米澤穂信「遠雷念仏」
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※本記事は連載小説です。
前回までのあらすじ
本能寺の変より三年前、天正七年六月の頃。織田信長に叛逆し、摂津有岡城に籠城する荒木村重は、宇喜多直家が織田方に寝返ったことで、戦いの終わりが近いと感じていた。家中の者に秘して、明智光秀に降伏の口利きを依頼する使者を出したが、光秀の家臣から物 質 として、茶壺「寅申」を要求される。愛蔵の名物を手放す決断をした村重だったが......。
詳しくは 「この連載の一覧」
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4
時ならぬ
「何事ぞ!」
だだっ、と足音を立て、
「申し上げます!」
女の声であった。村重はわずかもためらわず、
「許す」
と告げる。襖が開くと、
「
「そうか。おぬし、名は」
「
「よし。おぬしはここで千代保を守れ」
「は。必ずや」
千代保と目を合わせ、村重は「案ずるな。すぐに人を
外廊下から見れば、
「殿」
「曲者と聞いた。幾人か」
「おそらくは、一人。申し訳ござりませぬ、見失ってござります」
「なに、しょせん
御前衆を前に立て、村重は板の間へと向かう。行き会う別の御前衆に書院の
「曲者、追い詰めましてござる。天守近くの
「よし。
「は」
ぱっと駆け出す十右衛門の後を追うように、村重は草履を履いて庭に下りる。月のない夜である。付き従う御前衆が、たちまち
闇夜に黒々とそびえる天守の下に、兵どもが多く集まっている。松明を手にした者も多く、あたりは夜を欺く明るさであった。兵は、たかの知れた小藪に
村重が命じると、包囲の一角が開いた。御前衆に自らを守らせつつ、村重は藪の前へと進み出る。藪が揺れ、松明に照らされ何かが光った。
「お気をつけくだされ」
と、ひとりの武者が村重に声をかける。眉目秀麗な若武者で名は
「きゃつ、かなり遣いまするぞ」
四郎介は達人と言っていいが、
「この
もとより村重は、
「笑止。
弥介とは、村重の
「さあ、出たがどうする」
村重よりも、まわりの兵がいきり立った。いまにも鑓を突き出しそうな兵たちを手ぶりで収め、村重は男の顔を見る。村重を罵るのに池田の弥介という言葉を使うからには
「おぬしは」
村重ははたと思い至った。
「
名を言われ、男の腕から力が抜けた。ぶらりと下げた刀を
「摂津守様がそれがし
年の頃は三十がらみ、分別と無鉄砲が同居したような顔をしている。
「善助」
と、村重が呼びかける。
「何をばせんとて参ったか。黒田が寄せ手に加わっておるとは聞いておらぬ」
「何をと仰せか。知れたこと」
善助は皮肉に笑った。
「殿のご存命を確かめ、まことならばお救いに参った。……他にござるまい」
村重は、善助を狙う鑓、弓、鉄炮そのほかあらゆる武具を見て、言う。
「一人でか」
「さ、それは申せぬ」
仲間がいるのであれば、善助は仲間を
匹夫の勇と言うほかなかった。黒田官兵衛はたしかに、この本曲輪に
居並ぶ兵たちも、気勢を削がれたように武具を下ろしていく。勇を貴び勇者を敬うことは、抜きがたい武士の心根だ。有岡城の兵たちは、善助に勇を見ずにはいられなかった。
「そうか。官兵衛を救いに参ったか」
村重がそう
「摂津守様。殿は、生きておいでか」
村重は迷い、答える。
「……生きておる」
「生きておいでか。殿は、官兵衛様はまことに生きておいでなのか」
無言で、村重が頷く。
途端、善助は両の手で面体を覆い、おおと声を上げた。かれは泣いていた。泣きながら、善助は叫んだ。
「なにゆえ──なにゆえ、殺して下さらなんだか!」
「殿はこの有岡城に行かねばならぬと決まった折、
村重は、ことばを返すことが出来なかった。善助はなおも叫ぶ。
「殿は有岡城に向かい、戻っては来られなかった。殿は生きているという風聞が立った。摂津守様、それを信長がどう聞くか、御了見はおありだったか。我ら黒田家中は日々息を詰め、今日は殿が戻らぬか、さもなくば首になって戻らぬかと待ち申した。殿が討たれれば忠義の討死、黒田家に浮かぶ瀬もござったものを、なしのつぶてでは……」
善助が天を仰ぐ。糸のように細い月が、かぼそい光を地に投げかけている。
「信長は、殿が有岡に味方したと見たぞ。さもあらん! 生きて、
黒田家は、播磨の国人
仮にその訴えが認められても代償は求められただろう。──官兵衛は一人息子の
「摂津守様、ご存じか。信長は若を、松壽丸さまを殺したぞ。黒田は絶える!」
村重は黙していた。
この戦は
一方、村重は、官兵衛を捕らえることで松壽丸が殺されることになるとは、露ほども考えていなかった。松壽丸はたしか、十歳であったろうか。もし、官兵衛を殺していれば松壽丸は生かされるとわかっていたら、おのれはどうしたであろうか。
考え尽くして決したことには、結果はどうあれ、村重が悔いることはない。だが、考えが及んでいなかったことには──薄い、紙のように薄い、悔いが残る。
それでも村重は、将として、言わねばならなかった。
「下郎め。知ったことではないわ」
「村重ッ!」
「端武者ひとり、殺すに及ばぬ。縛り上げ、旗屋にでも放り込んでおけ。手に負えぬようなら斬っても構わぬ」
村重は善助に背を向ける。兵らが善助に殺到し、怒声が夜をふるわせる。
屋敷に戻り、小者に手伝わせて鎧を脱いでいく。郡十右衛門が訪れ、
「兵どもを下げてよろしゅうござりますか」
栗山善助の騒動で、本曲輪を警固する兵だけでなく、非番の兵たちも本曲輪に入っている。そうせよ、と言いかけて、村重は暫時ためらった。十右衛門が眉を寄せて
「殿、いかが」
「いや……」
善助が忍び込みに
「……御前衆に
「は。御意のままに」
十右衛門は問い返すこともなく、村重の命を受けて下がっていく。鎧を外し、肩の軽さを覚えながら、村重はふと、十右衛門を呼び戻したい衝動にかられた。無辺に警固をつけなかったのは、なまじ兵をつければ、大事の用を命じたと露見しかねないからであった。それがいま、決めたことを変えて、兵を出した。短慮であったろうか。
采配に迷いが生じている、と村重は気づいた。ぐいと腹に力を入れる。
断を翻したのではなく、誤りを正したと考えるべきだ。迷うな、死ぬぞと、村重は自らに言い聞かせる。
夜は更けていく。