は本当にありがとう。話できて本当によかった。また前みたいに仲良くしてくれる?」
「それはいいんだけど、え、なんでもう行くね的な雰囲気を出してくるの……?」
「もっと色々話したいけど、もうバイト行かなきゃ。あ、ここは出させてね」
 伝票を摑むなりひらりと立ち上がり、須藤は富士に手を振った。そして二人組に、「すいません、俺バイトなんで」軽く頭を下げて見せる。スマホで会計を一瞬で済ませ、そのままスマートに店を出て行ってしまう。須藤が去って空いたテーブルには即座に二人が近づいてくる。テーブル前で二手に分かれ、一人は右から、一人は左から。まるで挟み撃ちにされるみたいに、富士は椅子から動けない。

#1-6へつづく
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