境界線を消したい少女と、境界線に抗う少年の、ボーイ・ミーツ・ガール! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#1-10
河野 裕「昨日星を探した言い訳」

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幕間/二五歳
茅森良子
二五歳になる誕生日は、特別な日だ。それは日本国憲法によって定められている。私に被選挙権が与えられる日。
その前夜に、古いトランクを開けた。そこに収まっているのは、いってみれば形を持った思い出だ。制道院の寮を出るとき、日用品の類は段ボール箱に、もう使う予定はないけれど捨てるに捨てられなかったものをこのトランクに詰めた。それきり一度も開いていなかった。
中身はたとえば、電池が抜かれた置時計、月明かりに照らされて握手を交わす写りの悪い写真、表紙がしわくちゃになった脚本、妖精と花の絵が描かれたカードの束、リングでまとめられた古風な鍵が六本、それから赤いトランシーバー。その中から六本の鍵とトランシーバーを選び取り、普段使っている
八月二七日、誕生日の朝、私は午前七時に目を覚ました。なにかひどく懐かしい、胸に染み込むような夢をみた気がするけれど、具体的な記憶はなかった。ただそのせいで泣きたいような気持ちになり、しばらくベッドの中で目を閉じていた。
──坂口孝文。
彼は今日、制道院に現れるだろう。必ず。そして私にも、すでに選択肢はない。私はもう一度、彼と話し合わなければならない。
実のところ、私はずいぶん長いあいだ悩み続けていたのだ。二五歳の誕生日に制道院に戻るのか、戻らないのか。坂口孝文に再び会うのか、会わないのか。彼を許すのか、許さないのか。
だが、答えは先月に出た。
私は決して、坂口孝文を許しはしない。
*
先月、結婚披露宴に出席するためにスーツを新調した。
とはいえシチュエーションに合わせたのは光沢のある生地を選んだことくらいで、あとは私の好みで作った。落ち着いたネイビーのものを、身体のシルエットに合うようにシャープに、パンツは地味だと言われようがストレートのセンタープレスで。一方で新郎新婦を祝う気持ちはあったから、どうにか披露宴の参列者を装えるようレースのブラウスとネックレスで誤魔化した。
披露宴は立派なものだった。新郎の父親がある企業の社長だったことが理由だ。出席者はシティホテルのいちばん大きなホールが過不足なく埋まるくらいの人数──わざわざ数えやしないけれど、だいたい三〇〇人といったところだろう。私は新婦のそれなりに親しい友人という立場だったが、後日一緒にお茶でも飲めばいいかと思い、挨拶は控えた。
制道院の関係者同士の婚姻だったものだから、あちこちのテーブルから廃校の話題が聞こえた。「寂しくなるね」と誰かが言った。まあ、そんな風にしかまとめようのない話ではある。
私はテーブルの会話に
披露宴のあとは、まっすぐ帰宅するつもりだった。二次会の誘いも受けていたけれど、早急に終わらせたい資料の作成があったし、話したい相手とはテーブルが同じだったから。でもクロークから荷物を受け取ったとき、一通のメッセージが届いた。新婦からのものだった。
──五分だけ話をしない?
とそこには書かれていた。控室で待っているから。
私は受け取ったばかりの荷物を再びクロークに預けて、新婦用の控室に向かった。
中にいたのは、彼女ひとりきりだった。ウェディングドレスのまま椅子に座り、スカートの中で足を組んでいた。
まるで予期しなかった出来事だが、彼女の顔をみたとき、私はふいに泣き出しそうになった。鼻のあたりに力を込めて、どうにかそれを
彼女は綺麗な緑色の瞳で私をみつめていた。
「今日は、来てくれてありがとう」
私も彼女をみつめ返す。「おめでとうございます」と言った声が上ずって、咳払いで誤魔化す。
彼女は疲れたような、でも冷たくはみえない笑みを口元に浮かべている。
「まさか私が、こんなものを着るとは思わなかったよ」
そのことに関しては、まったく同意見だ。
この人のドレスどころか、スカート姿をみたのさえ今日が初めてではないかと思う。記憶の中の彼女は、たいていいつもジーンズかランニングウェアだった。
「でも、似合っていますよ。きちんと幸せな新婦にみえます」
「そりゃそうでしょう。本物の幸せな新婦なんだから」
「幸せな新郎はどちらに?」
「追い出したよ。三時間も見世物になって、少し疲れたからね。ひとりになりたくて」
「それはひどい」
「あっちはあっちで、挨拶をしないといけない人もいるでしょう」
なんにせよ花嫁がウェディングドレスのままひとりでいるというのは、不思議なことのように思う。
もしかしたら彼女には、ふたりきりでなければできない話があって、人払いをしたのではないだろうか。そう予感しながら、私は当たり障りのないことを口にする。
「とても素敵でした。本当に」
「きっとそうなんだろうね。君が泣くくらいだから」
「泣いてはいません」
私はもうずいぶん、人前で泣いていない。最後に他人に涙をみられたのは、まだ制道院に入って間もないころだった。中等部二年の六月。あの日から私は、もう誰の前でも泣かないと決めて生きてきた。
「素直に泣いてくれればいいのに。茅森の涙は、記念になるよ」
「そうですか? 他人の結婚で泣くなんて、橋本さんは嫌いだと思っていました」
私は意図して、彼女を新しい名字で呼んだ。
彼女──橋本さんはほほ笑みを苦笑にして、ドレスの中で足を組み替える。
「昔はね。そもそも、結婚式が嫌いだった。でもやってみると良いものだよ」
「感動しましたか?」
「多少。それにいろいろ、諦めがつく」
橋本さんの声色は、なんだか矛盾を含んで聞こえた。まるでポジティブなため息みたいだった。少なくとも諦めという言葉が、否定的には聞こえなかった。
彼女はすっと笑みを消す。
「君には、謝らないといけないと思っていたんだよ」
「なにを、ですか?」
「ここではない、イルカの星のこと。私はずっと、その結末を隠していた」
言葉だけを取ると、ずいぶん暗喩的に聞こえる。
でも私にとってそれは、極めて直接的な言葉だった。初恋に気づいた瞬間みたいに、ほんの一瞬、私の鼓動が止まったように感じた。
部屋の扉がノックされる。新郎か、ホテルの担当者が戻ってきたのだろう。その音に見向きもせずに橋本さんは続ける。
「一般的な時計は、右に回るね?」
「はい」
「じゃあどうして時計が右回りなのか、知ってる?」
私は首を振る。時計が回る方向の理由なんか、気にしたこともなかった。あの夏の日、考えてもよかったのに。
また、ノックの音。続いて新郎の声が聞こえた。──
「調べてみればいい。すぐにわかる」
彼女はそうささやいて、扉の向こうに返事をした。
*
なぜ、世の中の時計が右に回るのか。
帰りの電車でグーグルに尋ねると、瞬く間に答えが返ってきた。
わかりやすい理由だ。納得感のある理由だ。じっくり考えれば、自分の頭でも同じ答えに思い当たったかもしれない。
だから八年前、私はひとつの結論にたどり着いてもよかった。あの日、彼がどんな風に私を裏切ったのか、どんな種類の噓を口にしたのか、気づくことができたはずだった。なのに思考を放棄していた。
私は坂口孝文を忘れることに必死だった。
ずいぶん時間がかかったけれど、それは上手くいったはずだった。もしも披露宴に彼が出席していたなら、こちらから声をかけてやろうと決めていた。他の大勢を相手にするのと同じように、私は微笑むはずだった。
でも、もう違う。
時計の意味がわかったから、認めざるを得ない。
──私は、あいつが嫌いだ。大嫌いだ。
こんなの許せることじゃない。
◎このつづきは「カドブンノベル」2020年2月号、もしくは
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