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連載

河野 裕「昨日星を探した言い訳」 vol.9

境界線を消したい少女と、境界線に抗う少年の、ボーイ・ミーツ・ガール! 河野 裕「昨日星を探した言い訳」#1-9

河野 裕「昨日星を探した言い訳」

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 綿貫の話は、おそらく事実なのだろう。
 授業中、坂口孝文の様子をみていると、はっきりわかることがあった。彼は歴史の授業のみペンを手に取らない。教科書さえ開かず、じっと背筋を伸ばしている。私はその理由を知りたかった。
 五月のある日、私たちはふたりきりで図書委員の当番になった。
 正直なところ、私は少し緊張していた。坂口孝文は、私にとってもっとも理解できないクラスメイトだったから。
 ゴールデンウィークを終えて一週間ほど経ったその日、図書館を訪れる生徒は少なかった。坂口は真面目な表情で貸し出し当番をしていたけれど、やがてカウンターに片側の頰をおしつけて寝息を立て始めた。彼はどちらかというと幼い顔立ちだが、寝入ってしまうといっそう幼くみえる。
 私はしばらく、生徒たちから届いた図書館への要望──大半が購入する本の希望だ──を整理していたけれど、そもそも数があまり多くなかったこともあり、すぐに手持無沙汰になった。閉館の時間までは貸し出しカウンターを離れるわけにもいかなくて、あとはぼんやり坂口を眺めていた。
 彼ののんな寝顔をみていると、なんだか苛立つ。それで、ふと、こちらを向く柔らかな頰にサインペンで落書きをしてやってはどうだろうと思いついた。それはとてつもない名案のような気がした。
 でも、いったいなんと書きましょう。ばか、では品がない。ちび? 彼は私よりも背が低いけれど、まあ、平均よりやや下くらいだ。それに身体的な特徴を笑いものにするのはよくない。迷いつつ、私はカウンターの筆立てにあったサインペンを手に取って身を乗り出す。彼が小さなうめき声をあげて、それで私の肩がぴくんと跳ねる。「坂口くん?」と小声で呼んでみる。返事はない。まだ眠っているようだ。
 私はとくに考えもなく、思い浮かんだ言葉をそのまま彼の頰に書く。
 ──どうして。
 どうして、テストを白紙で出したの? どうして、図書委員に立候補したの? どうして、私を避けも嫌いもせず、気にする様子さえないの?
 サインペンがくすぐったかったのだろう、彼はううんと息を漏らして、二の腕で頰をこする。私は慌ててサインペンを筆立てに戻す。間もなく坂口が身体を起こした。ばれていないだろうか。どきどきしていた。この私が、なんて子供っぽいことを。
 平静を装って、彼の名前を呼ぶ。
「坂口くん」
 なに、と応えた彼の声は普段よりも綺麗に澄んで聞こえて、でもその頰に「どうして」とあるのがしい。
 落書きに気づいたとき、彼はどんな顔をするだろうか。まだどきどきが続いていた。

 なんとなくの成り行きで、閉館後、私たちは共に本棚の整理をすることになった。
 小説の類が管理されている部屋に移動した坂口は、一冊の本を抜き出し、辺りを見回した。彼の手元にある本は、本来棚のいちばん上の段にあるべきものだ。
「貸して。私がやる」
 と私はつい、口にしていた。別に間違ったことを言っているつもりはないけれど、もう少し言葉を選んだ方がよかっただろう。馬鹿げた話だが、手助けにも気遣いが必要だ。相手が男子で、それが身体的な手助けであれば、この傾向はより顕著になる。
 だが彼は、気にした様子もなく本を差し出す。
「ありがとう」
 彼の態度はいつもフラットだ。私にしてみれば、本来は当たり前の反応。でもいくつもの前提が、当たり前ではなくする反応。
「貴方は、不思議ね。プライドが高そうなのに」
 思ったことが、そのまま口から出た。彼といると私の方まで、言動が無防備になってしまう。よくないことだ。私は──少なくとも、同級生の前では──徹底して強くあろうと決めているのだから。
 坂口はじっと私をみつめただけだった。その視線で、先を促された気がして、私は続けた。
「プライドが高い人は、まだ私を無視するでしょう? とくに、こんな風に、できないことをやってあげようとしたときには、たいてい怒った顔になるもの」
 それで初めて、彼の顔に感情が浮かんだ。小さな、だが確かな怒りだ。くつに入り込んだ砂利のひと粒みたいに、私はそれを無視できない。
 どうして。私は坂口をめたつもりだったのに。
 彼は言った。
「高いよ。だからだろ」
 その短い言葉で、ころんと靴から砂利が転がり落ちる。
 みくびるな、と彼は言っているのだ。こんなに当たり前のことで、僕を評価するな、と。私はその気持ちに、ひどく共感していた。私が同級生や一部の先生や、それに類似した世の中の多くのものに向かって言いたかったことは、そのまんま彼の言葉だった。
 私を苛立たしげにみる目。私から背ける顔。本当にくだらない陰口。まるで悪臭みたいに私を覆うもの。奴らに対するもっとも効果的な攻撃は、プライドを刺激することだと知っていた。でも、こんなことで苛立つなんて、なんて安っぽいプライドだろう。自らの価値をおとしめているのだろう。もう少しまともなプライドを持てよ、と私は叫びたかった。手助けされたなら内心がどうであれ笑って感謝するような。簡単に攻撃的になる感情を胸の奥に閉じ込めて飼いならすような、まともなプライドを。それは若草の家にいたころ、私自身が持てないでいたものでもあった。
「やっぱり私のライバルになるのは、坂口くんじゃないかって気がするな」
 そうささやいて、思わず笑う。
 坂口孝文は本当に、私が認められる相手なのだろうか? それを試すような気持ちで、言ってみる。
「私には目標がある。ずっと先まで」
 小さな声で、彼は応える。
「総理大臣」
「それも目標のひとつではある。でもゴールじゃない」
「じゃあ、ゴールは?」
「人類の平等」
「本気で言ってる?」
「私、噓をついたことがないの」
 なんて、もちろん噓。でも、本当でもある。私はもう自分が望まない自分を演じない。自分を裏切る噓を口にしない。
 坂口はじっと私をみつめているばかりだった。少なくとも、こちらを馬鹿にしたような雰囲気はなかった。私は続ける。
「なんにせよ、もっと間近な目標もある。私はとりあえず、この学校の生徒会長になる」
「そう」
「だから高等部に進級するときの、代表の挨拶は私がする。知ってる? 過去二〇年間の生徒会長は、半分が進級時の代表に選ばれてるの」
「頑張って」
 と彼は、クールに告げた。
 でもそれは私が求めている反応ではない。綿貫から話を聞いたときの苛立ちがよみがえる。
「貴方も頑張って」
 もっと違う理由で私を苛立たせて。危機感を抱かせて。できるなら、全力で打ち倒すべき相手でいて。私はくだらない同級生たちの上に立ってやろうと決めている。でも、競い合える相手がいた方が、勉強がはかどる。
「ここに来る前に、色々調べてみたんだよ。制道院の同級生じゃ、坂口くんに勝てれば、私がいちばんだと思っていた」
 彼の瞳は、まだ私に興味を持っていなかった。
「そう」
 とだけ呟いた彼の声は、ずいぶん冷たく聞こえた。
 私は本題を切り出す。
「どうして、テストを白紙で出したの?」
 彼は、その質問には答えなかった。ずいぶん待ったけれど、黙って私をみつめているだけだった。
 その真剣な表情に、つい笑う。
「ほっぺた、汚れてるよ」
 どうして。私は胸の中で繰り返した、その言葉を指さした。

#1-10へつづく
◎第 1 回全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます!


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「カドブンノベル」2020年1月号


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